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2015年10月4日

「喜ばれる者」 詩編65:2-5、 コリント二 5:1-10
                              
 先主日は、召天者記念礼拝を捧げました。イエス様の言葉「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」から、死は決して終わりではなく、また死の後、何もないのではなく、死後に復活があり、新しいいのちに生かされると話しました。イエス様も「生きた」ではなくて、「生きる」ということをよく語られました。ですから、わたしたちの死も、決して終わりではなく、死は新しい命への入り口であり、死を通して新しい命が始まると語りました。先主日はイエス様の言葉を通して学び、今朝はパウロの言葉を通して、生と死、死後を学びます。
 パウロは、人が地上で生き、死んでいくこと、そして死後のことを二つのたとえで語っています。一つは建物、もう一つは着る物ですが、ここで語られていることは、少々難しいのです。建物では、幕屋のことが出てきます。幕屋とはイスラエルの民がエジプトを脱出し、荒野を40年間旅をした時に神が住まれる所として、簡単に造られたものです。ここでは神が住んでくださるわたしたちの体を現わしています。パウロは「幕屋が滅びても、神によって建物が備えられている」と言って、死を迎えても神によって住む所が与えられていることを知らせています。そう言ってから、すぐに「天から与えられた住みかを上に着たい」と言っています。ここでは着物を上から「着る」という表現をしています。
 私は特に5節の言葉に注目したいのです。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者として下さったのは、神です」と言っています。あなたがたが、自分の知恵や知識や能力で、相応しい者になったのではないとはっきりと言っています。人は罪を犯しますし、これからも罪を犯しますので、どうしても神の御心にかなう相応しい者になれません。もしも神の憐みがなければ、誰一人として救われる者がいないのです。しかし神が御子イエス・キリストをこの世に送り、キリストの十字架の死による贖いによって、わたしたちは憐みを受けたのです。人が相応しい善行をしたからではありません。むしろ、わたしたちは神に背を向けて、神から離れて生きていました。そんなわたしたちをイエス様は近づいて天国の教えを説き、そしてすべての人のために、自らの命さえも捧げてくださいました。そのことによって相応しくない者が、相応しい者とされたのです。
 こうした「着る」という表現には、深い意味が込められています。ガラテヤの信徒への手紙3:27節にもありますが、「キリストを着る」ということは、キリストに結ばれて洗礼を受けることでした。わたしたちには、洗礼を受けて清められるというイメージが強くあります。水で罪が清められて、真っ白くなるという考え方は、カトリック教会が教える洗礼の出来事の意味です。生まれてからの原罪、もともと持っている罪などが、洗礼によって清められて、全くの清い存在になると考えるのです。では、洗礼後には罪を犯さないかというと、罪を犯します。それを自分の罪ということで自罪と言います。しかし、わたしたちの教会の信仰告白では、全く清められて罪のない者になると信じていません。カンバーランド長老教会の信仰告白の「義認」という条項(4.14)があります。そこには、洗礼は、キリストという服(ガウン)を罪人であるわたしたちが着るというイメージがあるのです。中身のわたしたちが、清められて白くなるというのではなく、そのままのわたしたちがキリストのガウンを着ることによって、キリストに覆われて、神によって義と認められるというのです。ですから、洗礼を受けても全き義人になると言うのではなく、罪人のままで、一方的にキリストのものとしてくださり、義い人間と認めてくださるという意味です。
 ただ、パウロの時代にも、洗礼を受けて、神に罪を赦してもらったのだから、もう何もかも自由に勝手にしていいと受け止める人たちがいました。こうした人たちに、パウロは頭を悩ましていました。そんなパウロは、地上では、信仰生活をすることで、苦労も多いし、苦しみもだえることもあり、苦しんでいるというのです。そういう状況の中で、神が約束してくださったものは、天国での住みかであり、神が、その住みかに相応しい者にして下さったと強調しているのです。だから、今、地上での命があっても、ひたすら、わたしが求めるのは、主なる神に喜ばれる者でありたいと願うのだと言っているのです。神から離れることもある、しかし、またそこで、悔い改めて、何よりも神に喜ばれることを求めて、神の下に帰っていくこと、これは具体的に言うのなら、神を礼拝すること、神の言葉を聞くこと、神の言葉に従うこと、なのです。このパウロが人生のモットーとしていることは、コリントの教会の人たちにも、またわたしたちにも、通じることです。わたしたちも、信仰の揺れがありますが、その時に一番に帰るところは、神の所なのです。それは、放蕩息子の譬えからも教えられていることです。放蕩息子であれ、放蕩娘であれ、神から離れたものが、一番、戻るべきところは神の所です。それは教会といってもいいでしょう。
by higacoch | 2015-10-10 16:37 | コリント
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