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2009年12月27日

「待ちつつ、望みつつ」 イザヤ65:17-19、Ⅱペトロ3:8-13

 今日は今年最後の主日です。1年という区切りでは、終わりを迎えますが、私たちの信仰生活においては、終わりを迎えるものではありません。私たちにとっての終わりは、主イエス様の再臨の日であり、それは終わりと同時に完成の日であります。その日を待望して生きていくのです。再臨の前に地上の生が終わり、天に召される方もおられるでしょう。
 私は、望みをもって生きるということで教えられた本の一冊に「夜と霧」という本があります。著者はV・フランクルで、ナチス・ヒットラーの時代の強制収容所アウシュヴィッツでの体験記ですが、そこで見た光景が記されています。フランクルはユダヤ人でしたので、捕らえられ収容所に送られますが、精神医学者でもありましたので、自分の周りに起こる多くの死をしっかりと見つめ、そこで起こった人間の生死の境を詳しく分析してこう書きつづっています。「人は未来(希望)を失うと内的に崩壊し、身心ともに生きる意味を喪失し転落(死)した」と。
 今朝の聖書箇所を読むと、人々はイエス様の再臨を期待し、その日が遅いと考えて不満を募らせ、その信仰が揺らいでいました。そんな人々にペトロは、主が約束を忘れたとか、怠けておられるのではなく、「主は一人も滅びないで、皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるからだ」と語り、「神の日の来るのを待ち望み、またそれが来るのを早めるようにすべきです」と言っています。このことは、私たちが再臨の日を早めることができるということではありません。ここで言われていることは、一人も滅びないように、あなたがたが、救われる人のために祈り、神が願われているように励みなさいと言っているのです。
 現代でも聖書を持ち出して、終わりの日は何時何時来ると預言する新興宗教があります。終わりの日に期待を持たせ、信者に伝道を急がせ、強制したりしています。人間の側で終わりの日を設けて、偽りの希望を与えています。それは幻想です。
 私たちにとって大事なことは、新しい天と新しい地とを、神が、備えてくださることを待ち望みつつ、歩み続けることです。私たちは主を見上げて、主が祈り求めるように教えて下さった「御国が来ますように。御心が行われますように。」と祈り求め、一人でも救い主イエス様を信じて生きる者が起こされるようにと祈り求めることです。
 マルチン・ルターは言いました。「たとえ世界が明日終わるとしても、今日、私はリンゴの木を植える」と。それは、主にあって今日の務めをしっかりとなしていくということです。たとえ明日、世界が終わろうとも、明日に自分の命が絶たれようとも、希望を抱いて、神の国の完成である終わりの日を待ちつつ、生きていきましょう。
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by higacoch | 2009-12-31 00:59 | ペトロ

