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2016年2月21日

「信仰が無くならないように」    ルカ22:31−34
                                  唐澤 健太 牧師(国立のぞみ)

 誰もが一度や二度、いや何度も信仰生活を送る中で自分の信仰が揺さぶられる経験をしたことがあると思います。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」(31節)。なぜ神様はサタンの願いなどを受け入れてしまうのかと思いますが、これは弟子たちが経験する現実そのもと言えるでしょう。キリスト者として信仰生活を送るとき、サタンに「ふるいにかけられ」、神様から心が離れていく出来事、「信仰の危機」があるのです。
 ペトロは試みにあったとしても「覚悟しております」と答えました。「牢に入っても死んでもよい」とまで彼は言いました。権力者たちと主イエスの間に日に日に緊張が高まっていくのをペトロもよく知っていたことでしょう。このまま行けば、投獄や最悪は死をも覚悟しなければならないとペトロは感じていたのでしょう。ペトロは本気でした。しかし、ペトロの覚悟は、その日のうちにもろくも崩れ落ちてしまったことを私たちは知っています。ペトロは自らの覚悟、勇気、力がすべて打ち砕かれてしまう信仰の挫折を経験したのです。
 信仰生活は、いつも穏やかなクルージングを楽しむような世界ではありません。私たちの人生は、平穏にいつも穏やかに日々が過ぎていくことなどありえません。時にはその船が沈みそうになる、人生の危機的な状況を迎える時がある。その時に、私たちの信仰が試されるというか、ふるいにかけられるような経験を私たちもします。
 思いがけず病になったり、自分が思うように道がなかなか開けない。行き詰まりを覚える中で、神様に心を向けることから離れてしまう時が、私たちの信仰生活の中にあります。
 ある方が以前、思いがけない試練を経験されたことを打ち空けてくださいました。様々な人間関係の中で苦しい経験をされ、その御自分の感情を含めて話して下さった。随分と長い時間、お話をして、最後に祈りましょうと言って短く祈りをささげました。「アーメン」と祈りを結んだ後に、その方が、「先生、祈るってことをすっかり忘れていました」とポツリと言われました。「長年クリスチャンをやっていて、まさか自分が祈ることを忘れるようなことを経験するなんて……。自分がクリスチャンであるのは当たり前だと思っていたのに、神様とか、祈るってことさえ、ここ最近は忘れていました」と告白されたのです。
 この一人の信仰者の経験は、私たちの経験でしょう。自分の覚悟とか、自分の力、自分の勇気、そのようなものは、平穏な時は「大丈夫!」と自信を持って言えるかもしれませんが、いざ試練の中に叩き込まれ、「ふるい」にかけあれるといとも簡単に飛んでなくなってしまう。私たちの信仰は、もろいものです。
 もし私たちの信仰が、私たちの覚悟、私たちの気の持ちよう次第だったとするなら、こんな不安定な、不確かなものはありません。
 「しかし、わたしはあなたたちのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(32節)。イエス様はペトロが信仰が無くなってしまう経験を知っておられる。私たちが信仰の危機を経験することを知っておられる。だから、主イエスはペトロのために祈ったと言われたのです。私たちはサタンのふるいにかけられ、祈る気力さえ失ってしまう時があります。聖書を読むことに心がまったく向かない時を経験します。神を礼拝する思いにならない時があります。しかし、主イエスが私たちのために祈っていてくださる。この主イエスのとりなしの祈りに、私たちの信仰は支えられているのです。
 私が伝道師に任職される時、荒瀬牧師が説教の中で「あなたの後ろ盾は主御自身です」と語られたことを今でもはっきりと覚えています。伝道者の歩みは決して平坦じゃない。自分の力のなさや、時には自分の信仰が揺さぶられなくなってしまうような試練も経験するかもしれない。だけども、「主が後ろ盾である」ことを忘れないように。
 信仰者にとっても同じです。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」(Ⅱテモテ2:13)。たとえ私たちが主の手を離してしまっても、主はその手を私たちから離すことはないのです。たとえ自分には信仰が無い、と感じたとしても大丈夫。主イエスが、私たちの信仰が無くならないようにとりなし、祈っていてくださるから。その主イエスの祈りが、私たちに希望を与えてくれるのです。
 自らの覚悟などあっという間に消え失せてしまうような私たちのためになおも祈り、愛し、赦してくださるキリストの真実に信頼すること、それこそが信仰なのです。私たちの信仰は、私たちが自分の力でつかみ取った何かではありあせん。「私たちが」ではなく、「神が」私たちを選び、愛してくださった。それが私たちの信仰の始まりです。私たちの信仰は神の賜物に他なりません。
 ペトロのために祈られた祈りは、いまも私たちのためにささげられる主イエスの祈りです。私たちが「もう信仰をうしなってしまった」というところで、あなたのために祈った! そう言われる主イエスの祈りが私たちの信仰を支えてくださるのです。
by higacoch | 2016-02-27 17:54 | ルカ
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