2017年3月12日

「神の国の到来」         エレミヤ書23:23-32、マタイ12:22-32
                           関 伸子 牧師 

 「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも赦されることがない」。今朝与えられている、マタイによる福音書、第12章32節に繰り返されている主の言葉は、福音書に記されている言葉のうちでも、最も難解なものの一つとされています。それは、こともあろうに主イエスが、「赦されない罪がある」と言っておられるからです。
 物語の発端は、目も見得なければ、口もきけない、悪霊に取りつかれた人の存在です。口もきけなければ、当然、耳もよく聞こえなかったかもしれません。二重苦、三重苦の虜になっている人がいた。それをイエスはお癒しになったのです。23節に「群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか』と言った」とあります。この「驚いた」という言葉は、「我を忘れる」という言葉です。我を忘れて、問わずにおれなかったのです。その時に我を忘れていない人がいたのです。それがファリサイ派の人々です。なぜかと言えば、自分たちこそ神の言葉を持っているからです。
 主イエスは、そこで大変はっきりした論争を挑まれます。25節以下です。悪魔でさえも、自分たちの国を大切にする。仲間割れして、自分の国が分裂し、滅んでしまうようなことは、悪魔といえども欲することではない。
 二股かけるということはできないのです。だから、明瞭な言葉が30節にあります。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」。いったい、神の国に生きるということは、どういうことなのでしょうか。
 みなさんもよくご存知だと思いますが、マザー・テレサは、1910年にユーゴスラビアに生まれ、志を与えられて、インドのカルカッタに派遣された修道女です。そして、カルカッタで働いているうちに「ミッショナリー・オブ・チャリティー」(神の愛の宣教者たち)というグループを作りました。このマザー・テレサについては、カトリックの女子パウロ会が刊行した、マルコム・マゲリッジというイギリスのジャーナリストが書いた『マザー・テレサ』という書物によって紹介されています。
 このテレサの一つの仕事は「死を待つ人のホーム」というのを作ったことです。これは、かつてある偶像の神に捧げられていた、神殿のようなものですけれども、それを貫き受けて、そこに、路傍に倒れていた人びとを運んだのです。昔の神殿ですから、なかは暗くて小さな窓が、上の方にあるだけで、テレビの撮影技師は、こんなところで写真を撮るのは、無理だと言って断るのです。ところが、後で実際に、それを映してみたところが、外の世界のどこを写しているよりも、その場面が明るく、美しく、感動的であったのです。この夢中になっている英国のジャーナリストは、23節の「群衆は皆驚いて言った」という、この驚きに重なる驚きに生きている、と言ってもよいと思います。
 マルゲッジが書いたテレサについての書物の表題は、日本語では単純に『マザー・テレサ』ですけれども、英語では“Something Beautiful for God”というのです。『神のためのうるわしきこと』です。これが、マザー・テレサが一番好きな言葉です。「さあ、私たちはこれから〈神さまの役に立つうるわしいこと〉を一つやろう」。そう言って、町に出て行くというのです。それは、神が主イエスにおいて、美しいわざをしてくださった、それを映し出し、それを放射するだけのことです。
 主イエスは言われます。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。もう来ているのです。それこそ、我を忘れる程に、すばらしい神のわざに参与することがここに始まるのです。
 『マザー・テレサ』を読んでいると、つくづくそのことを感じます。この人は退屈を知らない。しかも、あえて深刻そうな顔もしない。ニコニコしている。神の国が始まったことを信じ切っている。あるカトリックの聖職者の話ですけれども、その人は、田舎の小さな農村の教会の司祭として、最後まで生きた人です。自分のためには財産を蓄えません。文字通り裸になります。けれども、熱心に献金を募ってでも、一所懸命に心掛けたこと、それは、ただ貧しい人びとのために働くことだけではありません。ミサのための用具には金をかけたのです。一番良いものをもって、礼拝の道具は調えたのです。マザー・テレサもそうです。マゲリッジが、かなりのお金を送ったところが、さっさとミサの用具を買い調えて、マゲリッジに「ごめんなさい」と言って、手紙を書いています。テレサの生活を読むと、毎朝、4時半に起きて礼拝をします。主イエスの十字架の愛を確認します。主イエスの甦りの中に立ちます。主イエスが、神の霊をもって、神の国が、今ここにもたらされたと言われた時、主はこの神の霊による悪霊との闘いは、愛の闘いであるがゆえに、ご自分の死をも招くことであることを、すでに覚悟しておられたのです。こんなことを言えば、それだけ自らの死を近くに招くだけのことでした。しかし、神の恵みの霊は、そのようにしてしか、私たちを捕らえないものであることを、主イエスは明確に知っておられたのです。だからマザー・テレサは自分の愛の奉仕を誇りにはしないのです。自分を生かしている、主イエスを指し示すだけです。主イエスの恵みの光が、いま私から光輝いているだけなのです。カメラマンは来ても、私だけを撮らないでください、あの人も、あの人も主の喜びの中で生きているのですから、と言って共に働くインドの娘たちを、カメラマンの前に立たせるのです。私たちも、同じ恵みの中に生かされているのです。私たちも、同じ主イエスの見方になることができるのです。誰でもやっているような、小さなわざをしているだけのことであっても、そこに、主において始まった、神の霊による神の支配があるのです。聖霊を汚す言葉を語るまいと決心したいのです。それは、この主の恵みのわざを、拒否することであるからです。お祈りをいたします。
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by higacoch | 2017-03-13 09:31 | マタイ
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