2012年7月8日

「信仰と生活」   ヤコブ1:1-8          生島 陸伸 牧師
 
 東小金井教会の皆さんと一緒に礼拝出来ることを嬉しく思います。
 今日は、使徒パウロの手紙とは少し違う手紙から豊かな恵みを頂きたいと準備して来ました。ヤコブの手紙1章1~8節です。
 この手紙から数えて7つの手紙を聖書学者は「公同の手紙」と呼びます。新約聖書の手紙は21ありますが、そのうち13は使徒パウロの手紙です。ヘブライ人への手紙も以前はパウロの手紙と見られていましたので、その次から7つの手紙のことを「公同の手紙」と言われます。
 パウロの手紙にはあて先が教会、または個人の名前がはっきり書かれています。ローマとかコリントとか、テモテとか。「公同の手紙」は、信徒全体に宛てた手紙と見られることから「公同の手紙」と言われます。
 歴史的にはこの手紙を新約聖書に入れるかどうかと議論の多かった手紙です。
理由は2つ、1)イエス様の出来事の内容がほとんど記されていない。
2)「信仰によって救われる」というキリスト教本来の信仰と違う「行いによって義とされる」という内容が書かれている。
「2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。」。と書いています。(ローマ4:8 B「「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。」とある。)
 これらの事で、この手紙を聖書の中に入れることにかなりの異論があった、ということです。その疑問も分かります。今日の個所を学んで見ましょう。
 この手紙の著者は1節で「ヤコブ」と書いています。ヤコブと言う名前は新約聖書にいくつか出てくるので推測がなされているのですが、使徒のヤコブは初めの頃に殉教の死を遂げています(使徒12:1)。それで、この著者はイエス様の弟のヤコブが書いたものだと伝えられています。
 イエス様の在世中、お母さんと兄弟達は、イエス様の活動が理解出来なかったと思われます。(マルコ3:31~35)多分身内の者でしたら、やはり、その当時の町や、国の指導者、祭司、律法学者たちがイエス様の活動を非難していたのですから、心配して連れ帰そうとしたのは仕方のない事だったと思います。
 しかし、使徒言行録のはじめを見ますと、イエス様の昇天後、弟子達はイエス様が勧められた言葉に従ってエルサレムで10日間、熱心に祈りました。その中に、お母さんと兄弟たちも参加していたと記されています。
使徒言行録の「1:14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」、また使徒言行録12:17。15:13。21:18--。などで、ヤコブがエルサレムの教会の中心にいたことが分かります。
 ヤコブは律法を忠実に守っていたので、「義人ヤコブ」と言われた程でしたから、ヤコブを見て、ユダヤ人たちが大勢キリスト教に入ったという記録があるようです。パウロが異邦人伝道に大きな働きをしたように、ヤコブもユダヤ人伝道に欠かせない働きをしていたと思われます。
 今日の御言葉の学びに入りましょう。
 「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」
使徒パウロの場合は、「キリスト・イエスの僕」と自己紹介で書いています。(ローマ1:1。フィリピ1:1など。)
 ヤコブの場合は、「神と主イエス・キリストの僕」と書き出しています。
創世記から黙示録までを正典として認めている教会に取りまして、「神とイエス・キリストの僕」と言いましても、「キリスト・イエスの僕」と言いましても、同じことなのですが、ヤコブはエルサレム教会の働き人として、表現の違いが出ていると思われます。多分ユダヤ教からキリスト教に入る人たちには、このような表現をするヤコブの存在は大きかったと思います。
 「僕」は奴隷と言う言葉です。この言葉は、二つの意味があります。
1)主人に完全に服従する。と言う意味で使われている。それは、初代教会で作られた考え方ではありません。イエス様がご自身と天の父の関係を語られた中にその源を見る事が出来ます。まずヨハネ5:19―「イエスは彼らに言われた「はっきり言っておく、子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事も出来ない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されたからである」。もう一つ7:16「イエスはお答えになった「わたしの教えは、自分の教えではなく、私をお遣わしになった方の教えである」と語られています。イエス様は父なる神様に従われていたと分かります。
 それが生活と密着していた。一番分かりやすい出来事がゲッセマネの祈りです。マルコ14:36―「アッパ父よ、あなたは何でもお出来になります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願う事でなく、御心に適うことが行われますように。」と3度祈られたと記されています。 完全に父に従う姿を見る事が出来ます。
2)もう一つは、旧約時代から神に召された預言者や族長たちを意味する言葉です。創世記26:24-「その夜、主が現われて言われた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす。わが僕アブラハムのゆえに」ここでも、『わが僕アブラハムのゆえに』となっています。
