「キリストのさばき」 ヨブ記24:1-12、ヨハネ福音書7:1-9
関 伸子 牧師 ヨハネによる福音書第7章の舞台になったエルサレムの仮庵祭とは何か。これは私たちがこの物語を聴き続けていくときに、心に留めておかなければならないことだと思います。旧約聖書のレビ記第23章にその祭りの仕方を記しています。仮小屋というのは過越の祭りを記念した出来事、出エジプトの出来事が起きてから40年の間、荒野を旅しなければならなかった時に、イスラエルの民が住まなければならなかったものです。イスラエルの人びとはまだ定住の地を得ていませんでしたから、どこに宿営するにしても仮の宿だった。その先祖たちの荒野の旅を思い起こして、約束の地に定住するようになった後に、ユダヤの人びとはこの祭りの時、安息日から安息日まで、たとえば自分の家の屋上に、あるいは自分の家の入口のあるところを囲むように小屋を造ります。柳の枝や棕櫚の葉を用いて小屋を造って、そこで8日の生活をして先祖の荒野の旅を思い起こした。そして、このレビ記の言葉の最後に、「わたしはあなたたちの神、主である」というみ言葉が示されているように、自分たちは誰のお陰で生きることができているのかということを思い起こした。ですからある人はこの仮庵祭は神のご臨在を深く思う時であったと言います。 しかし同時に主イエスが活動された頃の人びとにとっては、嘆きの時でもあったと思います。先ほどヨブ記が伝えているヨブの痛切な嘆きの言葉を読みました。このヨブ記第24章の最初の言葉は、「なぜ、全能者のもとには/さまざまな時が蓄えられていないのか。なぜ、神を愛する者が/神の日を見ることができないのか」と言うのです。荒野を旅した自分たちの祖先は、昼は雲の柱、夜は火の柱となって自分たちを守ってくださる神の力を仰ぐことができたし、飢え乾いた時にはマンナのパンを与えられ、岩からほとばしる水をもって養われた。しかし今はローマ帝国の権力の下にあって、「神の日」と呼び得る日がいつか来るのかという思いが重なっていたに違いないのです。 そこで3節に、このように記されています。「イエスの兄弟たちが言った。『ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい』」。主イエスは長男ですから弟たちが何人もいました。それらの人びとが、自分たちの血を分けた者の中にいるこのイエスという男が、どうしてそんなことができるだろうと思うような力をもって人の病を癒し、死んだ者まで蘇らせ、悪霊に取りつかれたと人びとが思っている人びとを自由にし、思いがけない力を発揮することに驚き、喜んでいました。そのしるしだと見ることは当然のことだと思ったのではないかと思われます。 「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている」。これも不思議な言葉です。主が言われる時とは、永遠の神が歴史に触れてくださる時。仮庵の祭りにイエスが登場されたとき、弟たちが考えるように歓迎をしてはいません。むしろ殺す機会が来たとしか思わない。私たちがなぜこの世にあってつらい思いをしなければならないかというと、なかなか人びとと巧く一緒にやって行けないからです。この世には至るところに憎しみや排訴がはびこっていて、平和を造っていません。ですから誰もが平和を願いながら戦禍が絶えません。しかし主イエスは言われます。この世に生きている人たちはわたしを憎むようにお互いを憎しみ合うことはない。この世は神の子を与えたとき、これを憎むようになっていた。私たちキリスト者は、この主イエスの審きの言葉をどこまで聴き取っているかどうか、そのことをまさにこの時、改めて問わなければならないと思います。 最近ある本を、毎日、少しずつ読みました。『森のチャペルに集う子たち』という、北海道家庭学校を指導しておられた谷昌恒という方が書いた本です。この森のチャペルに集う者たちは、非行を犯して世の人びとにどうにもならないと思われている少年たちです。おとなしいと思っていた少年が突然、「先生、俺なんかいない方がいいんだろう」と向き直って尋ねる。谷校長が応じる。「ああ、君なんかいない方がいいと思っている」。自分自身の現実と向かい合いながらその子と対決する。あるいはまた、暴力行為を重ねてきたらしい少年が校長室に入って来て「俺のことを怒らせるなよ」と脅迫する。暴力行為が始まるかもしれないということを予感しながら、「何と生意気なことを言うのだ」と立ちはだかって答える。戦いが続く。 あるいはまた、少年が家族を殺してしまう。そこで自分もそういうことについての責任者として意見を求められたその場面でこういうふうに書きます。「日常、殺しの場面が茶の間の出来事になっている。そういうものを毎日子どもたちに見せておいて人殺しはいけないのだと、なぜ教えることができるか。そして自分がそのようなテレビドラマは止せと言えばこれは表現の自由だ、とジャーナリストは言うかもしれない。ここでは〈キリストの審き〉がやはり語られていると思います。 谷先生は、「平等と言うことすら、われわれの罪を誘う」と言われ、それに続いて、既に預言者が語っている言葉ですけれども、「われわれを造ってくださった神に向かって、なぜわたしをこのように造ったかと嘆き、神を憎むこともゆるされない」と言われます。それは主イエスを私たちに送ってくださった、わたしのような者を神の子として救い取るために送ってくださった神を信頼した者だけが、初めて言える言葉です。そしてその〈信頼〉に立ったときに、わたしのような者でも、なお勇気をもって隣人の中に立つことができるかもしれないという〈望み〉を与えられるのです。今この主イエス・キリストの姿と言葉とを心に深く刻みなから、今年後半の歩み、そして主イエス・キリストのご降誕の時を、かけがえのない〈神の時〉、それゆえに私たちの感謝と喜びの祭りの時として迎えたいと願います。お祈りをいたします。
by higacoch
| 2016-07-31 16:10
| ヨハネ福音書
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