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2017 年4月23日

「あなたがたと共にいて」      イザヤ書65:17-25、マタイ28:11-20
                            関 伸子 牧師

 主イエスの墓の番をしていた番兵たちは、急いでエルサレムに帰り、祭司長たちにイエス・キリストの遺体がなくなったこと、恐ろしい出来事が起こり、天使が現れ、「イエス・キリストが復活した」と告げたことなどを、その目で見たとおり報告しました。そういう意味では、皮肉なことに、この番兵たちの報告が、最初のイエス・キリスト復活宣言であったと言えるでしょう。この証言を聞いた祭司長たちは、兵士たちを丸め込もうとしたのです。ということは、祭司長たちも、何らかの意味で、イエスの復活を信じたということではないでしょうか。
 さて、今日のテキストのもうひとつの話は、復活されたイエス・キリストがガリラヤで弟子たちの前に現れた物語です。ここに「疑う者もいた」と記されています。復活というものがいかに受け入れがたいものであるかを示していると思います。
 皆さんの中には、山登りが好きだ、という人がおられると思います。中には、同じ山に何度も登った、という人も多いと思います。同じ山に再び登ると、あの時はこうだったなあ、という思い出がよみがえってきます。主イエスの弟子たちも、そうだったのではないでしょうか。
 16節に「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておられた山に昇った」とあります。主イエスと山、と言えば、真っ先にエルサレムのそばのオリーブ山が思い浮かぶのですが、ガリラヤの山とはいったいどこの山でしょうか。定かには分かりませんが、一つ思い当たる山があります。マタイによる福音書5~7章に〈山上の説教〉と呼ばれるまとまりがあります。主イエスが弟子たちと共に、群衆を引き連れて山に登り、山の上でいくつも説教をなさった場面です。弟子たちが昇った山は、その時の山だったのではないかと思います。
 ガリラヤの山に登った弟子たちは、そこで復活した主イエスに会い、主イエスを神として礼拝したのです。彼らはイエスにひれ伏しますが、疑いも生じています。この「疑う」という言葉は、もともとは、「二つに分かれる」を意味し、新約聖書ではもう一度だけ14章31節で使われています。夜、イエスが湖を歩いて弟子たちの舟に近づいたとき、ペトロは舟を出てイエスのもとに行こうとしますが、風邪を恐れておぼれかけると、イエスは「なぜ疑ったのか」と叱ります。ペトロの心は二つに分かれてしまいました。イエスのもとにいたいと思う一方で、現実に恐怖を覚えています。このような状態が「疑う」という言葉で表されています。
 疑うことは、必ずしも悪くはありません。このあと弟子たちは「本当に、あなたは神の子です」と告白していますから、「疑う」ことが告白へと高まることもありえます。今日のマタイ福音書でも、疑う弟子たちにイエスが近寄ります。イエスは疑いを乗り越えた者に近づくのではなく、疑いを残す者に近づきます。この近寄るイエスの言葉が弟子たちの疑いを乗り越えさせます。
 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(18~20節)。これが、マタイ福音書に記されている主イエスの最後の言葉です。主イエスは、ここで三つの命令を語られました。
 第一は、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という命令です。「伝道」とは、ただ信者を増やすことではなく、人をこのイエス・キリストに向き合わせ、その弟子となって、新しく生き始めるように促すことです。第二は、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」なさいということ。イエス・キリストの弟子になったら、洗礼を受けます。洗礼を受けるとは、正式にイエス・キリストの弟子になることです。「あなたは正式な門下生です」と、しるしをつけてもらうのです。自分の信仰に責任をもって歩むということが、そこから始まります。第三は、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」ということ。キリスト者の歩みは、洗礼で完成するのではありません。むしろそれは第一歩であって、そこからイエス・キリストの教えを学びつつ、共に歩んでいくのです。
 そしていよいよ最後の最後の言葉です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。三つの命令があると言いましたが、ただ単に命令されるのではありません。イエス・キリストが、それを実現する力を与えてくださるのです。それは、イエス・キリストこそが「天と地の一切の権能を授かって」いて、そのイエス・キリストが世の終わりまで、いつも私たちと共にいてくださるからです。
 マタイは、天使がマリアの夫ヨセフにイエス・キリストの誕生を告げた時に、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と語り、この名は「神は我々と共におられる」という意味である、と説明しました(マタイ1:23)。神が共におられる徴として、イエス・キリストがこの世界に送られたのです。そういう意味では、マタイ福音書は、「神が共におられる」「キリストが共におられる」という二つの約束にサンドイッチされた書物であると言うことができます。
 主イエスは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)と約束してくださいました。私たちがキリストの愛とともに歩むことを願い、キリストを愛し、互いに愛し合うならば、主イエスは私たちと共にいる。私たちの教会に、キリストの愛を満たしていただき、キリストが共にいてくださることを信じて歩んでいきましょう。わたしたちも、イエス・キリストの弟子となり、洗礼を受け、主の教えを守り、「神は我々と共におられる」という約束と共に、歩んでいきましょう。お祈りいたします。 
# by higacoch | 2017-04-24 09:58 | マタイ