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2008年11月2日

「仕える愛に生きる自由」  詩編24:1-6, コリント一、10:23-11:1

 今朝の箇所では、食物の問題が取り上げられています。今、私たちの現代社会でも食の問題がとり沙汰されています。当時は宗教的な規律による食物のタブーがありました。ここコリントではギリシアの神々を祭った多くの神殿やローマ皇帝を祭った神殿があり、そうした神殿に供えられた動物の肉類が払い下げられて、町の市場に多く出回っていました。そこで異教の神に供えられた肉類を食べることの可否をめぐっての問題が教会でも生じていました。パウロはこの問題に触れて、大前提として「すべてのことは許されています」と言い、続けて「しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない」と言います。ここで「私を」ではなく、「私たちを」造り上げるわけではないと言っています。ここに注目したいのです。「私」ではなく、「私たち」、これは教会のことなのです。どんなときにも、各個人が自分の信仰理解を人に教え諭すばかりだと、教会を造り上げることはできないということです。つまり信仰の弱い人を叱咤激励し、早く信仰を強く、熱心にすることではなく、そうした信仰の弱い人を顧みて、そうした人と共に生きることをパウロは勧めているのです。だからパウロは、「人々を救うために、自分の益ではなく、多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしている」と言い、前章(9:19)には「わたしは誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」と言っています。
  この言葉はルターの「キリスト者の自由」の論拠となりました。ルターは、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。それと同時に、キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。」と語っています。そして結論として、キリスト者は自分自身のために生きるのではなく、キリストと隣人とに仕え、愛をもって仕える者であると教えています。つまり、キリスト者の自由は、何々からの自由という束縛からの解放だけではなく、否むしろ、何々への自由、隣人に向かい、隣人に仕える自由を言うのです。
 これはまさにキリストが私たちに示された愛による自由なのです。その自由によって、私たちは何よりもまずキリストによって愛されたのです。私たちは愛され生かされている者として、隣人に仕える者になるようにと導かれています。愛をもって生きるものでありたい。どんなに小さなことであっても、キリストに倣う者となり、隣人に仕える愛に生きる自由をもって歩んでいきましょう。
by higacoch | 2008-11-10 11:51 | コリント
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