「苦しみの声を聞かれた」 出エジプト記3:1-15、 使徒7:30-35
本日は、中会のミッションサンデーとして、東日本大震災を覚えて、共に祈りますが、その中に「主よ、あなたはすでに、痛み、苦しみのある人々のところに、共におられることを、私たちは知っています」とあります。主は、痛み、苦しんでいる人を憐れんで下さいます。このことが今朝の箇所、出エジプト記3章7節にあります。「主は言われた。わたしはエジプトにいるわたしのために苦しみをつぶさに見、彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえに私は降っていき、彼らを救いだす」と。神は、苦しむ者を見捨てたりはされない。そうではなく、苦しむ者の叫びを聞き、助けられることを学びたいのです。 今朝の聖書箇所の小見出しに「モーセの召命」とあります。モーセが神様の働きをするために召されたことが記されている箇所であります。 モーセはエジプトの王女の子として成長し、エジプトの地で40年を過ごし、その年にエジプト人殺しをし、ミィデアンの地に逃れ、家庭を持ち、羊飼いとして40年過ごしました。ある日、ホレブの山まで羊を追い、柴が燃えているように見えましたが、それが一向に燃え尽きないので、近づいて見ると、神がモーセに語りかけられました。「ここに近づいてはならない、足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる場所だから」と。さらに「わたしはあなたの父なる神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とはっきりと告げたのです。 そして、「私は、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」と言われました。ここに私の民の苦しみを見た、聞いた、知った、とあります。「それゆえに、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救いだす」。神は、高い所から苦しむ民をみているだけではありません。降っていってとありますように、降ってきて、イスラエル人を救う働きをしようとされたのです。そのために神はモーセを召し「あなたをファラオのもとに遣わす」と言われたのです。 彼は「はい」とは言えませんでした。戸惑ったのです。あるいは、自分はエジプトから逃げてきて、今の生活がある。いまさら、どうして、エジプトに行かなければならないのか解らない、できるなら、今の生活を続けさせて欲しい、エジプトに戻ったら、自分は殺されるかもしれない。そんな恐怖もあったでしょう。どちらにしろ、モーセとしては、エジプトには行きたくなかったのです。ですから、彼は神に応えて「わたしは何者なのでしょう。どうして、ファラオのもとにいき、しかもイスラエル人をエジプトから導きださなければならないのでしょうか。」と反論しています。かれの正直な気持ちは、私は、そのようなことができないということでした。ところが神は断わるモーセに約束されます。「わたしは必ずあなたと共にいる。これこそが、わたしがあなたを遣わすしるしなのだ」と。それを聞き、モーセは、イスラエルの人々の所に参ります、と言いはしましたが、彼の心は不安で一杯でした。そこで、神に「私がイスラエルの人々の所に行って彼らに、私は、あなたたちの先祖の神に遣わされてやってきたと言った時、彼らは私に聞くでしょう。その神の名は一体、何という名前なのかと、そう問われたのなら、どうしたらいいのでしょうか」と問いかけています。 当時、周辺諸国では、それぞれの国で神々があがめられていました。エジプトにおいても神々の神殿があり、祭られていました。そこで、モーセは、どうしても神に聞きたかったのです。名はその本質を現すものだと信じられていましたから、聞いたのです。それに対して、神は「わたしはある。わたしはあるというものだ」と。これは、あるものをあるものとしている者だ、という意味です。つまり、すべての存在の根源となっている者、という意味です。こうして、神はモーセをイスラエル人々の救いへと送り出します。でもその後も、モーセはごねるのです。モーセが神の救いの働きへと用いられたのは、彼が固い信仰を持っていたからでも、知恵に満ちていたからでもありませんでした。人間的には弱い人であったけれども、神が、モーセを用いられました。モーセは以前に同胞の民を救おうとしたが、殺人を犯し、同胞の民から憎まれる結果となり、エジプトを離れることになった。こうした挫折があったので、神の召しにすぐに応えられませんでした。しかし、その挫折したモーセを神は召されました。この召しは、モーセを再び生かすことでもありました。 苦しむ民の叫び、それは、祈りでもあります。神は苦しむ者叫びを聞いて下さるのです。その苦しむ声を聞かれたゆえに神は降ってきて、イスラエル人を奴隷状態から救い出されたのです。神は、人間的には弱さや挫折を抱えていたモーセを選び、召し、そして、救いの御業に用いられていきました。 神は、苦しむ者の声を聞かれる。そして、その苦しむ者に仕えるように、私たちは遣わされているのです。大きな業も小さな業も、どちらにしても、私たちは神の働きへと遣わされているのです。私たちに力があるから、時間があるから、知恵があるからではありません。モーセがそうであったように、弱い、自信のない、挫折を抱えている私たちを生かして用いられるのです。お一人一人は神様から召されています。神様の救いの御業の中に用いられているのです。神に信頼し、私たちの召しをしっかりと受け止めて、神様を見上げて歩んでいきましょう。
by higacoch
| 2011-07-25 17:23
| 出エジプト記
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