 列王記上8:56にソロモンの祝福の祈りの中でこのように出てきます。
-「約束なさったとおりに、その民イスラエルに安住の地を与えて下さった主はたたえられますように。その僕モーセによって告げられた主の恵みの言葉は、一つとして空しいものではなかった」と。「その僕モーセによって」と書かれています。
 「神の僕」とは、神様に忠実な僕です。神の選ばれた偉大な指導者を意味しています。
 ヤコブも「神と主イエス・キリストの僕」と自己紹介しています。奴隷のように神とイエス様に従うと言う事です。
 手紙の宛先は、「離散している12部族の人たちに挨拶いたします」。
この個所が、この手紙全体の特色を示す大切なところだと思います。「離散している12部族の人たち」これは、世界に散っている神の民たちへと言う意味です。
 大抵の民族は国が滅びて、働ける人たちが捕らわれて連れて行かれますとその民族は消えるのですが、ユダヤ民族はバビロンに滅ぼされても消えなかった。12部族という言葉は、父祖ヤコブから生まれた子供たち12人が、始祖になって12部族が出来上がったのです。飢饉のために、この家族は息子のヨセフを頼って、エジプトに避難して一人一人の家族が大きくなって12部族となった。そして、モーセによって連れ出されて、アブラハムに約束された地に帰ってきた。その途中で、神と特別の関係を結んだ祝福された民族、それが12部族。
 この王国は、神様に背きまして国が滅びますが、50年後に帰国が許された。その時、ユダヤに帰らずに世界に散っていった人たちがいた。その人たちを「離散している人たち」と呼んだのです。しかし、彼らは律法に忠実であるために、奴隷として使うには不便で多くは自由が与えられたと言われます。それらの人たちは、町々で栄え、シナゴク(会堂)を建てて、聖書を教え、信仰を保っていたと言われています。
 彼らはアブラハムの神を捨てませんでした。この人たちはキリストの福音を聴くのに、大変良い条件を備えていた。集会の場所があり、旧約信仰の土台が出来ており、その当時は、ローマがヨーロッパ全土を支配していたので旅券なしで自由に世界中を行き来する事が出来た。
 このように12部族と言いますと、アブラハムからの民族、イスラエルを意味していましたが、彼らは預言者たちが預言した神の独り子、救い主が来られた時、自分たちが負いきれなかったモーセ律法を言い訳に使って、救いへの招きを拒絶しました。
 使徒たちと信徒たちによって、ユダヤ人もそれ以外の民族も救いに導かれました。この救われた人たち、世界中に散っている新しいイスラエルに挨拶する、と書き出しています。
 そして、この手紙を書いた頃には多分初代のクリスチャンの燃えるような熱心な時代が過ぎようとしていた。信仰が言葉だけになって、生活と離れた状態になっていた、と推察されるのです。
 しかも、かってはキリスト教の擁護者であったローマの官憲が次第にキリスト教迫害に転じる様子が見えてきつつある世界情勢も踏まえ、もう一度キリスト信仰が、生活から遊離するのでなく生活の土台となって、どんな出来事に出会っても、本来イエス様の愛の麗しさを生活の土台として、行動が保てるようにと書かれたのが、この手紙ではないかと思うのです。
 長々とその時代の背景を話しましたが、その背景をわきまえて、この手紙を読まないと、パウロの手紙と矛盾するように思えるからです。
 2-4節―「わたしの兄弟たち、いろいろの試練に出会うときは、この上ない喜びとしなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。1:4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」
 「信仰を持つと、神様が一緒にいることになるので、この世の生活ではお金が儲かり、楽しい生活が出来る。」とヤコブは書いていません。むしろ、いろいろの試練に出会う、信仰が試される時の受け取り方を示しています。
 世の中が悪いから、こうなったのだと嘆くのでは困ります。相手が悪いから私も同じようにするというのでもおかしい。私の個性だから、人を押しのけ目立つ事をするのは仕方がない、嫌なものは嫌、と言うのも主の僕の生き方ではない。それでは主の栄光は輝かないことになります。
使徒パウロも同じように書いています。ローマの手紙5:3で「苦難を誇りとします。わたしたちは知っています。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」と。
 ヤコブは、「試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」と書いている。試練を我慢しているとストレスになります。その解消法は『この上ない喜びと、思う、方法を見出すことです。多分ヤコブも、しばしばそのような苦難に出会ったのでしょう。試練を喜ぶ、使徒パウロは「苦難は忍耐を忍耐は練達を、練達は希望を生み出す」と書いていますが、成長に欠かせないものです。先取りして、喜ぶことです。
 イエス様の人生は、決して楽しく、気楽なものではありませんでしたが、イエス様の人生は魅力のある最高の人生でした。イエス様がかかった十字架は最悪の死刑の道具です。現在では、多くの女性がぶら下げている。愛の象徴として、魅力があると、悲惨なことを連想するはずのものも愛のしるしになる。驚きです。