2009年12月20日

「悲しむ世界に喜びを」   エレミヤ書31:15-17、 ルカ福音書2:1-20

 今朝与えられたルカ福音書で、天使は羊飼いたちにイエス様の誕生を告げています。当時の羊飼いのことを考えてみますと、彼らは悲しみの中に生きていた人々でした。人々から嫌われ、かつ神から見捨てられた者、罪人と呼ばれて蔑まれていました。ですから羊飼い達は孤独で、自分たちは神からも見捨てられていると感じていたでしょう。人々から排除され、悲しい現実の社会の片隅で、日々、生きていました。そんな彼らに天使は近づき、大きな光で彼らを照らし、彼らに「恐れるな。私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と告げました。人々から嫌われ、しかも神からも見捨てられていると軽蔑されていた彼らに、天使は「民全体に与えられる大きな喜び」を告げる」と伝えました。最初に伝えられたことから考えますと、こう言えます。「民全体に与えられる大きな喜びを、まず何よりもはじめに、あなたがたに伝える」と。他の誰かではない。人々に嫌われ、また神から見捨てられていると言われているあなたがたに伝える。あなたがたは、決して神に見捨てられてはいない、神はあなたがたを見捨てるどころか、あなたがたを愛しており、大切に思っている、だからこそ、イエス様の誕生をまずあなたがたに知らせるのだと。
 彼らはその後どうしたでしょう。彼らは天使が伝えてくれた出来事を見ようではないかと、ベツレヘムに出掛けました。そして与えられたしるしを頼りに、家畜小屋を探しました。もしもどこかの民家で、あるいは宿屋でお生まれになっていたのなら、彼らは家の主人、また宿屋の主人に追い返されたでしょう。「汚い奴、入って来るな」と。でもイエス様の誕生の場所は、彼らにとってなじみの場所でした。その場所でイエス様がお生まれになったのです。こうしてその場所は喜びの場とされました。羊飼い達はイエス様に出会うことができ、喜びに満ちあふれました。そして、人々に喜びを伝える者となりました。
 この羊飼いの出来事は私たちにも通じます。私たちもイエス様のことを知らされた者であります。イエス様はすべての人に与えられた大きな喜びです。イエス様は決して遠い方ではなく、私たちに近づき、そして命を賭けて愛して下さり、私たちを救って下さった方なのです。そのことを知らされている私たちも、羊飼いが喜びに満ちてイエス様の誕生を知らせたように、喜びをもってイエス様を伝える者となりましょう。イエス様のことを知らない人々が、まだ多くおられます。私たちが出会う隣人のためにも、イエス様は死んで下さったのですから。
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by higacoch | 2009-12-26 21:16 | ルカ

2009年12月13日

「キリストにつながる枝」  ヨシュア記24:14-15、ヨハネ福音書15:1-17

 アドベント第3主日を迎えました。アドベントクランツの3本目の光は、喜びの光と言われます。イエス様の誕生は私たちの喜びであり、イエス様はわたしたちに生きることの喜びを与えて下さいました。
 今朝の箇所で、イエス様は言われています。11節にこうあります。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」と。イエス様は、どんなことをこれまで話して来られたのでしょうか。ここで話された話はイエス様の遺言だとも言われています。それはこの翌日にはイエス様は十字架で殺されるからであります。この場面が弟子たちと一緒に過ごす最後のチャンスでした。ですからイエス様は大事な教えを伝えられました。「わたしに繋がっていなさい。わたしもあなたがたに繋がっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしに繋がっていなければ実を結ぶことはできない。わたしはぶどうの木、あなたがたは、その枝である。人がわたしに繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と語られました。イエス様に繋がることーこれはイエス様の言葉を聞き続けることであり、イエス様を信じて生きることです。イエス様がこう教えられたことには訳があります。それは弟子たちがイエス様から離れざるをえなくなるからでした。実際、弟子たちは離れていきました。ユダはイエス様を裏切り、他の弟子たちもイエス様が捕まった時、イエス様を一人残して逃げ去ったのです。そして自分たちも捕らえられるかもしれないという恐怖心から、部屋に鍵を掛けて隠れました。このように、彼らはイエス様から離れた状態になったのです。ですが、離れたままになったのではありません。一時的には離れましたが、またイエス様の弟子として働きました。繋がっている時はあまり考えなかったことが、離れてしまっている間に心の中に響いてきたでしょう。
 イエス様に繋がる、イエス様の言葉を聞いて生活する、このことが喜びをもって生きることにおいて大事なことです。そしてその繋がりの元となっているのは、「あなたがたが、わたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです」というイエス様の言葉です。繋がりの根拠は「あなたがたがわたしを選んで、わたしに繋がろうとして、わたしのもとに来たのではない。その元となっているのは、あなたがたの心、あなたがたの決心ではない。 わたしの心なのだ。 わたしがあなたがたを選んだのだ。 それはあなたがたがわたしと繋がって、わたしの言葉(養分)をもらい、成長し、実を結び、その実が残るようにしているのだ」と。あなたがたを愛し、生かし、用い、実がみのるようにと言われているのです。イエス様に繋がって生きていきましょう。ここに喜びの源があるのですから。
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by higacoch | 2009-12-19 21:17 | ヨハネ福音書

