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2009年5月3日

 「和解の言葉を委ねられた教会」  イザヤ書43:19-20、コリントⅡ 5:16-21
 
 先週、三教会合同退修会が滝乃川学園で行われました。講師は並木浩一先生で創世記からお話し下さり、聖書の人間創造物語は特権者の物語ではなく、一般の人間が論じられていて、特権者や神々の奴隷としての人間が描かれているのでもないと話されました。聖書は特別な人間の誕生に関心を持っていた英雄物語ではなく、一般の人間、個としての人間そのものに関心がある人間物語だということでした。
 こうした点は、旧約聖書だけではなく、新約聖書にも見られ、特にイエス様のたとえ話の中には顕著であります。こうしたことは伝道者パウロもそうです。パウロは以前、律法学者でありましたが、キリストによって変えられていき、キリストを知るがゆえに、そうした地位も知識も糞土のように思っていると語っています。つまり、価値をそこに置いていませんでした。
 パウロは言いました。「キリストと結ばれる人は、誰でも新しく創造された者なのです」と。キリストと結ばれ、新しく創造された者とは、特権階級の人ではありません。パウロが言っていますように「誰でも」であり、人、一般の人であります。つまり、人間の側には何の条件もありません。ただ、キリストの恵みであるキリストの救いを受け入れた者、その人なら「誰でも」、新しく創造された者だというのです。一人一人がキリストに繋がることで、新しくされるのです。キリストに結ばれることによって、誰でもが新しく創造されるのです。これは、神からによるものであって、神はキリストを通して私たちを御自分と和解させて下さったと言っています。そしてさらに、神様の側からそうされたのは私たちが和解のために奉仕するためだと言っています。パウロは、キリストの使者とされたと言うのです。では、わたしたちだけが神と和解させて頂いたのでしょうか。私たちだけが、特別な和解を頂いたのでしょうか。そうではありません。
 その点、パウロは注意深く語っています。18節に「神はキリストを通して、私たちを、御自分と和解させ」と語り、19節でも同じように「神は、キリストによって、世を、御自分と和解させ」と繰り返すように言っていますが、よく見ると18節は、「私たちを」ですが、19節では「世を」御自分と和解させと言っています。最初に「私たちを」、そのすぐ後に「世を」と言っています。ですから私たちだけが和解させて頂いた者ではありません。世も和解させられたのです。でもこの出来事を世の人々は知っていません。だからキリストによる和解を伝える務めが私たちに与えられていて、それはキリストに結ばれた人は誰にでも与えられているのです。わたしたちとはキリストの体なる教会であり、この和解を人々に知らせる特別な人がいるのではなく、一人一人なのです。神様が私たちをキリストの和解のために召し出されているのですから、キリストによる和解を伝えていきましょう。
by higacoch | 2009-05-09 19:06 | コリント
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