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2010年3月14日

「見えないものにまなざしを注いで」 Ⅱコリント4:16~18    
                            丹羽義正牧師(成瀬教会 牧師)

 絵は、背景が変わることによって前景がまるで違ったものに見えてくる。このことは私たちの人生にも共通する。私たちが日々経験する出来事を絵の前景に例えると、背景となるのはその人の人生観とか信仰である。その背景によっては、日々経験する様々な出来事も全く違うものに見えてくる。例えばパウロは日々経験する出来事を「一時の軽い艱難」(17節)と言う。パウロは苦労を知らない人だったのではない。「私たちは四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(8節)とあるように、艱難と二人三脚の人生を歩んで来た人なのである。パウロにそう言わせる背景とは何であるのか。パウロはそれを18節で語っている。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」。見えないもの、永遠に存続するものがパウロの背景、それは神の愛である。神の愛は永遠、その愛が私たちに注がれている。そのことがパウロの人生の背景になっている。つらいこと、苦しいことが一杯ある。それでもなお神の愛がここに注がれているという背景をもって見るとき、それらの苦しみは一時の軽い艱難でしかないと言うことができる。これが神を信じる者に与えられている恵みである。神の愛は、生まれたままの人間の目では見ることができない。だからパウロは言う。「見えないものに目を注ぎます」と。見えないのにどうやって見るのだということになるが、この「目を注ぎます」と訳されている言葉は、原文ではスコーぺオーという言葉。英語のスコープという言葉の語源になったものだ。テレスコープ(望遠鏡)、マイクロスコープ(顕微鏡)のように、この言葉は、遠くある物を近くに引き寄せたり、小さなものを幾倍にも大きくして、肉眼では見えていなかったものを見えるようにするという意味合いを持つ。何かの助けを借りて初めて見えるようになることを言うのだ。神の愛を見るための助けとは、イエス・キリストである。私たちが信仰をもってイエス・キリストを見始めるとき、私たちにどんなに大きな神の愛が注がれているかが見えるようになる。クリスマスの夜、イエス・キリストは弱さを抱えた私たちとし同じ人間、壊れやすい土の器となってくださった。そして、あの十字架の上では私たちに代わって罪のあがないとなり、神に見捨てられて死んでくださった。そのことをじっと見つめるとき、私たちも「これは一時の艱難でしかない」と言わせていただけるようになる。
by higacoch | 2010-03-20 17:33 | コリント
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