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2014年5月18日

「互いに愛し合いなさい」  申命記7:6-11, ヨハネ福音書15:12-17
                               
 今朝のヨハネ福音書の箇所から「互いに愛し合いなさい」という説教題をつけました。この「互いに愛し合いなさい」というのは、キリスト教以外の宗教でも何かと語られていると思ってインターネットの検索で調べてみました。調べた結果、39画面まで検索事項が掲載されていて、最後には「これまで389件取り上げましたが、これ以降は似たような記事ですので、これ以上は表示しません。調べたい事柄は、これまでの中で再検索してください」とありました。これまでの全件、キリスト教関係のものばかり、他宗教関係のものは一つもありませんでした。一番多かったのは、説教です。カトリック、プロテスタント教会の主日の礼拝説教、次はキリスト教系の幼稚園、小中高大学の学校関係の文章でした。このように数えきれないほどに、いろいろなキリスト教関係の文書があり、互いに愛し合うメッセージを発しているのだと思いました。
 さて、今朝与えられましたヨハネ福音書の15章は、イエス様が最後に弟子たちに説教されたことから、告別説教だと言われています。というのも、翌朝にはもうイエス様は十字架に掛けられてその日のうちに殺されるからです。ですから、この夜が最後の夜であり、弟子たちと過ごす最後の時でありました。その夜にイエス様は「互いに愛し合いなさい」と言われ、「これが、わたしの掟だ」と言われました。さらに「これがわたしの命令だ」と強い口調で言われました。こうして、この掟がどんなに大事かということを示されました。
 しかし、こうしたイエス様の言葉をある教会では間違って教えていました。それはイエス様が掟だと言われていますので、これを守らなければいけないということから、律法主義的な教えになっていきました。そこでは、イエス様が教えられたようには、教えていなかったのです。つまり、イエス様はこう言われています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と。最初に、イエス様が、弟子たちを愛されたのです。そのことによって、互いが愛し合うことが求められています。もしも、イエス様が愛して下さったことを受け止めないなら「互いに愛し合いなさい」は倫理的な教えとなり、律法主義的な教えとなっていくでしょう。
 イエス様は、弟子たちに、「互いに愛し合いなさい」と言われた後、こう続けられています。「友のために、自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と。ここで自分の命と言われている、この命という言葉は、英語では、LIFE、ライフが使われています。また命の他に、生活、生涯とか、いろいろ意味があります。そうしたことから、自分のLIFE、ライフを捨てるということを、命だけでなく、生活とか、生涯と訳したりします。こうしたことから自分の生活の中から、友のために時間を捧げることも言われます。確かに、愛の究極は、命の犠牲だと思いますが、そこまで至らなくても、その人ために、何かを捧げると言うことは、愛なのだと思います。愛するからこそ、自分の生活時間を、労力を使って、世話をするということだと思います。それが、どのようなものであっても、人を愛する歩みをしなさいと言われているのです。
 最後になりますが、イエス様の「わたしが愛したように」とは、命をかけて十字架の上で死んで、私たちの罪を赦して、愛して下さったことです。イエス様の愛を覚えて歩みましょう。隣人を愛する、その時も、隣人とは、身内や自分に都合のいい人だけではなく、苦しんでいる人、悩み、悲しんでいる人、友がなく独りでさみしく生きている人なのです。私たちは、イエス様と同じことはできませんが、イエス様が願われたことに通じる歩みを小さくてもしていくことができます。イエス様がこのわたしを愛して下さったのだから、イエス様の愛を覚えて、互いに愛し合う歩みを求めて生きていきましょう。
by higacoch | 2014-05-19 22:09 | ヨハネ福音書
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