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2016年7月17日

「あなたを招くため」 ホセア書6:4-6、マタイ9:9-13         香月 茂 牧師
                                                                                      

 今日は皆様と共に、東小金井教会の設立記念礼拝を捧げることができたことを、大変嬉しく、また主に感謝しています。私たちの教会の最初の主日礼拝は1964年7月26日に捧げられました。その日の淵江牧師の説教題は「信仰と望」(マタイ25:1-13)、出席者は11名。こうして私たちの教会は出発しました。
 さて、今朝与えられた聖書箇所で、イエス様は言われました。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」イエス様が「来た」と言われているのはユダヤの国のガリラヤ地方でした。実際、この地方には徴税人や罪人たちが多く住んでいました。徴税人のマタイは人々から嫌われていました。性格からではなく、職業上からでした。ユダヤを支配していたローマ帝国の手下として同胞から税金を取り立てる仕事をしていたからです。彼らは「ローマの犬」と呼ばれ、軽蔑され、排除されました。またこの「罪人」とは、遊女たち、さらに安息日に会堂に行かなかった人々、否、行けなかった人たちでした。重い病気の人たち、心に、体に障害を持っている人たち、非常に貧しい人たち、羊飼いたちなどでした。こうした人たちのために、イエス様は「来た」と言われました。しかしこれは、単にガリラヤ地方に来たというだけの意味ではありません。もっと大きく、ユダヤの国に来たことでもあり、この世界に来たことでもあります。さらに、当時の人間社会だけではなく、時間を超えて、現代にも来たと理解できるのです。こうしたことが解ると、「罪人を招く」というのも、徴税人や罪人だけでなく、もっと大きな意味での「人々」が含まれているのが解ります。過去だけでなく、今も人々から差別され、排除されている人々、弱い人々のために来られたということが解ってくるのです。この理解がイエス様の言葉を聞く時には大切なことです。そこに立たないと、「昔、イエス様という、こんな人がいた」という昔話となってしまいます。皆さんには聖書を昔の本、歴史物語の本として頂きたくありません。
 また、イエス様はこうも言われました。「人の子が、仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マタイ20:28)。ここでの「人の子」はイエス様なので、「わたしは仕えるために来た」と言いかえることができます。こうした箇所と今朝の箇所を重ねて言いますと「わたしが来たのは、正しい人を招くためにではなく、罪人を招くためであり、仕えられるためではなく、仕えるために来た」となります。さらにイエス様は「正しい人を招くためにではない」とも言われています。では、正しい人とは、誰なのでしょうか。それは権力者、宗教指導者、大祭司、祭司長、律法学者たちです。現代的に言いますと、人々の上に立って威張っている人たち、先生、先生と呼ばれる教師族ではないでしょうか。
 こうしたことを考えていましたら、では、皆さん、牧師はどちら側に入ると思われるでしょうか。牧師は威張っている、先生気取りだと聞くことがあります。牧師の「師」は、教師、医師、宣教師、仏師、法師とか先生を表す漢字です。一般人よりも上の人というような意味が含まれています。先日の「クリスチャン新聞」(6/26号)に、ある牧師の「牧師の『師』を使用人の『使』に変えてはどうか」という意見が掲載されていました。イエス様も「教師と呼ばれてはいけない」(マタイ23:10)と言われました。牧師の生き方として、先生、先生と呼ばれて、鼻が高くなってはいけないと私自身は肝に銘じています。傲慢、高慢な人が、ここでイエス様が言われている正しい人です。「俺は神の憐みなど要らない。自分で自分を頼りにしている」という」自信家なのです。 
 今朝の箇所で、私はイエス様はマタイをじっと長く見つめておられたのではないかと思うのです。そしてマタイもイエス様の視線に気づいていたと思います。その視線に、彼は合わせることができないと思っていたのではないでしょうか。自分の恥ずかしさ、醜さを思って、目を反らしたりもしたと思います。けれどもイエス様はマタイをちょっと見て、通り過ぎられたのではありません。長く見つめられた後、イエス様の方から声を掛けられました。彼はびっくりしたでしょう。そして感動したに違いありません。これまでこんな温かい言葉を掛けてくれる人がいなかったからです。いつも冷たい、とげのある「人間のくず」、「あっちに行け」と罵倒されていたに違いない、そんな彼だったのです。しかし、イエス様は彼をじっと見つめてから「わたしに従ってきなさい」と言われました。自分は受け入れられ、「招かれている」と深く感じて感動しました。だから、その座から離れて、イエス様に従い、その後、彼自身が今度は、収税人や罪人らを大勢招いて大食事会をしたのです。こうして彼は変えられていきました。招かれて、招く人に、受け入れられて、受け入れる人に、愛されて、愛する人に変えられていったのです。  
 わたしは皆さんにお伝えしたいのです。イエス様は、皆さんを、救いを求めておられるあなたを、招いておられます。だから、ぜひ、イエス様の招きに応じて頂きたい。そして求道者の方々には、イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、信仰の道へと歩み始めて頂きたいのです。イエス様は、あなたを招くために、来られたのですから。


by higacoch | 2016-07-23 17:30 | マタイ
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