「新しく生まれるために」
エゼキエル37:1-14、ヨハネ3:1-15 関 伸子 牧師 ヨハネによる福音書第3章の1節以下が伝える主イエスとニコデモとの対話は、多くの人びとが関心を抱き、多くの人びとがこれについて書き、また語ってきています。たとえばある人は、人間は悪魔に仕えるためには真昼間でも臆面もなくやって来るのに、主イエスに対する信仰を言い表す時には人目をはばかると言いました。なぜかと言えば、それは世間を恐れたからであると説明します。またある人はこんなふうに言います。この後で主イエスは「新しく生まれなければ」と言われた。言い換えるとニコデモはまだ新しく生まれていないことになる。あるいはこの後主イエスは光と闇についてお語りになっています。新しく生まれた者は光に生きるとすれば、ニコデモはまだ新しく生まれていないので闇の男である。闇の男はそれにふさわしく夜主イエスを訪ねると言うのです。 今言ったような理解はニコデモに対して批判的です。けれども好意をもって理解する人もあります。夜は人が掟を学ぶ時、神のみ言葉を学ぶ時。昼は働く時、働きながら人間はいろいろな事を心の中で問うでしょう。今のように、なぜ夜の訪問であったかを問い、答えを求めるとき、結局私たちはそこで自分自身を語っているのです。たとえばキリストを告白する時に世間体をおもんばかり人目を気にする。私たちも何となくキリスト者であることを人の前で明らかにするのに世間体を気にするようなところがあります。 まずここでニコデモが主イエスに対して語った言葉は、「ラビ」という呼びかけから始まります。これは律法の教師に対するひとつの敬称の言葉です。ニコデモの方からすれば、このように言ってイエスという方と話し合いができる基礎を作っていると言えます。そして他方、主イエスの側からすれば、ガリラヤから出てきたばかりの伝道者です。ニコデモの好意は何よりもありがたかったと思います。しかし主イエスは、そこで「はっきり言っておく」と言われました。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。「新たに」と訳されている言葉は「上から生まれる」と訳すべきものです。これが時間的な意味になると「初めから」という意味になります。「人は上から、初めから、生まれ直さなければ」、そういう意味で「新たに」という意味になるのです。つまり、「人は新たに、上からの力で生まれなければ」ということです。ここで言う「上からの力」とは何かということを、主イエスは、5節で説明しておられます。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。 こういうやり取りをしているうちに、いよいよニコデモは途方に暮れます。4節は、主イエスの言葉を聴いたニコデモの答え、正確には反問。途方に暮れた者の悲鳴のような反問です。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう」。主イエスは「水と霊」について語られました。明らかに水と霊によるバプテスマを意味します。霊によって新しく生まれる。霊とは上からの霊です。上からの霊によって新しく生まれなさい。 11節以下は大変ふしぎな主イエスの表現です。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしの証しを受け入れない」。〈わたしの上に起こったこと〉をよく聴いてほしい。そのとき、あなたがたは新しく生まれさせる霊の声を聴いている。「モーセが荒れ野で蛇を上げた」。この物語は、民数記第21章に記されています。イスラエルの民のなかで罪を犯したものがあったとき、罪を犯した者を神から遣わされて来た蛇が噛んだ。人びとは耐えがたく思って自分の罪を認め、悔い改め、赦しを求めたときに、神はその蛇は旗竿の先に揚げて人びとに見せることをモーセに求め、モーセはそのようにした。自分たちの罪の審きのしるしであった蛇は、悔い改めた者がこれを仰ぎ見た時、命をもたらすものとなった。主イエスはその蛇の姿にご自分の姿を託しておられます。これが霊がもたらした「音」が伝えることです。 御殿場の神山教会で牧師として活躍された大日向繁という先生は確か17歳で発病して療養所に入り、立ち直って学校の先生になったけれども、天皇制を説いているうちに敗戦を迎え、天皇制も崩れた。自分のいのちの支えも崩れたと思った時に信仰が与えられます。ヨハネ福音書第9章を読みます。わたしのこの病気―結核にも罹っていたそうです—このわたしの悩みは神の栄光の現れるためだということがよくわかった。わたしのために、主よ、お救いくださいとか、病気を治してくださいとか、それ自体は悪いことではないかもしれないけれども、それでは信仰にはなっていない。大切なのは、ほんとうのキリストの愛そのものにぶつかる時であって、わたしが消えてキリストしか見えなくなる。そこでこう言うのです。「そうなると神さまが寝ておれ、と言うならば何年でも寝てられる。神さまが立てと言うならばいつでも、はい、僕はここにいます、と言って立ち上がる。すべてが愛の主のみ手の中にある。すべてを主に任せておればよい。こんなに楽しい人生はない」。 こんなに楽しい人生はない。解き放たれたからです。霊に生きるということは、そのように霊を受けて主イエスと同じように、神を父なる神と呼べるようになるということです。わたしはキリストのために生きる。神のために生きる。それ以外にもう何も見ない。何も見ないところで解き放たれる。霊を受けるということはそういうことです。どうぞわたしのように霊を受けてください。わたしのように神に支配され尽くしてください、どんなにしあわせなことか。それが私たちのただひとつ、主とともに語ることができる信仰の言葉です。お祈りをいたします。
by higacoch
| 2016-05-31 20:15
| ヨハネ福音書
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