2009年11月29日

「信じる者は待つのです」 フィリピ3:12-4:1  荒瀬牧彦牧師(めぐみ教会)

 以前、朝山正治先生が「信仰っていうのはその大部分が『待つ』だ」といわれていて、最近になってようやくその意味がわかってきた気がする。我々はキリストによって救いを得ている。神の国は確かに我々のうちに始まっている。しかしまだ救われていない。我々は「御国を来らせたまえ」と日々祈る者であり、神の約束を信じて、みこころが全地になる完成の時を待ち望みつつ生きている者なのである。
待つことをやめさせようとする力は強い。「あなたは一体何を待ってるのか。そんな信仰、トクなことはないよ。目に見える結果がすぐ出る、もっと良いものが他にあるのでは」というささやきが聞えてくる。現世利益を保証する宗教というのは、ある意味、「うちはお待たせしませんよ!おトクですよ」というセールスに成功しているビジネスであって、それは待ち望み続けることを愚かな行為とみるのである。
 あなたは待っているか?待ち望むべきものを待ち望んでいるか。それとも、ただ時の中を流されているか・・・これは重要な問いである。同じように時間を過ごしているようでいて、何も待っていない者と待っている者は根本的に異なる。「彼らは・・・この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを待っています」。
「待つ」という行為は、ぼんやりと手をこまねいているということとは違う。パウロの姿に注目しよう。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。
 パウロのこの前傾姿勢から、我々は過去によってすべてを決定されてしまうものでなく、前から、未来から今をつくられるものだ、ということを覚えたい。我々はキリストによって捕らえられているがゆえに、キリストを捕らえようと前へ体を伸ばす。前にあるものが我々を形成する。もちろん、複雑な問題、悲しい事態には長くて重い歴史があって、その集積としての今があるということは否定できない。けれども、キリストにつながれ、キリストの命を受けているものは、過去によって身動きできないほどに支配されるのではないのだ。過去はキリストの十字架がおってくださったのだ。過去はもちろん重い。しかしなお我々はキリストゆえに新しく生きることを許されている。キリストに結ばれた者には確かに、未来からつくられるという次元があるのだ。
 「キリストは明日おいでになる」(『讃美歌21』244)は、過去と未来が交錯するような不思議な歌だ。しかしこの歌は、十字架と再臨の間を生きる我々の使命をよく表現しているように思う。「み子キリストは、いつの世にも/みどり子としておいでになる。/その約束を果たすために、/わたしたちをも用いられる。」
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by higacoch | 2009-11-30 22:06 | フィリピ

