2017年4月2日

「仕える者になる」       エレミヤ書15:15-18、マタイ20:17-28
                           関 伸子 牧師 
 アガサ・クリスティーの『ベツレヘムの星』という短編集を読んで、私の心に残った一つの短編があります。「水上バス」という表題です。
 主人公は、ミセス・ハーブリーヴスという婦人です。このハーブリーブスさんは信仰があり、自分は人を愛さなければならないのだということをよく知っていた人です。慈善事業によく献金をする。アフリカの修道女の働きを聞けば感動して献金を送る。自分もそうしたい、と願う。ところが、この人にとってどうしてもできないことがありました。それは、本当の愛に生きることができないということです。人に触られるのがいやだし、人に自分の体が触れるのものいやなのです。
 それはちょうど、インドの最も貧しい人びとの住む地域で奉仕をしたマザー・テレサとは正反対だ、と言ってもよいだろうと思います。このマザー・テレサの言葉に、「不幸な人びとの面倒を見るよりも、人を愛することが大事だ」という不思議な言葉があります。いったい、本当に愛するということはどういうことなのでしょうか。マザー・テレサの言葉で言うと、愛するということは、ハンセン氏病患者に「触れること」なのです。遠くから見ていることであったり、その人のために金を恵んであげたりすることではなくて、その人に触れることなのです。アサザ・クリスティーが描く英国の婦人ができなかったことは、まさしくそれでした。
 ところで、どうしてこの婦人の話が「水上バス」などという題名で書かれているのでしょうか。ある日、それこそ、いやでも人に触り触れられたりして、すっかり参ってしまったこの婦人が、無人島に行きたいと思ったというのです。ロンドンに無人島はありません。仕方なくテムーズ川に浮かぶ水上バスに乗るのです。しかも寒い風が吹いている。風をよけて船客は、みな船尾の方に集まっているのです。船首の方にはたった一人の男しかいない。彼女はその前の方に回る。その先客を見ると、東洋の国の人らしい。ラシャの生地のような一枚織りの布を身にまとっている。どこかの国の人だろうと思いながらこの婦人は、その人の着ている上着のすばらしさに心が惹かれるのです。そして、ふとその上着に触れるのです。結局、彼女は、その人が誰であるか顔を見ることができませんでした。しかし、その人に触って、バスを降りた時に、初めて、彼女は変わったのです。温かさと幸福を知ったのです。
 マタイが語っている、主イエスの歩みを私たちは、読み続けることによって、そのキリストの歩みの中に私たち自身がひきずりこまれ、私たちも主イエスに触れることができると信じます。
17節から19節までに、主イエスご自身が語られた三回目の受難の予告が記されています。私たちは、ここにある主イエスの予告を、しばしば〈受難予告〉と呼びます。そのために。主イエスが、甦りをも告げておられることを忘れるのです。
 しかし、ここで、この主の勝利の預言をも聞き取った人びとがいます。それは、ゼベダイの子たちであり、その母です。ここでは、この母は「その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした」とあります。この「ひれ伏し、何かを願おうとした」という書き方は、たとえば王に対する心から尊敬の姿勢を示します。「何が望みか」と主に問われて正直に言いました。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」。
 「イエスはお答えになった。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか』」。この「杯」とはいったい何か。私たちはよく知っています。これから後、やがて読み進めると、主イエスがゲッセマネの園で、このヤコブ、ヨハネ、そしてまたペトロ、三人の弟子たちを連れて行き、神に祈りました。マタイによる福音書では、第26章の39節にその主の祈りを記しています。その祈りは三度も繰り返されたとあります。三度も「この杯を勘弁してください」と祈られた、というような杯です。
 エレミヤ書第25章15節にこう書いてあります。「それゆえ、イスラエルの神、主はわたしにこう言われる。『わたしの手から怒りの酒の杯を取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々にそれを飲ませよ。・・・』」。この「杯」は、神の怒りを、まともに飲まなければならないという苦しみを表します。主イエスは、ここで、まさしく、神の怒りを自ら負うところにご自分を置いたのです。それが、キリストの飲む杯でした。
 主イエスが言っておられることは、わたしが多くの人の贖いとして自分のいのちを与えるのと、そっくり同じような奉仕をあなたがたはするのだと言われたのです。 私たちは今ここでしているのは〈礼拝〉と言います。ご存知のように、英語でサーヴィスと言います。「奉仕する」ということです。私たちは、このサーヴィスとしての礼拝は、私たちが神にお仕えすることだと考えます。
 主イエス・キリストは、こう言われました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためにではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」。
 主イエスが、ここで語られたことに、それこそ、幼な子のような素直な心で、立ち帰らなければならないと思います。神の支配の中で、真実に大きくなれる者は、真実に、自分を小さくして、人に仕えることに喜びを知るのです。私たちも、主イエスに触れたいと願います。その主イエスの恵みの事実に触れ、仕える者になりたいと思います。お祈りいたします。
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by higacoch | 2017-04-02 18:48 | マタイ
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