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2013年3月17日

 「大胆な女 自由なイエス」 マタイ福音書15章21-31節
                     荒瀬牧彦牧師(めぐみ教会)

 謎多き箇所です。何度読んでもクエスチョン・マークがわき出てきます。まず、イエスはなぜこの時ティルスとシドンの地方に行かれたのか。ガリラヤからは離れた地です。勇ましく異邦人伝道に行ったというのでもなさそうです。普段の、村や町を巡って神の国の到来を告げる姿とは違っています。
 私の想像ですが、主イエスはイスラエルの人々の頑なさに辟易し、伝道に疲れ、思い悩んでおられたのではないでしょうか。神から離れてしまった神の民に、どうしたら聴く耳、従う心を取り戻すことができるのか。思い悩みを抱えつつ、静かな場所に逃れていかれたのでしょう。
 そんなところに、外国人の女の叫ぶような声が響いてきたのです。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」。しかしイエス様は何も答えませんでした。しかも、弟子たちに「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言ったのです。
 おそらくこれは、旧約に示されている神の御計画と関係しているのでしょう。羊の世話をせずに自分のことばかり考えている羊飼い(イスラエルの指導者)に怒り、「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」と言われた主なる神。自分は、この神の意志を実行しにきたのだ。それゆえイスラエルという迷える羊をまず取り戻さなければならない。主イエスはそう思っておられたのです。神の計画による順序があるのです。
 でもこの女だって、簡単には引き下がれません。娘の命がかかっているのです。強引に近寄ってきて、イエスのもとにひれ伏しました。「主よ、どうかお助けください」。ところが、イエスはそれでも拒否されたのです。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と。三回目の拒否です。それほどまでに、「まずイスラエルを救わなければ」という思いに拘泥していたということなのでしょう。
 しかしこの女がそれを変えてしまいます。「主よ、ごもっともです」と彼女は言いました。おっしゃることはよくわかります。でも、小犬だって、主人の食卓から落ちるパン屑は食べるのですよ」。 
 
 彼女は自分が小犬であると認めてしまいました。まさに小犬。娘が苦しんでいるのに何もしてやれない。本当に小さくて無力な自分。何の特権も資格もないのです。でも、小犬だって、食卓から落ちるパンを食べさせてもらうのだ。主人は小犬のことだって気にかけてくれるはずだ。そう女は迫ったのです。
 聖書にはイエスと出会った様々な人が出てきますが、イエスを言い負かしたのは彼女だけです。彼女がイエス様の心を変えたのです。計画を変えてしまったのです。

 しかし、この女の大胆さだけでは、この出来事は起こりませんでした。イエス様の応答に注目しなければなりません。イエス様は、自分の計画が一人の人間によって変えられることを良しとされたのです。それほどに自由な御方なのです。人に物を教える立場にあるユダヤ人男性の教師が、異邦人の女性によって教えられて、自分の前言を撤回する・・・そんなことは、普通考えられないことではないでしょうか。しかし主はそうされたのです。なんと柔軟な魂!主は、名も知らぬ異邦人の「信仰」に心から感動し、自らの計画を変えたのです。そこに神のみこころを見たからでしょう。自分のメンツや感情を重んじるのではなく、神の導きを重んじる。自由なイエス様に従う者として、わたしたちも神の導きに従える自由をもっていたい。
 大胆な女と自由なイエス。この二人の出会いから大切なことを教えられます。大胆に、そしてとらわれずに、神の愛の中を生きましょう。
by higacoch | 2013-03-23 13:45 | マタイ
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