2009年11月22日

「罪の赦しのために」  イザヤ書49:24-25, マタイ福音書12:22-32
 
 イエス様の所に、悪霊に取りつかれて目が見えず、口の利けない人が連れて来られました。イエス様はその人を憐れみ、癒されました。この出来事に立ち会った人々は皆、驚きました。しかし、そこにいたファリサイ派の人たちは人々の驚きを冷笑するかのように、「あの男は悪霊の頭領であるベルゼブルの力によって、悪霊を追い出しているにすぎない」と教えたのです。このことにイエス様は怒りを感じられ、ファリサイ派の人々にも、また周りにいた人々にも、はっきりと断言されました。「私は神の霊で追い出している」、そうであるなら、「神の国はあなたたちの所にも来ているのだ」と。「私は、決して悪霊で追い出しているのではない、神の霊で追い出している」と断言されました。今ここで起こっているのは、悪霊の仕業などではない。神の霊による出来事なのだと。
 だから、さらに語意を強めて「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される、だが、霊に対する冒涜は赦されない」これは、神の霊に対する冒涜は、赦されないということです。さらに、「人の子に言い逆らう者は、赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」ときつい言葉で、言われました。
 イエス様は言いたいのです。神の霊による業を悪霊の業だと解釈し、神の霊の業を認めない、そんなことはないと言い張る者は、私に対して逆らったのではなく、神に逆らうことであり、聖霊がなさる業に対して、それは悪霊の業だと言い張り続ける者は、赦されることはないと言われるのです。
 私たちの周りにもこれに似た固い信念をもって生きている人がいたりします。科学的に証明されなければ決して信じない、理性に叶った事でないと信じないという人がいたりします。実に現実的で、人間的であります。神の国があなたたちのところに来ているのに、それを認めない。聖霊が働いているのに、神の霊を認めない。神の霊の働きを認めない人は、神の業を認めることはできません。認めることができないから、別の解釈をくっつけて理解しようとするのです。
 イエス様は、すべての人のために十字架に掛かり、自らの命を捧げて、私たちの罪を赦して下さいました。その罪の赦しを伝え教える聖霊の業を一度や二度否定し、あるいは何度も逆らったとしても、最終的に受け入れるのなら、赦されるのですが、最後まで頑固に逆らい続ける時、その人に赦しは届きません。自らが拒否しているからです。
 罪の赦しのために、この世に来られ、一人でも救われて神の国に生きるように、現代も、聖霊が働きかけているのです。ですから、赦しへと導き、招いている聖霊の業を、求道者の方々が、受け入れて、イエス・キリストを救い主として信じて、歩んで頂きたいと切に祈り求めます。
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by higacoch | 2009-11-29 16:45 | マタイ

2009年11月15日

「互いに仕え合うため」   イザヤ書56:6-8, Ⅰコリント12:1-11
 
 今朝の箇所でパウロは言っています。「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことをぜひ、知っておいて欲しい、賜物にはいろいろあります。ある人には知恵の言葉、ある人には知識の言葉、またある人には病気を癒す力、・・・」と。いろいろな聖霊の賜物が述べられていますが、それらは同じ霊によって与えられたと言っています。賜物のギリシア語は、カリスマと言う言葉であります。この言葉は現代でも、よくあの人はカリスマ性があるとか、カリスマ的な人だとか言ったりして、その人の指導力が取り上げられます。辞書には「予言や奇跡を行う超能力、大衆を心酔させ、従わせる能力、資質の意味」とあり、人物ではナポレオン、ヒットラーなどとありました。このように現代では人をリードする能力に秀でている霊力をもっている人のように受け止められています。こうした誤解からか、教会でも問題が生じたりしているのです。キリスト教ラジオ放送番組(FEBC)で「今日を問う」という番組があり、「キリスト教会のカルト化を考える」という問題が取り上げられていました。カリスマ的牧師、霊的指導者、それがいつしかカルト的な指導者になり、信者はその牧師に服従するように、育てていると言うのです。こうしたカルト的な牧師が性的なスキャンダルを起こし、新聞、雑誌に取り上げられたりしました。こうしたカリスマ指導者、それは新興宗教の指導者などに多いのです。
 パウロがいうカリスマ、賜物は、人をリードし、支配し、服従させるための力ではありません。聖霊の賜物は、それぞれ色々ありますが、それは7節にありますように、全体の益になるためなのです。一人の人物によって、統率されるためではありません。一人一人に、霊の働きが現れ、全体の益となるためなのです。決して、ある一人の人物のためではないのです。全体の益のため、それは、教会の全体の益のため、言い換えれば、教会というのは、一人一人によって成り立つキリストの体でありますから、一人一人の成長のために益となるものであり、そうしてキリストの体の成長が与えられるのです。その成長とは単なる数の増加でも、教会の勢力の増強でもありません。
 神様の霊である聖霊の賜物は、私たちが生まれる時に才能として与えられているタラントンとは違います。タラントンとは、その人が生まれながらに神様から与えられたものをいい、カリスマは聖霊の賜物であり、私たちがキリストの体の中で、どのような務めで働くのか、そうした務めとの深い関係の中で与えられる神様の恵みなのです。こうしたカリスマは、タラントンとの関わりの中で与えられるものもあるでしょうが、それだけではありません。神様がその人を用いようと、その人に与え、その人を生かされるのです。そうした時、その人だけの成長ではなく、隣人との関わりの中で、互いに仕え合う中で豊かに生かされて、全体の益となっていくのです。
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by higacoch | 2009-11-21 14:59 | コリント

