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2012年8月5日

 「遣わされた者」  詩編71:14-19、マタイ福音書10:1-10

 今週8日から夏の全国高校野球大会が始まります。県大会では県によって違いますが、試合のベンチに入れるのは、大体20人だそうです。しかし、甲子園では18人に絞られます。その18人は最終的に監督が選びます。その選考基準は、やはり、野球の実力によって決められていくでしょう。それは当然であります。
 さて、今朝与えられた聖書箇所は、主イエス様が弟子12人を選出された箇所です。イエス様が弟子たちを選んだのを基準はと考えてみると、わたしたちの常識とは全く違い、非常識であるように思われます。12人は気が荒い漁師たち、疑い深い人、人々に毛嫌いされた人、政治的な活動に熱心な人であったりし、何とイエス様を裏切る者も含まれていたりで、選ばれた基準が全く解りません。彼らが弟子たるに相応しい資質と才能を持っていたとは思えないのです。しかし、イエス様はそのような12人を選ばれているのです。  
 しかもどうして彼らを伝道の初期に選ばれたのでしょうか。ある期間の訓練と修養の後に選ぶのでは遅かったのでしょうか。それはイエス様が町や村に出かけて行かれた時、人々が飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見られたからなのです。イエス様は、その人々を深く憐れまました。この「憐れむ」というギリシア語は「はらわた」と言う意味があります。そうした所から、はらわたがきゅうと締つけられる痛みを伴うことを意味し、イエス様が表面的な同情の心を持たれたのではなく、もっとはらわたが締めつけられるような痛みを覚えられたのです。そして「収穫は多いが、働き手は少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言われ、その思いから、弟子たちを呼び寄せられたのです。
 わたしたちの時代も、同様で人が生きるのに大変な時代であります。もう14年間も自殺する人が3万人を降りません。生きようとして、生きる力、喜び、希望を見いだせないでいる人が多く、弱りはて、打ちひしがれている人たちが多いのです。
 イエス様は12人を選ばれたのです。この12という数字には、深い意味がありました。それは、イスラエル民族がエジプトで奴隷状態で苦しんでいた時、預言者モーセが立てられて民族がエジプトから脱出して救われました。その時イスラエル民族は12の部族によって構成されていたのです。この12部族が12弟子を選ばれた根拠であり、そこにはイスラエル民族の復興ではなく、全く新しい神の民、神によって救われ、生きる民を表しています。
 こうして12人の弟子たちは、神の国に生きる者として、イエス様から、まずイスラエルの民の失われた羊の所、特に、弱り果て、ひしがれていた人たちの所に遣わされて行きました。その人たちに「天の国は近づいた」と述べ伝えるためでした。これは、「天の国が近々、やってくるから待ちなさい」と言うことではなく、「天の国は、(すでに)来た。」と言うものです。それは、イエス様が「神の国の福音を述べ伝えられた」ことと同じことだったのです。神の国が将来、やってくるというのではなく、今、ここにやってきて広がっている、それは、イエス様がこの世に来られたことによって始まっているということでした。神があなたを見捨てるのではなく、あなたを愛されたということなのです。このことを伝えるようにまず失われた人々、打ちひしがれている人々に弟子たちが遣わされました。弟子たちは、そうした人々だけに遣われてのではありません。後にはサマリヤの人々にも、また異邦人の人々にも、つまり地の果ての人々にも福音を伝えられていくことになったのです。
 では、12人の弟子たちは、選ばれた後、模範的な働きをしたかと言いますと、そうではありません。失敗をする、欠けの多い者たちでした。しかし彼らは、神の国の働き人として、聖霊の力のよって励まされていきました。
 今朝の聖書の箇所に、イエス様は「12人の弟子を呼び寄せられた」とあります。この「呼び寄せ」は今も行われています。それは礼拝においてです。今、皆さんを呼び寄せておられるのです。だから、12人の弟子たちとは、呼び寄せられ、イエス・キリストを信じる者たちです。信仰者は神の国の福音を伝えるために遣わされています。教会の勢力を増すためとか、教会の財政を豊かにするため、教会が政治的に力を持つようになるために、遣わされているのではないのです。教会の歴史を見ていく時、そのような誘惑に陥り、教勢が増し、財政的に豊かになり、政治的な力を持って、この世を支配するようになった時代がありました。そして罪を犯したこともありました。しかし、イエス様が弟子たちを呼び寄せられたのは、この世での権力を持つためではなく、神の国の良き訪れを宣べ伝えるためでした。
 イエス様は言われています。「私が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためにきた」また「私は、羊に命を与え、豊かに与えるためにきた。」と。弱り果て、生きる望みを失っている者たち、これは命を失っている人たちだと、言い換えてもいいかもしれません。そのような人たちに、神の到来を知らせ、命を与えるために、遣わされたのです。弟子たちがそうであったように、今は、皆さんが遣わされています。そういうと、「私はまだまだです。そんな資格はありません。」と躊躇される人がいるでしょう。しかし、小さな歩みであっても、福音を伝える者として遣わされていることを覚えて、祈り願い、神様の力である聖霊を頂き、伝える者となりましょう。ここにわたしたちの使命があるのです。
by higacoch | 2012-08-11 16:00 | マタイ
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