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2013年4月28日

「神の民とされた」 詩編95:1-11、ペトロ一 2:1-10
 
今朝のペトロの手紙一を読むと、私はすぐに私の次男を思い出します。彼は2か月ほど早く生まれた未熟児で、生後すぐに北里大学病院の未熟児センターに運ばれました。そこでドクターから「お子さんには、大きく言って三つの未熟があります」との説明をされました。一つは自分で体温調整ができない。そこで温度一定の保育器に入れられました。次に、安定した自力呼吸ができない。呼吸をしないことがあります。そこで10秒呼吸しなかったら、自動的に電気ショックを与える。それでも呼吸しないとブザーがなり、看護師さんが走って行って背中を強く叩きます。そして三つめは、自力で母乳を飲めない。ですから少し大きめの注射器のようなもので少しづつ飲ませるのです。その時、お医者さんから言われました。「純粋な母乳を飲ませて下さい。母乳にはお母さんの免疫が含まれているので、お子さんを病気にかからせないのに一番良いですから」と。今朝の箇所に「混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。」とあります。生まれたばかりの次男に、混じりけのない母乳が必要だったから、この箇所を読むと思い出すのです。
 ここでペトロは、キリストを信じた生まれたての信仰者を乳飲み子に例えて語っています。乳飲み子に母乳が必要であるように、信じたばかりの信仰者には、その人が青年であれ、高齢者であれ、霊の乳が必要であると語っています。この霊の乳は主の御言葉です。ですから霊の乳を飲むように、御言葉を日々、頂かなければなりません。このことが解ると、ペトロがここで言おうとしていることがはっきりとしてきます。
 ここでは信仰者として生まれる以前と以後とに分けて考え、語り掛けています。以前は御言葉を信じることができなかった。それゆえイエス様の十字架の出来事もつまずきとなっていました。十字架刑で殺されていった人をどうしても救い主とは信じられなかったのです。このことは2千年前の昔だったからというのではありません。現代人にとっても、イエス様が救い主だと信じることは難しいのです。人間の知恵だけでは到底信じられません。伝道者パウロもコリントの教会の人たちに書いた手紙で「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(コリント一1:18)と言っています。十字架の出来事は絵空事に聞こえるのです。それを救いの出来事と心から信じるのは全く愚かであると考えました。これはわたしたちの時代でもそうです。
 意外とキリスト教関係の本がベストセラーになったりしています。しかしこれで信仰者が増えたというのではありません。キリスト教に関心があったり、教養としての知識を求めて、キリスト教の歴史的な遺産(文学、芸術、音楽等)を知ろうとしている人たちです。こうした人たちは、知識は豊かであっても、信仰はありませ
ん。自ら信仰を言い表す人は少ないのです。
 ペトロは以前、以後と分けて語っています。「あなたがたは、信仰以前は御言葉を信じない、十字架の出来事が受け入れられない、そして暗闇の中に生きていた人だった」と言っています。その時は「悪意や偽り、偽善、ねたみ、悪口を言っていた」と。そんなあなただったが、「今は、恵み深い方である主を味わいました。その主を知らされたのですから、主のもとにきなさい」と招いています。神の導きによって、神の力、神の知恵で生きていきなさい。そのためにも乳である御言葉を求めなさいと勧めています。
 ですが、8節の後半でこんなことを言っています。「彼らは、御言葉を信じないので、つまづくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。」と。読んですぐに感じるのは、宿命のように受け止められます。神様は、ある人たちを躓くように定められていて、もうどうすることもできないようにしておられたのでしょうか。それはもう運命で変えられないのでしょうか。そうではありません。ここは注意して読まなければなりません。ここでペトロが語っていることは、信じる以前のことなのです。そして、ペトロは「今」を語っています。これは私たちにも言えることです。ですから、躓くように定められているというのは、ずっと死ぬまでそう定められているというのではなく、憐れみを受けて、信じるまでのことを言っているのです。こうしたことは、今、イエス様を信じていない人でも、「かつて」から「今」に生きるようにと招かれています。救いを自分で勝ちとるのではなく、与えられるのです。ここでペトロは人間の宿命論を語っているのではなく、神の恵みを語っているのです。
 このようにして、私たちは、神の憐れみを頂き、神の民とされたのであって、私たちが自分の力や知恵や能力で神の民になったのではありません。あくまでも神の恵みによって、神の民とされました。それは、私たちが神様の業を広く伝えるためです。そこに私たちが神の民とされた目的があるのです。私たちが倫理的に正しい生き方をするためではなく、神様から憐れみを受けたものとして、神様の愛を、イエス様の十字架の罪の赦しと復活を知らせていくのです。神様の愛をまだ知らない人たちに知らせて伝道していくのです。そのために私たちは神の民とされ、生かされているのです。小さな歩みであっても神の民とされていることを覚えて主なる神様に仕えて歩んでいきましょう。
by higacoch | 2013-04-30 14:32 | ペトロ
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