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2017年1月22日

1月22日 「救いの道」        イザヤ書9:1-7、マタイ4:12-17
                         関 伸子 牧師 

 私たちは、戦後72年、戦争のない生活をしてきましたけれども、今でもイスラエルをめぐるパレスチナの政情は、新しい戦争の緊張を呼び起こしています。〈聖地〉と呼ばれるところが、決して理想郷ではないのです。しかもそこに主イエス・キリストが生まれて、生きて、死んで、甦えられたのです。
 この第4章の12節以下のところに書かれていることは、この福音書記者が、主イエスのそうした歩みを、パレスチナの地において歩まれた歩みを、心をこめて書いている記事です。ここに「ヨハネが捕らえられた」と訳されている言葉があります。この「捕らえられた」という言葉には、特別な意味が込められています。同じマタイによる福音書で言うと、第20章の18節です。これは主イエスが、ご自分が捕らえられ、十字架につけられて殺される。そういう歩みをたどるということを予告なさった言葉ですが、ここに「引き渡される」と訳されている言葉があります。これが、第4章の12節の「捕らえられた」と訳されている言葉と同じ言葉なのです。この言葉はこの後、教会の生活の中において、重要な意味を持つようになります。聖餐に際して読むコリントの信徒への手紙第11章に出てくる言葉も「主イエスは、引き渡される日の夜」という言葉から読み始めるのです。「引き渡される」。人の手に渡される。しかし、人の手に渡されて王位につけられるためではなくて、判決を受けて殺されるためです。
 主イエスの先駆けになった洗礼者ヨハネは、どうして捕らえられたのでしょうか。ガリラヤの地方とそれからヨルダン川の東側の岸のあたりを、その当時支配していたヘロデ・アンティパスという領主がいました。このヘロデ・アンティパスという人は、もう妃がいたのですけれども、自分の兄の妻に恋をして、とうとう奪ってしまうのです。それが有名なヘロディアです。その娘がサロメです。しかも、この自分の妃にしてしまったへロディアと、ヘロデ・アンティパスとは、伯父と姪の関係にありました。洗礼者ヨハネは、自分の兄弟から妻を奪ったこのヘロデ・アンティパスの仕打ちを、はっきり名指しで追及したのです。そして捕まり、やがて、殺されるのです。そこには、明らかにこの世の権力者の、自分に語り掛けられる神の正義の声を圧殺する力が働いています。そして他方においては、そこになおかつご自分の真理の言葉を語らせ、しかもそれを語ったヨハネが権力者の手に渡ってしまう。それをじっと許しておられる神のみこころが働いているのです。洗礼者ヨハネは、人びとの罪を責め、そしてそこから立ち直るための悔い改めを告げました。そういう使命に生きた者として当然の道として、死に渡される歩みを受け入れたのです。
 イエスは、それをお聞きになって、ガリラヤに退かれたと書いてあります。なぜでしょう。一つの推測は、主イエスは、人びとが期待しているメシア、救い主としてこの世に登場されたけれども、そういう状況から自分たちを救ってくれるために登場するメシアというのは、都エルサレムに栄光に輝いて神の宮に現れるべきものであったのです。その華やかな舞台に立って、ヨハネを捕まえて、ひどい目に遭わせてしまう権力者に対して、その権力に立ち向かうことを拒否しておられるのです。
 ある人は、それを「神さまのみ手の中に隠れたのだ」と表現しました。幼な子イエスは、当時の支配者ヘロデ大王の追跡を逃れるためにエジプトに逃げました。やがてお帰りになった時に、ユダヤの地を避け、その当時の政治的なさまざまな争いから外れたナザレの地に赴き、そこで育ち、そこにお住まいになった。そして今、ガリラヤの地に退き、神のみ手にご自身を委ねることから活動を始められたのです。
 その次に「カフェルナウムに来て、住まわれた」とあります。それを、イザヤ書の引用によって、この福音書記者は説明をしようとするのです。
 ガリラヤの地、カフェルナウムになぜ住んだのか。この15節以下のイザヤ書の引用は、これは先程読んだイザヤ書第9章そのままの正確な引用ではありません。「ゼブルンの地、ナフタリの地」という、二つの固有名詞は、いずれもユダヤ民族の種族の名前です。かつてユダヤ民族の十二部族がそれぞれ分かれて住んだ時も、このゼブルンとナフタリの部族がガリラヤに主として済んだということを意味します。「海沿いの道、ヨルダン川のかなたの地」というのは、ここでは明らかにガリラヤ湖という意味を持っています。
暗黒の地と思われていたそのガリラヤの一つの中心地であるカフェルナウムの町に、主イエスが住まわれたのです。神の真理を語り続けるために、そこに自分の住まいを定められたのです。そのようにしてくださったから、イザヤの言葉はここに成就するとマタイも書くことができたのです。
 カフェルナウムの地にお住まいになって、「教えを宣べた」のです。何を告げたのか。「天国が近づいたのだ」というのです。この〈天国〉というのは、「神の国」ということです。「神の国が近づいた」と言われたのです。
もう一つ主イエスが言われたこと、それは「悔い改めよ」ということでした。「悔い改めよ」と訳されている言葉は、文字通り言うと、自分の思いの向きを変えることです。私たちが方向転換をして歩み始めるとき、権力者に捕らえられたヨハネの後を、ご自分の行く先をよく分かりながら後を追っていかれた主イエスの歩みを、その思いの中で受けとめたいと思うのです。なぜかと言うと、主イエスは、十字架につけられたからです。まさにその一点において、主イエスは、ヨハネが示したように、私たちにとって本当の光になってくださったからです。
 ここに私たちの救いに至る道が鮮やかに示されていることを、私たちはよく知りたいと思います。お祈りをいたします。
by higacoch | 2017-01-23 16:20 | マタイ
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