 私の場合は、試練に合う度に、私の努力で乗り越えようと頑張って失敗していました。むしろ、試練の多くは乗り越えると言う為にあるのでなく、私を造り変えるために起きている出来事のようです。どん底に落ちて、そこで、主の声に励まされ、造りかえられるのです。試練で何が変わるのでしょうか。求めること、神様に聴くことがはじまるのです。
 ここでヤコブが「信仰が試される」と書いていますが、私が今、試みの中にいることは主のご計画と信じることです。外に目を向けるのでなく、主が働いてくださって私の内に栄光が現れるように忍耐して待つのです。もう一つ大切なことは、試練と関係なく、その中でイエス様のお言葉に沿った動をすることです。この場合、主の奴隷という私を実現するのです。イエス様の愛で言葉を出し、イエス様の愛で人に仕える。それで、主の方を見上げて待つことです。不思議なことが起きます。これは主の栄光です。絶対者が私を通して不思議な事を見せようとしておられるのです。
 牧会塾が金曜日にありまして、男性と、女性に分かれた。私のところで牧師先生たちは、どのように伝道したら良いか。教会が年寄りばかりになったので、若い人に伝道する方法を教えて欲しいというのです。どう思います?。お年寄りが、御言葉で喜びが溢れるようにする事です。年寄りが若者より、もっと若々しく、喜びに溢れて生活している。年取って頑固にならないで、若者よりももっと柔軟な生き方をしている。それは、イエス様のお言葉に聴いて、従って生活すれば出来ることです。奇跡は起きる。
 嫌々ながらではなく、イエス様の十字架の御足跡に従えば感謝でしよう。
4節―「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」と書かれています。
 試練の中で、試練を取り除いてください。と祈る。でも、祈っても、試練が取り除かれない、自分の望んだことが解決しない。それはイエス様が望んでいない、ことだからです。喜んで自分の願いを撤回して、主の喜ぶことを求めるのです。その御手本はイエス様がゲッセマネの園で祈った祈りです。
マルコ14:36 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
 イエス様は3度、ご自分の受難のことを語っておられますから、知っている事ですが、十字架にかかられる前日の夜、ゲッセマネの園で祈られました。そして、天の父の御心と分かったイエス様は、十字架の道を自ら進んで歩かれました。
 苦難のとき、私が頑張って苦難を取り除こうとするのです。ここが一寸注意する所です。自分で頑張ろうとすると、ストレスになる。特に教会で聖書を学んでいる人は、良いことをしようと過敏です。普通の人より高度に良くしようとするから、ストレスが強く掛かるのです。
 イエス様のゲッセマネの園でのように、分かっていても、自分の思いも祈ることです。それが安全弁なのです。4節をもう一度見てください。
4節―「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」と書かれています。
 どうです、「何一つ欠けた所がないように頑張りなさい」と書いていますか。一言も言ってないでしょう。驚き。
 祈るという事は、「私を変えてください。あなたの喜ぶことが出来る私にしてください」と祈るのです。イエス様はマタイ11:28で「 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
出来ないことがよく分かるのです。だから祈るのです。主は必ずそうしてくださると、しているのです。
 オリンピックが始まります。選手たちのトレーニングを見ますと、驚きです。良い記録がでる体になることが目的ですから、苦痛がむしろ喜びでしょう。お相撲さんが、自動車のタイヤを引いて走っている。普通の人が町でタイヤを腰につけて引っ張っていたら『馬鹿か』と言われるでしょう。
 私たちを素晴らしい人格に育てよう。根性の相当曲がった私を造り替えようとしたらこれしかないのです。醜い私を贖って、抱きかかえてくださるお方に『有難うございます』と祈るのです。平穏無事の時は、あまり熱心に祈らない。苦難を通して、天の父は、祈りの心を起させてくださるのです。そして、私を知り、苦難を恵みにする知恵をください、と祈るのです。それが5~8節です。
 「1:5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。 1:6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。 1:7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。 1:8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」
 神様の望む知恵をくださいと祈るのです。イエス様は十字架を背負うことを受け取りました。私はイエス様から、自分自身を憎むほどに自己愛から離れて、私の愛のように他者に仕えなさいと勧められている。
 命を捨てて、私を愛してくださったお方が一緒にいて、支えるといわれるのですから、喜んで従いましょう。
 その恵みは大きい。『綾子先生は、今、幸せだね。』と言われて、『幸せよ』と返すことが出来た。それは充実した人生です。感謝です。
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by higacoch | 2012-07-14 17:36 | ヤコブ
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