5月14日 「あなたも神への道を知る」 ミカ書7:8-10、ヨハネ14:1-14
関 伸子 牧師 ヨハネによる福音書第14章1節から14節までのみ言葉の内でおそらく最もよく知られているのは、6節の「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」というみ言葉だと思います。 この主イエスの言葉を導き出したのは、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」という弟子トマスの問いでした。この後フィリポはやはり、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」とお願いをした。 トマスもフィリポも弟子です。主イエスには12人の弟子がいた。なぜあなたはこの方の弟子ですかと問われれば、この方に呼ばれたのだ、この方について来いと言われたのだ、だからわたしはついてきている。それは共通のことです。トマスは主イエスの傍らにあって力強く福音を説かれる主のみ言葉を聞き続けていた。それがもう聞かれなくなる。何千人という人びとに主イエスがパンを分け、魚をお与えになる。いくら配っても、次から次へとパンがあふれてくるような籠を手にして配ったその時の感触をトマスは忘れることができない。その主イエスのみわざはもう見られなくなる。ラザロの墓に向かって「ラザロよ、出てこい」と言われたあの叫びはもう聞こえなくなる。その時ラザロの姉妹たちマルタ、マリアは、ラザロが死に瀕した時にイエスがいてくださらなかったことを深く嘆いた。だから後からやって来られた主イエスに「あの時いてくださったならば」と涙ながらに訴えている。 主イエスは、トマスに対して「わたしは道であり、真理であり、命である」と、トマスのこの問いがなかったならば聞こえなかったかもしれないこの真理を告げていてくださる。 トマスと同じようにフィリポもまた、愚かな願いと言われるものを述べた。それに対しても主イエスは丁寧に語っておられます。そしてその言葉の最後にはこういう言葉があります。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」。不思議な言葉です。あなたがたがしているわざは、わたしが地上で行ったわざよりも、遥かに大きい。主がそう言われたのです。そして、その大きなわざを行うために必要なこととして、13節、14節に、繰り返して約束してくださいました。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」。祈りへの勧めです。 ヘンリ・ナウエンというカトリック司祭がいました。アメリカで教えていましたが、カナダでラルシュ共同体のために働きました。このナウエンが書いた『イン・メモリアム』という名の追悼の文章を読みました。司祭ですから、母の死に立ち合うことができないことが多いのですが、それが許され、家族と共にみとり、臨終に立ち合うことができました。母は信仰と愛に満ちた人であったと書いています。ある日、母が祈っているのに気づいた。「おお神よ、わたしの神よ、わたしの父よ、わたしの神よ」。母はこの言葉をこれまでにも何前回となく口にしてきたに違いない。今こそ、ただ神を呼び続ける言葉が母の存在そのものから溢れる祈りとなっている。 アメリカの社会はまるで神などいらないみたいに生きている。しかし現代のアメリカ、現代の世界はその最も深いところで病んでおり、苦しんでおり、愛を失っている。今夜あなたは家にいますか?と必ず尋ねられるそうです。そこにナウエン司祭がいてくれないと落ち着かない人たちがいるのです。ナウエンは、道徳では人は救えないとはっきり言っています。道徳ではなくて何か。神秘だと書くのです。神と向かい合っているところに生まれてくるミステリーだけが救いとなります。 主イエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言ってくださいました。そして祈ったら聞かれると言ってくださいました。信じることは祈ることです。そこで主イエスは続けてこういうふうに言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」。ここに「住む所」と訳されている言葉は、この基になっている動詞はヨハネによる福音書が最も頻繁に用いている言葉です。たとえば第15章2節に「わたしにつながっているなら」という言葉から始まって、以下ずっと続けて読んでいくと、「つながっていなさい」、「つながっていれば」、という言葉が連続して出て来ます。これは皆、原文では「とどまる」という言葉です。しかし、トマスに対しては、トマスが愛のおきてを守る以前に、既にとどまる場所が父なる神の所に用意されていると告げられました。 ペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」と問うけれども、これを問わなくて済むようになった時がくる。それは第21章が語っている、甦りの主がペトロに「あなたはわたしを愛するか」と三度お問いになった時だ。愛の告白を求めては、「わたしの小羊を養いなさい」とおっしゃってくださったその言葉です。ナウエンはそのペトロと自分の姿を重ね合わせます。つまり自分もイエスの弟子だ。イエスに従って殉教の死をとげたペトロと同じだ。それを、深い謙遜の思いをもって受け入れるのです。そして初めてハーバード大学という名門の大学の教授であったときには知らなかった安息と、本当に自分は神のお役に立っているという喜びを知るのです。 そして私たちに呼びかける。あなたもそのように主イエスの弟子になることを求められているのではないか。伝説によるとトマスもまた、インドにまで行って伝道をしたと伝えられています。主イエスがここで、どんなに深い思いでそのすべてをお語りになったか。そしてそれによってどんなに深く私たちが、今、生かされているか。これは主イエスがなさったいかなる奇跡にもまさる奇跡と言うことができると私は信じています。お祈りをいたします。 #
by higacoch
| 2017-05-14 18:22
| ヨハネ福音書
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