2009年11月8日

「信じるようになるため」 歴代誌下20:20-21, ヨハネ福音書 14:25-31

 今朝はイエス様によって語られている聖霊の働きを学びたい。イエス様は「わたしがあなたがたといた時に、これらのことを話した」と言われました。これは私はあなたがたといなくなる時がくると言うことが暗示されています。そうした時が来たならば、「弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」とおっしゃっています。ここには、「私の名によってお遣わしなる聖霊」とあります。イエス・キリストの名によって遣わされる、それが聖霊なのです。イエス様の名前以外に遣わされることがないのです。偽の名による霊の働きを説く異端が、今もはびこっています。
 聖霊がすべてのことを教え、イエス様が話したことをことごとく思い起こさせ、解るようにして下さるのは、私たちの人間的な知識や知恵による理解ではなく、神の知恵による理解なのです。それは、どんなに聖書を読んで聖書知識を得て、人間の努力や精進をしたとしても得られないものなのです。イエス様も少し後の16章に「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせてくださる」と教えておられます。ここには示されているように救いの出来事の真理は、人間的な知恵では理解できないのです。ですが、そんな弟子たち、また私たちに理解できるようにしてくださる。できない者ができるようになる、それは聖霊によるのです。
 イエス様は言われます。「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事が起こる前に話しておく」と。事とはイエス様の十字架の出来事であり、復活の出来事なのです。この事が起こる前に、どうしても弟子たちに言っておきたいことだったのです。どんなに多くの神の国の教えを語ったとしても、それだけでは不十分。どうしてもこれだけは話しておかなければとの思いがあったからこそ、ここでも、16章でも聖霊のことについて語られているのです。
 イエス様のことを知らせる確かな神の働きかけがある。それが弁護者である聖霊です。イエス・キリストの名を知らせる、それはイエス・キリストによって示された出来事、救いの出来事を理解できるように教えて下さいます。理解できた時に、何かが起こる。イエス・キリストを信じることができるのです。ここに初めて、人はイエス・キリストの救いの出来事を理解し、イエス・キリストを救い主として信じることができるのです。この罪人の私のために、イエス様が死んで下さったと。
 こうした聖霊の働きは、弟子たちの時代、2千年前の頃の出来事だけではありません。今も働いて下さっているのです。ですから各々の国々で信仰者が起こされて、教会が建てられています。ぜひ聖霊の促しを受け止めて、一人でもイエス・キリストを信じて、信仰の道へと歩んで頂きたい。歩みには喜びがあり、感謝があり、平安、平和があります。
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by higacoch | 2009-11-14 22:51 | ヨハネ福音書

