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2012年5月13日

 「病む母のもとへ」  マルコ福音書 1:29-34
                     荒瀬 牧彦 牧師(めぐみ教会)
 

 イエス様と一行が、弟子になりたてのシモンの家に行きました。シモンはさぞ嬉しかったでしょう。でも家には一つ問題がありました。病人が寝ていたのです。「人々は早速、彼女のことをイエスに話した」ということから想像すると、どうもシモンが「妻の母親が病気で奥で寝ております。癒して頂けませんか」と言ったのではなかったようです。他の誰かがそれとなくイエス様の耳にいれたのでしょう。
 小さなことのようですが、これには大事な要素が含まれているのではないかと思えてなりません。シモンにとってイエス様の伝道に従っていくのが晴れがましい表舞台だとすれば、家族の病気のことは舞台裏です。あえて言いたくない、イエス様に面倒かけたくない、と思っていたかもしれません。
 教会でそういうことが時々起こります。以前、中会の某会でご一緒だったAさんが突然見えなくなりました。聞くと所属教会から離れてしまったとのこと。明るくて信仰熱心、奉仕熱心だった方だったので驚きましたが、実は御家族の問題で大変悩んでおられたそうです。それをなかなか教会の仲間には言えず、限界までいってしまって、遂に教会を離れてしまったようです。胸が痛むことです。
 自分の教会でもそれに似たことを時として経験します。ある方が礼拝から遠ざかりがちになる。なぜだろう。お聞きすると、「教会に行くと皆明るくて幸せそう。自分みたいな境遇の者が行くところでない。私の辛い気持ちなどわからないでしょう」といわれます。「そんなことないですよ。他の人たちもそれぞれ大変な状況を抱えているのですよ」と言いたいのです。でも、その気持ちはわかります。教会という公の場に行った時は明るい幸せそうな顔をしたいし、しかし心の中はそうはいかない。そのギャップに悩んでしまうのです。
 教会で明るく振舞う自分も、家に帰れば暗い部屋が待っている。自分も暗くなる。そんな裏の部分は変わらない。それは教会とか信仰とかの反対にある領域。そこではひとりで頑張って耐えていくしかない。そんな表と裏の乖離、二面性の問題を、多くの人が抱えているように思われます。
 イエス様は、家に病人がいるときいた時に、すぐにそこへ入ってゆかれました。奥の間で寝ていたのでしょう。イエス様はそこへ行き、彼女の手を取って起こされました。すると熱は去り、彼女は起き上がって、「一同をもてなした」のです。これはディアコネオーという動詞で、弟子として奉仕をしたということです。シモンの義母は、主イエスのミニストリーの一端を担う者となったのです。
 この出来事はイエス様の宣教の本質を端的に表わしているのではないでしょうか。イエス様は、よそ行きの、公の、日の当たる側面だけで私たちに関わるのではないのです。私たちが教会では簡単に人にあかせないような、自分の家の中にだけ秘めているような、裏にある生活にも入ってこられて、そこで手を取ってくださるのです。なぜなら、それも人間が生きていることの一部だから。主イエスは、私たちの知性や信仰の領域だけの主ではなく、私たちの心と体のすべての領域において主となってくださいます。病人のいる奥の間にも入ってきてくださる主なのです。
 その後に続いて書いてあることもそれを裏書きしています「夕方になって日が沈むと」(32節)病人や苦しむ人が次々と集まってきました。お天道様のもとを堂々と歩けぬような、「悪霊につかれている」といわれる人たちが、闇に隠れて集まってきたのです。イエス様はそういう人たちを迎え入れ、そこに神の国(神の支配)をもたらしてくださいました。人生の「裏通り」を歩んでこざるをえなかった人たちが、イエス様に出会って表を歩くものとなっていきました。
 シカルの町の井戸でのサマリア人女性との出会いもそうでした。彼女は、人に後ろめたい過去を持っている人で、人に会いたくないから真昼間の暑い時間に水を汲みにくるような人でした。最初はユダヤ人イエスによそよそしく “公式見解”で対応していたのですが、イエス様が彼女の過去を言い当てたら、彼女は驚いてイエス様に引き込まれていきました。救い主に出会って、彼女は町へ急いでいって人々に「さあ、見に来てください。わたしが行なったことをすべて言い当てた人がいます」と言うのです。彼女が人に触れられたくなかった裏の部分に主は入ってゆかれた。すると、彼女にとって「裏」は隠さなくても良いものになってしまったのです。むしろそのことを通して、イエス様が救い主だとみんなに伝えたくなったのです。
 教会へ来ても、裏とか陰とか、自分の抱える灰色の領域がなくなるわけではありません。大事なのは、表にも裏にも主が来られる、ということ。そして表も裏も意味がかわるのです。華やかな表だって、偽りだったら化けの皮を剥がされるし、裏もただの裏ではなくなります。裏にある弱さや病や苦しみを通して主の恵みがあらわれるからです。暗い部屋も、小さな灯をともされた暗い部屋になるのです。



    
   
by higacoch | 2012-05-19 15:42 | マルコ
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