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2012年4月1日

「イエス様の死は何か」 
           詩編118:19-29、マタイ福音書27:32-56


 今日は棕櫚の主日です。この日に、私たちは関伸子姉妹を迎える入会式を行い、さらに関伸子伝道師の着任式を執り行いました。この記念すべき日に、説教の後に、二つの式を行うことになりました。関姉妹、そして関伝道師の現場での働きが始まります。伝道師にとって宣教の場が、ここに与えられたと言うことでしょう。また、今日と言う日は、関伝道師の宣教活動の始まりと言うだけではありません。それはカンバーランド長老教会の日本中会にとっても一つの始まりの日でもあります。それは、日本中会での女性伝道者の活動の始まりでもあります。ずっと日本中会の牧師たちによっても祈られてきたことです。
 また今朝は、もう一つの始まりがあります。それは、説教の聖書箇所のことです。これまで、東小金井では、主の日の説教箇所は教会学校で使用していた「聖書教育」という教案誌を利用していました。しかしながら、4月から日本基督教団の聖書日課を取り上げることにしました。これは4年サイクルで、その最初の年を始める事にしました。そこで与えられた聖書箇所は、旧約聖書の詩編118編、新約聖書はマタイ福音書です。今朝は、新約聖書を中心として、御言葉を聞きたいと思います。
 今朝の箇所の最初の所に、小見出しで、「十字架につけられる」とあり、45節以降の所では、「イエスの死」とあります。この小見出しをまとめると、「イエス様は、十字架につけられ死なれた」となります。イエス様は十字架を負い、刑場まで歩まれました。この道を悲しみの道、ラテン語では「ビア・ドロローサ」と言い、カトリック教会では会堂の中に14の場面を覚える絵画、レリーフを順番に掲げ、その一つ一つに留まって祈りをささげます。第一場面はイエス様が死刑を宣告されたところ、最後はイエス様の体が墓に納められたことを覚えます。今朝は第5から12の十字架上での死にあたりますが、このイエス様の死は何であったのかを学びたいのです。
 十字架の周りの人たちーローマ兵士たち、ユダヤ人の巡礼者、ユダヤの最高議会の議員(指導者層)たちー、彼らは皆イエス様を侮辱し、軽蔑し、愚弄しました。しかし、イエス様は十字架の上で「彼らをおゆるしください。彼らは自分たちが何をしているのか知らないのです」と祈られました。そうです。彼らは解り得ませんでした。預言者イザヤが預言して「彼が担ったのは、わたしたちの病、彼が負ったのは、わたしたちの痛みであった。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためにあった」と言っています。イエス様の苦しみ、それは、わたしたちのためであり、イエス様の十字架の死も、わたしたちのための死だったのです。
 信仰者がどんなに迫害を受けても信仰を捨てない、たとえ命を取られるようなことになってもその信仰を捨てない、棄教しないで死に至ることを殉教と言います。そのようにイエス様も父なる神様を信じて信仰を全うして死んでいかれたと受け止めている人がいます。迫害が激しくても最後まで信仰を捨てない死と受け止め、これこそ信仰者の模範的な死だと考える人がいたりします。イエス様の死、十字架で苦しまれて死んでいかれた死は、そういうものだったのでしょうか。イザヤが預言している「わたしたちのため」というのは、信仰者の模範の死だったのでしょう。ここに自らの死に方の第一の見本を見るべきなのでしょうか。
 パウロと言う人がいます。元々はユダヤ教の熱心な信者でした。ユダヤ教を信じ、ユダヤ教を教え広め、信者を指導する律法学者でありました。信仰の模範を教え、自らもそのように生きることを常にしていた人でした。その彼が復活のキリストに出会い、180度、変えられました。それまで人々の先頭にたってキリスト者を迫害していた者から、まったくその逆のキリストを伝える伝道者になったのです。彼は神の力である聖霊を頂いて世界伝道に出かけていきました。その彼が。コリントの信徒への手紙一で「わたしが最も大切なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたもので、キリストが聖書に書いてある通り、わたしたちの罪のために死んだこと」と言っています。当時はまだ新約聖書はありませんので、旧約聖書をさします。その旧約聖書に書いてある通りと言うのは、イザヤの預言のことです。そこには「わたしたちの背きのために」「わたしたちの咎のため」が語られ、「わたしたちのために死なれた」とはっきりと示されています。イエス様の十字架の死を、信仰者の模範としての死ではなく、罪の贖いの死、罪の赦しの死を見ていました。
 そうです。イエス様の死は、わたしたちの罪のための死であり、ここに神の赦しの愛が表されています。この愛が人を生かすのです。ここに救いがあるのです。どうしようもない罪人、自分で自分を救えない罪人、ますます泥沼にはまりこんでいくしかない者を神は憐れんで下さいました。イエス・キリストは人に模範の死を示すために、この世に来られたのではありません。罪人を招くため、罪人を救うためにこられたのです。ヨハネ福音書3章16、17節に、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るため、神が独り子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、独り子によって世が救われるため」とあります。世を愛された、世を救われる、というのは、「あなた」をなのです。あなたを愛された、あなたを救われる、のです。イエス様は罪人の「あなた」を救うために来られました。そしてあなたの罪をあがなうために死んで下さったのです。
by higacoch | 2012-04-07 16:01 | マタイ
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