2009年11月1日

「神にあっての多様な生き方」 アモス5:4-6, Ⅰコリント 7:1-16,25-35
 
 私の好きな絵本に「みんなのかお」というものがあります。「かお」といっても人間の顔ではありません。動物のかおです。ラクダ、ライオン、象など24種類の動物たちの顔を写真に撮り、21匹の顔写真がただ並べてあるだけのものです。見ていて同じ動物でもこんなにちがうんだなあと思わされます。私たち人間も本当に一人一人顔が違っています。外形の顔だけでなく、内側である与えられた才能等も違います。神様が人を違うように創造し、命を与えておられます。(「タラントンの譬え」マタイ福音書25章参照)こうした違いは、その人の生き方にも反映しています。
 今朝与えられましたコリントの信徒への手紙は、伝道者パウロがコリントの教会に宛てた手紙であります。当時、コリントではグループ争いが起こっていました。そうしたもめ事の一つに人の生き方の論争がありました。人は結婚すべきか、独身を通すべきかと。パウロは独身でしたが、ペトロは妻帯者。こうした類の論争があり、信徒の一人がパウロに手紙を書いたのです。ですから、今朝の箇所にパウロは「そちらから書いてよこしたことについて言えば・・・」と前置きして書いています。パウロは男女の関係、結婚の意義、夫婦間の規範と相互関係。一時的な別居生活等の勧告をしています。特に教会内に性の乱れがあったので、このした関連で述べています。(5章1節以降参照)
 パウロ自身の考えとして「皆がわたしのように独りでいて欲しい」とは言ってはいますが、そうでなければいけないと言ってはいません。続けて「人はそれぞれ神から賜物を頂いているのですから、人によって生き方が違います」と言っています。信仰者のライフスタイルは、一つにくくることはできません。パウロは実に具体的に、いろいろなケースで助言を与えていますが、彼がこうしたことを書いている背景には、ある緊張した状況があって書いていることが解ります。終末的な、時が迫る緊張感をもってなのです。そして、わたしがこういうのはあなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をしてもらうためであり、ひたすら主に仕えて生きていってほしいからだと言うのです。
 パウロは、信仰者を束縛するために語っているわけではありません。あくまで主に仕えて欲しい。地上のことに心奪われていく時、主を忘れてしまうから。できるだけ主に仕えていって欲しいからと。夫が妻に、妻が夫に仕えるのが、主よりも先にならないように、また主に仕えることが疎かにならないようにと警告を交えながら、パウロは人の生き方に於いても律法の戒めにように束縛しようとしたのではなく、イエス・キリストの福音によって解放された生き方を示したのです。人はぞれぞれが、神様から与えられた賜物を頂いているのだから、人によって生き方が違うのです。そのように、信仰の道には、多様な生き方があるのです。キリストによって救われた者として、多様な生き方の中にも主に仕えて歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2009-11-07 19:47 | コリント

2009年10月25日

「神から与えられた性」 イザヤ書43:1-7, マタイ福音書5:27-30
 
 姦淫とは、何なのか。女性に対して、みだらな思いを抱くこと、ここでイエス様は、行為だけではなく、思いをもって見ることも姦淫だと言われています。情欲をもって見ることは、相手を人格ある尊厳ある存在として見ていないのです。自分の欲望の対象として見ていて、欲求を満たす者として見ています。自分に必要なものではなく、欲しいもの、自らの欲を満たすものとしています。
 今朝の旧約聖書イザヤ書43章4節には、神様が人をどう思い、どう見ておられるかが示されています。そこには、神様が「わたしの目には、あなたは価高く、貴く、あなたを愛している」とあります。神様はあなたを価値ある者、貴い存在として見、愛しておられます。神様がそうであるのに私たちが人に対して、男性が女性に対して、欲の対象として見るということは神様の思いから離れてしまっているということです。相手をただ欲望の対象として見、そうあつかうことは決して神様に喜ばれることではありません。そのことをイエス様は人々に教えたかったのです。
 旧約の時代、女性の地位はとても低いもので、妻は夫の所有物のような財産と考えられ、夫の役に立ち、夫の要求や欲望を満たし、世継ぎの子を産み、その子を育てるもののように考えられていました。妻が夫の要求や欲望を満たせない時、夫は安易に離縁状を妻に突きつけ家から追い出したのです。新約の時代も同様な面がありました。ですから、イエス様は、離婚についての戒めを語りつつ、結婚の意義を語られました。(マタイ19章参照)一方的な離縁状は男性の身勝手な面の現れでした。その点、イエス様は安易に離縁状を渡すことも、情欲をもって女性を見ることも姦淫だと教えて、女性を物として見るのではなく、共に生き、互いに助け合い、仕え合う人であると教えられました。イエス様がここで姦淫の問題を鋭く問うておられるのは、人が人をどのように見るか、どのように受け止めて、生きようとするのかが問われているのです。現代は逆も言えます。女性が男性をただ性の遊びや楽しみのようにしてしまうとか、性を商品化してしまうとか、これらも同様の姦淫の罪であり、相手の存在を貴い価値ある存在として見ていないのです。ですから、イエス様は、性の問題で姦淫を取り上げながら、性を遊びとか、商売とかで身勝手に理解し、行動することを戒めながら、本来の神様から与えられた性、それを教えて結婚の意義を説かれたのです。
 性の問題で、若い人は、本当に悩み苦しむことでしょう。神様から与えられた性を神様に喜ばれるものとして行かなければなりません。身勝手な性の欲情にかられることは相手の価値ある貴い存在を無視したものであり、神様から離れた方向へと向かうことです。神様から与えられた性に生きると言うことは、それは神様によって結び合わされた結婚によって、共に生き、仕え合い、結び合わされる生き方なのです。そこに相手に対する尊敬、親切、誠実、愛があるのです。
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by higacoch | 2009-10-31 21:40 | マタイ

