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2017年1月29日(日)

「愛のヴァイオレンス」      イザヤ書12:1-6、マタイ21:12-17
                          関 伸子 牧師 

 私たちに、この朝、マタイによる福音書に添えて与えられた旧約聖書の言葉として、イザヤ書の第12章を先程、共に聞きました。この章は第11章から続くのです。
 教会にしばらく生活をし、クリスマスを祝ったことのある者は、このイザヤの言葉が、クリスマスの祭りのどこかで、必ず読み聞かせられることを知っています。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで」。それが、私たちの主イエスの出現です。「そのとき」、さらに第11章の6節以下を読みますと、その日、みわざを喜ぶ者たちが感謝をし、歌を歌わずにおられなくなるのです。第12章2節にこうあります。「見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、畏れない。主こそわたしの力、わたしの歌/ わたしの救いとなってくださった」。神が私の歌になってくださる。神を歌うことができる時、それがクリスマスです。
 しかし、こういう歌を聞きながら、私たちは心の中に一つのうずきを覚えます。なぜでしょう。今私たちが生きるこの世界に平和があるかと問わずにはおれないからです。「狼と小羊が共に」と聖書は言います。しかし、小羊同士が喧嘩をしているではないか。狼が、いい気になってのさばっているではないか。私たちは、手放しでこの暖かい思いに浸ることができない思いが、どこかにあります。
 今日は、マタイによる福音書第21章の12節以下を読みます。「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された」(12節)。続けて主イエスは、イザヤ書第56章7節の言葉を引用しつつ、こう言われました。「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている」(13節)。
 1980年に日本で上映された、イタリアの監督であるフランコ・ゼフィレッリという人が作った「ナザレのイエス」という映画を見ました。この映画の中での主イエスは、こん棒のような、よく分かりませんが、大きな柱のような、そんなふうに思えるような物を振りかざして、当たるをさいわい何もかもなぎ倒し、店を壊し、人びとを追い立てておられたのです。このマタイ福音書で、主イエスは、大騒ぎを起こしただけではなく、旧約聖書の言葉を使って、「あなたたちは強盗だ」と言わんばかりです。神殿では、犠牲の動物をささげる習慣になっていましたが、エルサレムに集まってくる巡礼の旅人は、自分の故郷から動物を引いてくることはできませんので、ここでそれを買い求めるのは自然なことでした。ここではユダヤの通貨しか通用しなかったので、それぞれの地域のお金を両替する人も必要でした。ただしよそ者は事情がよくわかりませんし、他に方法もないものですから、足元を見られて高い値段を吹っ掛けられます。このマタイによる福音書は、「皆追い出し」と書いています。あなたがたは神の家、祈りの家を、「強盗の巣」にしている、と言われたのです。この言葉だけでも、本当に激しいものです。映画は、この言葉の激しさを映像化したとさえ思われます。
 ここで主イエスの憤りは、二つのことに向けられています。第一は、「祈りの家」であるべき神殿がけがされていること。第二は、神殿においてさえ、貧しい人々、立場の弱い人々が犠牲にされ、その上にあぐらをかいている人々がいることです。そうした状況に、主イエスの怒りが爆発します。本当の愛というものは、時に怒りとして爆発するほどの情熱を内に秘めているものでしょう。
 この事件に続いて、マタイは主イエスの別の面を記しています。「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた」(14節)。彼らはそれまで、宮の門のところで物乞いをすることは許されたけれども、神の前に出ることは許されなかったのです。しかし、今ここで初めて神殿に入り、主イエスのみもとに集まるのです。
 主イエスの、不正に対する憤りということで、中米エルサルバドルの大司教であったオスカル・ロメロのことを思い起こしました。ロメロの言葉や説教などを集めた本のタイトルがThe Violence of Loveというのです。ロメロ大司教はこう語ります。「私たちはヴァイオレンスを進めたことはありません。キリストを十字架に釘付けにしたままの愛のヴァイオレンスを除いては、私たちの自分本位や、私たちの間に周知の残酷な不公正を圧倒するために、私たち一人ひとりが自らに行使すべき愛のヴァイオレンス。私たちが勧める愛のヴァイオレンスは、愛の、隣人愛のヴァイオレンスであり、武器を打ち直して鎌とするヴァイオレンスなのです」。
 今回の話と同じ事件に基づくと言われるヨハネ福音書の記事では、「弟子たちは『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」(ヨハネ2:17)と記されています。まさにこの愛のヴァイオレンスがイエス・キリストを死に追いやった、ということを語っているのでしょう。社会正義が損なわれ、誰かの人権が踏みにじられるような状況に対して、私たちもまた、こういう激しさをもつことが求められているのではないでしょうか。
 冒頭でお話ししました映画の最後の場面は、主イエスの十字架で終わらず、甦りで終わるのです。しかも、甦られた主イエスが、画面から私たちに向かって、こう語りかけられるところで終わりました。「今から始まる」。主イエスがエルサレムの神殿を捨てて、ベタニアにお入りになったのは、私たちがやり直させるからです。私たちが歌を歌い直すことができるようにするためです。ベタニアは、十字架に向かうイエスの歩みを整える場所です。そしてまた、甦りに向かって、主イエスが歩みを始める場所でもあったのです。お祈りいたします。
by higacoch | 2017-01-30 08:24 | マタイ
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