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2009年9月20日

「すべての人の平和」    詩編85:9-14, エフェソ2:14-22

 今朝の詩編は、「正義は神様から与えられ、そして平和を神様が宣言される」と歌います。こうした詩編が指し示しているのは、今朝の新約聖書のエフェソの信徒への手紙に記されている個所ですが、そこには「キリストは私たちの平和」とあります。そうです。キリストは私たちに平和をもたらした方なのです。二つのものを一つにして下さいました。二つのものとはわたしたち人間と神様です。私たちが悪いことをし、神様から離れて自分勝手に生き、一向に神様を畏れない歩みをしていたのです。ですから、両者は一つには決してなり得ませんでした。どんなに神様が預言者を通して神様の御旨を伝えても人間は神様の元にやって来ませんでした。つまり人間は神様の前に罪を犯し続けたのです。
 罪を犯し続けるということは、神様と一つになれないだけではなく、人間同志も一つになれません。私とあなた、あなたと私、双方が自分勝手な生き方をすれば、衝突するのは目に見えて明らかです。そこには平和がありません。いさかいがあるだけです。互いが互いを傷付けあうだけです。そこには相手に対する憎しみが生じ、共に生きていけなくなります。
 人間と神様もそうでした。ただ人間が罪を犯し続けたので、神様と人間とは分裂していました。一つになれなかったのです。ですが、イエス・キリストはその分裂、分断の壁を壊して下さいました。それはイエス・キリストの十字架を通して壊して下さったのです。十字架を通してとは、人間を赦すために自らが犠牲となって代わりに罰を負って下さったのであります。この出来事が神様と人間達との壁を壊し、一つになっていきました。これはあくまで、人間側が神様に近づいたと言うのではなく、その逆で、神様が人間の罪を赦し、近づいて下さった事なのです。
 争いから一致を、そう祈る時、そこには赦しがなければなりません。私たちの人間社会でも、双方がお互いの罪を言い争う時、そこにはいざかいが絶えません。そこには赦しがありません。ですから、共に生きてゆくことができません。
 キリストはすべての人の平和であります。すべての人を愛されたのです。それは皆がキリストの愛によって生かされて生きるためです。キリストにあっては外国人も難民もありません。キリストにあるならば神の家族なのです。キリストによって自分の罪が赦されたことを知らされた者たちはキリストによって互いが組み合わされ、共に成長するのです。互いが憎み合うのではなく、互いがゆるしあい、仕え合い、愛し合うのです。パウロの時代においても、またこの現代においても、さらに将来においても、キリストはわたしたちの平和なのです。なぜなら、キリストはすべての人のために死なれたのですから。
by higacoch | 2009-09-26 13:56 | エフェソ
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