2009年10月18日

「叫び続ける声を聞かれる方」  エレミヤ29:11-14a, マルコ10:46-52
 
 先週「差別と日本人」という本を読みました。本の広告には「日本に真の平等は、存在しないのか。全国民、必読の日本人論」とありました。本は二人の対談集であり、一人は元衆議院議員で、部落出身の野中広務氏であり、相手はメディア等で活躍中の在日朝鮮人女性の辛淑玉さんです。二人とも差別を受けてきた人ですから、その体験は、日本人の差別感を浮き彫りしています。またさらに、日本人の国民性の問題だけに留まらず、人間の暗部の差別意識にも言及しています。
 さて、今朝の聖書の箇所に出てくるバルティマイという人物も人々から差別を受けていました。当時、盲目は神の裁きの結果だと考えられて、盲人は正式な仕事にも就けず、困窮し、乞食として生きていかざるをえませんでした。彼はエリコの町を通る人々に物乞いして生きていました。そんな彼が通り過ぎる大勢の足音を聞き、目の前で起こっていることが気になって人に聞き、イエス様がここを通って行かれたことを知らされました。すると、彼はすぐに叫んだのです。「ダビデの子、イエス様、わたしを憐れんでください」と。彼は何度も叫び続けました。周りの人が、「うるさい。黙れ。静かにしろ」と口々に彼を叱りつけたほどでした。しかし、イエス様はその叫びを聞かれ、彼を呼ばれました。彼は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエス様のところにやってきました。彼が来ると、イエス様は「何をしてほしいのか」と問い掛けられました。すると彼はすぐに「眼が見えるようになりたい」と応えました。その願いを聞かれたイエス様は「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。彼はこの言葉に驚いたでしょう。イエス様は「私があなたを癒して上げよう」と言われたのではありません。そうではなく、彼の願いを受け止め、そして彼が持っていたイエス様への思いをしっかりと受け止めて「あなたの信仰が、あなたを救った」と言われたからです。癒すのは私でない、あなたの信仰があなたを救ったのだと、言われているからです。
 バルティマイは差別を受けていた人でした。彼がイエス様に叫んだ時も、その彼の願いを人々が聞くのではなく、彼を叱り、黙らせようとしたのです。このように誰も彼の声を聞こうとはしませんでした。それに対してイエス様は、彼の叫びを聞き、彼を呼ばれました。そして、彼が心から願っていることを聞き、彼を癒し、彼に新しい生き方を示されました。彼は目が見えませんでした。霊的にもそうだったのです。その彼がイエス様に出会うことによって、肉体的にも霊的にも見えるようになったのです。そして、彼は自らの人生を歩み出しました。
 イエス様は叫び続ける声を聞かれるのです。人は人を差別し、ある根拠を持ち出して差別を正当化しようとします。イエス様は、バルティマイの苦悩の声を聞き、彼を癒し、救い、彼に新たな人生を与えられました。私たちも主に従う者となって、隣人の苦しみの叫びを聞き、共に生きる者となりましょう。
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by higacoch | 2009-10-24 18:12 | マルコ