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2013年10月27日

「教会とは何か」  使徒言行録2章42~47節
        鈴木 文治 伝道師 (日本キリスト教団桜本教会伝道師)

1 私たちの生きている時代
 3.11東日本大震災から2年半が過ぎた。私たちの心に深く残る傷跡は、大震災が私たちに何を示したのかを考えさせる。自然や物を自在に操れると思う人間の傲慢さを打ち砕いた自然の猛威は、人の弱さや儚さを、そして人は死すべきものであることを教えている。また原子力発電の事故は、今を生きる私たちの欲望を満たすために、後世に多大な負担を強いる「人の持つ我欲」の愚かさを示している。
 人の弱さ、小ささ、罪深さを覆い隠して生きる現在の社会は、いたるところで非難と応酬が飛び交かうものとなっている。排除と非寛容が今の社会のキーワードとなるほどに、許し合い支え合う人間の姿は見られなくなっている。
 そのような時代にあって、私たち人間はどのようにして造られたものであるのかを知らなければならない。この時代にあってキリスト者として生きるとはどういうことか、教会とは何かを御言葉から学びたい。

2 初代教会の姿
 使徒言行録の著者は医者であるルカである。ルカはアンティオケ生まれのギリシャ人であるが、異邦人ルカの視点は、私たちに多くのことを示している。病人や障がい者、徴税人や罪人、寡婦や孤児への暖かな視線は、今日の言葉で言う「インクルージョン(排除しないこと)」を指し示している。
 さてペンテコステの出来事によるペテロの説教の後、教会に三千人の仲間が加えられたとある。誕生したばかりの初代教会は、教会が何をなすべき所であるかが示されている。
 第一に使徒の教えを学ぶことであり、第二に信徒の相互の交わりであり、第三にパンを裂くこと(神の前での食事)であり、第四に祈ることであった。
 使徒の教えとは何か。使徒たちは多くの不思議な業としるしを行ってすべての人におそれが生じたとある。イエス様が地上にお出でになったときのことを思い起こす。多くの病人、障がい者、徴税人や貧しい者を招かれ、癒された物語が載っている。使徒たちとは直接イエス様が天に上げられるまで一緒にいた証人であるが、イエス様のなされた業を見た人々は、使徒たちからイエス様のことを聞きたいと願った。使徒の教えとは、イエス様のことを聞くことである。
 相互の交わりとは何か。信者たちはみな一つになって、すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、みながそれぞれ分かち合った」とある。初代教会で起こった財産共有制である。今日の教会ではこの姿は見られない。しかし、ここで使われている「分かち合い」は、交わり(コイノニア)の語源となっている。すなわち、交わりとは単なる精神的なものではなく、生活に根ざした物の分配を意味している。生活を共にする視点からの出来事であり、私たちの教会生活が「物の分配」に立脚した生きる土台からの「交わり」になっているかが問われている。交わりの中に差別や排除のない教会となっているだろうか。
 パンを裂くこと、すなわち神の前での食事である。「家庭ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心とをもって一緒に食事した」とある。食事とは神の国での食事の前祝いである。だから喜びがある。私たちは食事とは神の国の食事に招かれていることであることを思い、感謝と喜びを持っていただくものであることを忘れてはならない。
 最後に、祈ることとある。初代の教会が祈りに満ちていたことを知らされる。ルカによる福音書11章では、祈ることを教えて下さいという弟子たちに対して、イエス様は主の祈りを教えられた。主の祈りは福音書の中心と言われる。この祈りが聞き届けられることを信じて祈りなさいと、イエス様は言われる。
 御国が来ますようにの祈りは必ずかなえられる。御国は必ず来る。教会は神の国の福音を知らせるものである。神の国に向けて真心から教会生活を送りたいと思う。
by higacoch | 2013-10-31 11:56 | 使徒言行録
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