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2016年11月6日

「神の民」 詩編 105:1-6、ペトロ 一 2:9-10
                            香月 茂 牧師

 私にとっての今回の入院は、人生で始めての経験であります。今回、病院に出掛けて、最初に、いろんな病気を抱えた人が本当にたくさんいらっしゃるなあと思いました。こうした人たちを見ながら、すぐに思い出したのは、イエス様の所に集まってきた多くの病気の人たちです。イエス様はそうした人たちを深く憐れみ、彼らを癒されました。そこでマタイ福音書だけに限って病気の人の癒しを調べてみました。すると「イエス様はガリラヤ地方の町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒された。」と記してあります。
 さて、今朝の箇所に「かつては神の民でなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」とあります。イエス様の一番弟子であったペトロは多くの失敗もしましたが、イエス様のとりなしの祈りによって立ち直りました。そこでペトロはこの手紙を書いたのです。ペトロ自身の「私はイエス様から憐れみを受けて、今は神の民となっている。」という確信によっているのです。「もしもイエス様から憐れみを受けていなければ、以前のままで神の民ではない、私が何か、神様が喜ぶようなことをして神の民になったのではない。イエス様の憐れみによって、神のものとされた。」このことはあなたがたも同じだ。あなたがたが善い行いをして、神の民になるのでは決してない。神のみ心に沿った何かをしたから、神の民になったと言っていません。「ぜひ、知ってほしい。あなたがたは神から選ばれた民なのだ、あなたがたが神を選んで、神の民となったのではない。あくまでも神があなたがたを憐れんでくださり、神によって神の民とされたのだ」と言いたいのです。
 私は、最初にイエス様が病気の人たちに、どのように応じられたのか、そのことを述べました。イエス様が病気の人を深く憐れんでくださったことを話しました。この「憐れみ」は、ギリシア語ではスプラングゾマイと言います。この言葉の深い意味は、お腹が痛くて我慢できないくらい自分が苦しむという意味があります。ですから、イエス様が憐れまれた、ということは、病気の人たちが苦しんでいると同じように、否、それ以上にイエス様ご自身が苦しみを味わいながら、病気の人を受け入れ、癒されたということなのです。そして、さらに「憐れむ」という言葉には深い意味があります。それは、イエス様が徴税人のマタイを招き、弟子とされた話がマタイ9章にありますが、そこに出てきています。マタイが、イエス様を家に招き、食事をしました。そこには多くの客人が招かれました。徴税人たち、そして罪人たち(病人も罪人と考えられていました)です。その客人たちを見たファリサイ派の人がイエス様の弟子に詰問しました。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人らと一緒に食事をするのか、」と。これは「イエス様は、そいつらの仲間なのか」という意味です。それに答えて「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である」とイエス様は答えられています。医者、それは癒し(救い)を与える人であり、その人を必要とする人は、丈夫な人ではない、病人である。と、これは鋭い皮肉であります。ですが、その奥には深い真理が語られているのです。病んでいる人が、癒し(救い)を求める、その人に救いが与えられるのです。丈夫な人は救いを必要としません。自分で自分を保つことができると確信し、自分で生きることができると信じ込んでいる、だから救いを必要としません。
 医者、それは救い主イエス様です。救い主を必要とするのは罪人です。イエス様が共に食されている罪人(病人を含む)は救い主を必要としているのです。救いによって生かされるのです。そして続けて、イエス様は言われました。「私が求めるのは、憐れみであって、いけにえではない。」と。ここでイエス様は、いけにえを求めないと言われています。いけにえとは人が何かを捧げるもののことです。イエス様は人に何かを欲しいと求めておられるのではありません。善行や徳のある行動や多額の献金を求めておられません。求めておられるのは、憐れみなのです。ここは、人から憐れみを受けることではなく、イエス様の憐れみを求めることです。イエス様の憐れみによって生きることを求めておられるのです。
 最後に、イエス様は「私がこの世に来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためだ」と言われています。ここでイエス様と弟子たち、徴税人、罪人らと会食をされているということは天国の祝宴と理解されています。つまり、神の国に生きる者たちの会食だと。そうすると、これらの人たちを神と共に生きる人、「神の民」と理解できます。イエス様の憐れみ、それを受け入れて生きる人たちは、神の民なのです。まさに、私たちなのです。イエス様の十字架の罪の赦し、それを必要とし、受け入れて生きる私たちこそ、神の民とされています。「今は、神の民であり、かつて憐れみをうけなかったが、今は、憐れみを受けているのです。」私たちも神の民として、イエス様の救いの業を伝えて歩んでいきましょう。
by higacoch | 2016-11-12 17:19 | ペトロ
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