2017年3月5日

「何によって生きるか」          申命記8:1-20、マタイ4:1-11
                            関 伸子 牧師 

 今朝私たちに与えられている聖書の記事は、主イエスの「荒野の誘惑」と題されることの多い、名高い物語です。この荒野の誘惑そのものの物語よりも、もしかするともっと広く知られていると思われる聖書の言葉が4節に出てくるからです。「人はパンだけで生きるものではない」と主イエスがここで言い切られました。それは、主イエスがひとつの決断をなさったということです。
その決断とは何か。自分は十字架につくのだということです。この言葉は、主イエスの荒野における誘惑との闘いの中においてです。1節に「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」とあります。この荒野の誘惑に立ち合った人は誰もいません。主イエスがバプテスマのヨハネのところで洗礼をお受けになったことの当然の発展です。第3章15節の主イエスのみ言葉は、「今は留めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。「義」とは、神さまの義であり、また、その神さまの義に見合う人間の義です。
 この主イエスの荒野の体験の背後には、明らかに、旧約聖書の民の信仰体験があります。第一に、出エジプト記の第34章の28節「モーセは主と共に40日40夜、そこにとどまった。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した」。モーセは十戒、律法を神から受けて帰ってきました。しかし、民がその間にすでにモーセを裏切り、神を裏切って金の子牛を拝んで大騒ぎをしていた。モーセはやり直しをしなければならなかった。もう一度シナイの山に登って40日40夜、パンも食べず水も飲まない断食を重ね、神のおきてを神さまによって、書き記し直していただくために過ごさなければならなかった。神の言葉が人びとの心に書き記し直されるため、人びとの罪が、神の言葉がもう一度語り直されるために、モーセは40日40夜の、この苦難を耐えなければならなかった。しかも、このモーセの努力もやがて再び、三度、神の民によって裏切られるのです。裏切られたからこそ、再びこの神の民を神ご自身のものにするために、主イエスがついに、モーセに代わって生まれてこられなければならなかった。そのようなことからすれば、主イエスは第二のモーセです。神の民が神の言葉によって生きることに挫折を繰り返し、希望を失ったときに、神さまのほうでなお忍耐をもって、人の罪を赦してやり直すために来られたのが、この主イエスの歩みだったのです。
 神の言葉はこの世の中で語り直されます。その言葉によるこの世の生活が回復されなければならないのです。そのために主イエスは、モーセのシナイにおける40日40夜の断食をもう一度繰り返されたのです。そのときに、その主イエスを試みる者が、モーセによって与えられた神の言葉を盾に取って試みる。第二の誘惑と第三の誘惑は、いずれも旧約聖書に出てくる教えをわざと用いるのです。そしてあなたが神の子であるなら、その救いはこうであるはずだ、こうでなければならないはずではないかと問うのです。
 私たちが主イエスの「退け、サタン」という、この10節の言葉を読む時、すぐに思い出すことがあります。主イエスがこの後弟子たちをお集めになって、そしてやがてご自分が、弟子たちの待っていたキリストであることを明らかになさいます。弟子たちは、まず最初、それを受け入れました。しかし、主イエスがすぐその後で、あなたが信じるキリストとして、わたしは十字架につけられて殺されるのだと言われました。その時、今主イエスはメシアだと告白したばかりのペトロが、主イエスの裾を引っ張るようにして、そんなことがあっては困ります、そんなことはあるはずはない、と言いました。そして主イエスはペトロに向かって、このサタンに対するのと同じことを言われたのです。「退け、サタン」。サタンと弟子たちとが重なるのです。主はそこで弟子たちからも試みを受けられたのです。主イエスは、そういう意味では、私たちに対しても戦われている。だからこそその愛される人間の、しかも主イエスご自身がよく理解できる切実な救いの期待に対して、そこに救いはないと言い切られたのです。そのために、主イエスはご自身が十字架につけられる道を選ばれたのです。
 この荒野の誘惑を理解するために読むべきもうひとつの言葉は、申命記の第8章の言葉です。モーセに導かれたユダヤの人びとは、パレスチナに到着するまで40年の間荒野で旅をしなければならなかった。その40年の荒野の旅の間に、民は厳しい飢えを体験した。その時に、神さまは民が眠っている間にマナを降らせて、この民を養われた。それとの関連で、「人はパンだけでは生きず」という言葉が3節に書かれているこの民を養われた。それとの関連で、「人はパンだけでは生きず」という言葉が3節に書かれているのです。
 人間は、申命記は神に選ばれた民に向かって、あなたがたが人はパンのみによって生きるのだと言ったときにこそ滅びる、神の民という驕りの中で、神に本当に感謝することを忘れたときにあなたがたも滅びる、いや、あなたがたこそ滅びる、と申命記は言ったのです。だから主イエスは必死になられたのです。私たちが自らの罪のためにですら滅びてはいけないからです。滅ぼしてはいけないからです。その滅びの中にご自分の身を置いたのです。それ以外に、人びとが立つ道はないということを見抜かれたからです。私たちもペトロのように、その主イエスの前に立ちはだかって、「サタンよ」と言われることがないように、主イエスがここから歩み始められたその道を、正しく見抜きながら、主イエスがここで悪魔に対して「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」という聖書の言葉を、もう一度はっきりご自分のいのちを賭けて語り直してくださったことに、深い感謝を表したいと思います。お祈りをいたします。
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by higacoch | 2017-03-06 08:25 | マタイ
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