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2015年4月12日

「復活を喜び祝う」      列王記上19:1-13、ルカ24:13-35
                               関 伸子 牧師(高座教会)

 3年前の4月第2主日はイースターでした。わたしは東小金井教会でみなさまと共にイースター礼拝をささげ、祝会で駆け出しの伝道師を歓迎してくださったことをよく覚えています。今朝、復活後第一主日の礼拝を共にささげられますことを神様に感謝します。
 ルーブル美術館にあるレンブラントの「エマオ」は1648年作で、40歳代の画家が生んだ傑作です。明らかにエマオの食卓における主イエスのしぐさに、ふたりの弟子が、この方こそイエスであると知る場面。レンブラント特有の明るい光が射しています。食卓に給仕する人も描かれていますけれども、主イエスの顕現には全く無関心です。食卓が置かれている場所は明らかに教会堂の内陣です。レンブラントが属したオランダ改革派教会においては主の食卓が置かれたところです。エマオの夕食と、レンブラントの属するオランダの17世紀の礼拝堂が重く重なり合います。
 物語の構成は複雑です。33節以下の、二人の弟子がエルサレムに帰った話は、別の伝承であったかもしれないと言われています。主が甦られた日のことです。その出来事は既に知らされていた二人の弟子が登場して、エマオ村に帰ります。そして33節によると戻ってきます。その日の出来事はそこでは終わらず、36節以下の物語が続きます。何のために語られたのでしょうか。二人の「暗い顔」が変えられる話です。遮られていた日(16節)が開かられた(31節)話です。その暗い顔はなぜだったのでしょうか。
二人のうちの一人の名はクレオパであることが明らかにされています。もう一人の弟子というのは、実はクレオパの妻であったのではないかという推測もあります。エマオの村に二人の住まいがあったのです。待望の解放のメシアを信じていたのです。その意味では主イエスに近い存在でした。そのイエスが十字架につけて殺された。それも失望を生んでいたのでしょう。二人はイエスの死によって絶望していたと説明されることがあります。
 しかしそれならば、主イエスの死の直後に帰郷してもよかったのです。急所は22節以下の言葉です。「 …ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻ってきました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした」。それも聴いた通りでした。イエスは墓にはおられません。どこかで生きておられる。それはどのようにしてか。主イエスの臨在を見失っていたのです。
 それに対する答えは31節で与えられます。「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」。目が開け、今まで一緒であった方が主イエスであることが分かった。しかし、そのとき、その主イエスが見えなくなった。消えたのではありません。だから主イエスの臨在を疑うことはありませんでした。「見ないのに信じる人」(ヨハネ20:29)となったのです。物語は一方で、肉眼で見ている同伴者を主イエスとして認めることができない鈍さを語りつつ、他方で、それが見えないで主イエスの臨在を信じ、喜び、エルサレムの仲間のところに帰る信仰の認識に変えられるのです。
 そして32節に「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」と記されていることも忘れてはならないことです。24節の語った心の鈍さに対応します。その鈍かった心が燃やされたとき、見えるところに依存しない霊的な確かさが与えられたのです。しかし、この燃焼は、そのときすぐにわかるようなものではなく、あとから振り返って初めて気づくような静かな、おそらくそれだけ確かな霊的な燃焼であったのです。そのような回想を語り合うとき、二人の「暗い顔」が消えていたことは改めて書く必要もない確かなことだったのでしょう。この暗さから明るさへの転換が、この物語の急所が何であるかを語るのです。
 主イエスは、その物分りの悪さを、「預言者たちの行ったことを信じられない」愚かさだと言われました。この「預言者」のなかにモーセも含まれます。律法学者もまた含まれます。だから当然「聖書全体」をイエスが説明されたことになります。エマオまでのほぼ12キロの道程を、聖書を説きつつ歩まれたのでしょう。焦点は「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」ということにかかります。
 しかし、ことはそれだけでは済まなかったのです。それだけでは、主イエスはなお依然として見知らぬ旅人に留まったのです。イエスの臨在を知るためには主と「共に泊まる」ことが必要でした。しかし、このとき、主ご自身は弟子たちのところに留まる意思はなかったようです。引き留めたのは弟子たちでした。自分たちの元にイエスを招いたのです。「無理に引き留めた」(29節)のです。
 「一緒お泊ください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」。私たちと一緒に泊まってください。この祈りが私たちの日々の祈りになることを願います。やがて、私たちが、この地上の命を終える時、なおその時、主の命にのみこまれることをこころから願います。二人の弟子、この夫婦は、主にお会いした後で、すぐに立ってエルサレムに帰ったとこの物語は更に続きます。夜、夜道です。寝るのも忘れたのです。ここへ来る時は、明るい日の光の中で、その日の光を見ることもできない暗い思いで歩いた道を、夜には彼らは光輝く思いでエルサレムに走り帰って行く。ここに、教会の姿があるのです。教会が語り継ぐ命の物語を私たちの心に刻み、ここから新しい週の旅に出て行きましょう。お祈りいたします。
by higacoch | 2015-04-18 16:21 | ルカ
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