「十字架を背負って従え」 詩編142:2-8、ルカ福音書14:25-33
キリスト教にとって十字架というのは、大事なシンボルであります。地図にも教会の位置を示すのに十字架の記号が使われています。今朝の箇所には、イエス様が私の弟子となりたいなら、十字架を背負って、私についてきなさい、と言われています。一節には「大勢の人が一緒についてきた」とあります。普段は、12人の弟子と幾人かの女性たちが従っていましたが、ここでは、大勢の人々がイエス様の後についてきていました。そんな人々にイエス様は、足を止めて振り返り、こう言われました。「もし誰かが私のもとに来るにしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない」と。ここでの「憎む」というのは、わたしたちが考えている憎悪の憎しみではなく、ユダヤの国での意味では「少し愛する」という意味です。だから、この「憎まないなら」は「愛することが少なくないなら」ということで、これは「多く愛するなら」ということです。つまり「父、母、子ども、兄弟、姉妹、そして自分を、より多く愛するなら、あなたがたはわたしの弟子ではない。」という意味なのです。父、母、妻、子どもは、まとめて言うなら、身内です。イエス様は、身内を憎みなさい、と言われたのではなく、私を愛する以上に身内を愛するなら、あなたはわたしの弟子ではない、と言われているのです。身内第一主義では、私の弟子にはなれないと言うことなのです。 わたしたちは、どうしても身内を第一に考えます。「身内優先が何が悪い、皆、そうではないか。まずは身内が大事だ」、「他人は他人、まずは身内だ」とある人は言うでしょう。。こうした考えを持っている人はイエス様の言葉でショックを受けたでしょう。イエス様は、最後にこうも言われました。「自分の持ち物を一切、捨てないならば、あなたがたの誰ひとりとして、私の弟子ではありえない」と。実際、イエス様の言葉を聞いた大勢の人たちが、その後どうしたかということは、聖書に書かれていません。わたしは思うのですが、多くの人たちがイエス様から離れていったのではないでしょうか。そのことについて聖書は沈黙しています。それは何人が離れたのかには、関心がないからです。それよりも、読み手がイエス様の言葉をどう聴くかということに関心があり、私たちにも問い掛けていると思います。 さらに考えてみたいのです。身内主義はどういう視点でものを見るかということです。身内が、いかに損をしないように、否、いかに儲かるか、益になるか、いかに危険が避けられるか、そのような視点で考えるでしょう。そこには、正義、真理、また隣人への愛などは、顧みられません。身内主義は身内を大事にするのが、当然だと思い込んで行動します。こうしたことは身内だけでなく、自分が所属する団体、職場、そういう所でも、こちら側の優先性を重視します。そこには正義、真理は後回しになります。イエス様は、そこにメスを入れられました。そうした考えから、もっと視野を広げて考えなさい、それが本当に正しいことなのかと言われているのです。自分のためだけに生き、何も手放そうとしない、自己中心的な生き方をする人は、わたしの弟子ではないと、イエス様は強調して言っておられます。 イエス様は、その視点の変換を、いやそれ以上に、正義、真理、隣人への愛に生きるようにと「自分の十字架を背負って私についてきなさい。」と命じられました。ここで、十字架の意味について考えなければなりません。十字架、それはイエス様の十字架です。自分が障害を抱えていたり、人生の途上で大病を患ったりしての自分の障害や病気、それが自分の十字架と考えている人が多いのです。しかしそれが私はイエス様が言われた十字架ではないと思います。イエス様ご自身は、自分のことで、自分の障害、病気で十字架を背負われたでしょうか。そうではありません。むしろ、その逆です。自分のことではなく、人々の罪のため、わたしたちの罪のため、すべての人の罪のために背負われたのです。それはすべての人を、またわたしたちを愛されたからです。 伝道者パウロは、キリストの十字架は、あなたがたのためと言っています。(Ⅰコリ1:13参照)つまり、イエス様が十字架を背負われたのは、すべての人を救うため、わたしたちを救うためでした。だからイエス様が言われた「自分の十字架を背負って従ってきなさい。」というのは、不正や貧困、病気などで苦しんでいる隣人を愛するために、自らが背負う愛の行為なのです。イエス様がわたしたちを愛し、十字架を背負われたように、わたしたちもイエス様を見上げて、隣人を愛するために、自分の十字架を背負い、イエス様に従って歩んでいきましょう。
by higacoch
| 2014-09-27 17:51
| ルカ
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