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2008年12月28日 

「神様を信頼する」   ヨエル書3:1-5, ローマ 10:1-13

 今年も早1年が終わろうとしています。今年は特に早く感じました。それは今年、私たちのカンバーランド長老教会の全体会議である総会を日本で開催したからです。その準備に前半期は追われ、6月に開催、その後は整理と夏、秋の教会行事に追われていった感が致します。こんな一年ではありましたが、神様から素晴らしい恵みをたくさん頂いた年でもあります。
 さて、私たちの教会として、この年は教会標語を「イエス様の福音を伝えよう」を掲げ、イエス様の福音をできるだけ伝えようと活動してきました。そのために新しく始めた活動や諸集会もあります。しかし、新しい人をお招きする難しさも感じました。しかし難しくても、それを為し続けて行きたいと願っています。それはパウロが言うように、新来者の方々が救われることを心から願うからであります。単なる信者獲得や教会の教勢の拡大のためではありません。そうではなく、一人でもイエス・キリストを信じ、その人が救われて生きていって欲しいからです。
 求道者の熱心さには、間違ったものがあります。パウロが指摘しているように、熱心に、自分の義を求めているのであって、それがどんなに熱心でも救いに至ることはありません。自分の義というのは、律法を守り抜くというような行いによる義であって、行動によって得ようとするものです。それに対して、神の義は、キリストによってなされた1回限りの救いの御業を受け入れ、イエス・キリストを信じることです。この二つをルターは、自分の業による信仰、そして神の業による信仰と区分けしました。救いはあくまでキリストの救いの業によってなされ、それを信じて生きることをパウロは教え示しているのです。
 キリストは今も生きておられるのですから、大事なことは、あなたがキリストの義を信仰によって受け入れるかどうか、ということです。キリストの義があなたを救うのであり、あなたは信仰によって救われるのです。救いは人がどんなに良い行い、善行を積んだとしても、律法を守り通していったとしても、その延長線上にはありません。どんなに素晴らしい行いを為したとしても、キリストを見上げていなければ、キリストによる救いはないのです。キリストが私たちを愛して、私たちを救い、その救いによって、キリストを見上げ、キリストを信じて生きるようにして下さったからです。ここにこそ、信仰による義があり、それが神様を信頼して生きることなのです。主なる神様を信頼して歩む者は、誰も失望することがありません。そこには確かな希望があるのですから、新しい年も主を信頼して歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2008-12-31 18:51 | ローマ

2008年12月21日

「逆転の業」   ルカ福音書 1:39-55, 2:1-21

 皆さんと共に、私たちの救い主イエス様の誕生を喜び祝い、礼拝を献げることができ、嬉しく、主に感謝致します。神様は御子を与えるほどに、世(私たち)を愛されました。目に見える形で神様の愛を表して下さいました。
 さて、今年の12月は、かつてない程に不景気の津波が日本の産業界に押し寄せて来ています。アメリカのサブプライムローンの破綻を端に「100年に一度」と言われる金融危機が予想を超える速度で世界を、日本を襲い、雇用の悪化を一段と深刻化させています。特に非正社員、派遣労働者の解雇の問題が大きな社会問題となってきています。対応が後手になっている政府、そうした政府に対して地方自治体に緊急の雇用対策を取っている所があり、適切で素晴らしいと思います。今後は、労働者派遣法やその改正法など、これまで企業優先策を許してきた政府が、人を大事にする視点を持つようになり、もっと働く人を大切にしていく政策へと軌道修正をする転換点になればと願うものです。
 さて、クリスマスの出来事は、小さい者に目を注ぎ、小さい者を大事にしている出来事だと思うのです。見過ごされている人を大事にし、その人を生かして用いています。マリアも羊飼いもであります。「身分の低い私に目を留めて下さった」とマリアは賛美し、羊飼いも主を賛美しています。そこに、神様の御心があるのです。神様は、そうした小さい者を軽んじられない。否、むしろ大事にされた。そして、そうした小さい者を大いなる業をする者とされました。そしてその逆に、思い上がる者、権力ある者、富める者を、引き下ろされました。このように神様は小さい者を大きく用い、高ぶる者を低くされました。御子イエス様も皇帝のように人に命令して、人を支配されたのではなく、むしろその逆で低くなり、人々に仕え、へりくだって、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順な歩みをされました。こうして高く上げられました。この逆転の業によって神の愛を表されました。そしてここに大事な生き方を示されました。もし私たちが小さい者を軽んじる歩みをするなら、それは神の御心からそれる歩みなのです。小さな者を用いられる神様の眼差しを私たちも大事なこととして、そうした人々を愛して、共に生きる者となりましょう。イエス様が再び、この地上に来られるのを待ち望みつつ、今生かされている所において、クリスマスの出来事によって教えられたことをしっかりと受け止めて、小さな業の中にも、主の御心に従って、歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2008-12-26 11:25 | ルカ

2008年12月14日

「あなたを召し出す神」  イザヤ書 41:8-10、ルカ福音書2:8-20

 アドベント第三主日を迎えました。三本目のロウソクは喜びの光であります。イエス様の誕生は、私たち一人一人にとって、大きな喜びであります。クリスマスの夜、天使は羊飼いたちに「民全体に与えられる大きな喜びをあなたがたに伝える」と告げました。イエス様の誕生は、すべての民に与えられた大きな喜びなのです。
 当時、羊飼いとは、どんな人たちだったか。彼らは貧困層の人たちで、人々から軽蔑され、人々との交流もほとんどないような人たちでした。軽蔑された大きな理由は、彼らが安息日には会堂に行けず、安息日の規定も守れなかったからです。こうしたことから彼らは、神からも見捨てられた者だと蔑まれていました。
 しかし、天使は、大きな喜びを、まず「あなたがたに」知らせると言って、救い主イエス様の誕生を知らせました。こうしたことを考えてみますと、クリスマスの出来事は、小さい者が大事にされた日ということができるのです。見向きもされなかった羊飼いに、天使たちはすべての人に与えられる大きな喜びを、まずあなたがたに知らせると、まず第一番に知らせたのですから。
 天使から知らされて、彼らは出掛けました。出掛けるように天使に命じられたからではありません。彼らは、語り掛けられたことを深く受け止めて、それに応答し、行動していったのです。彼らは急いでダビデの町、ベツレヘムへ行き、その町で家畜小屋を探しながら、やっと飼い葉桶に寝かしてあった乳飲み子、イエス様を捜し当てました。そして救い主イエス様にお会いすることができました。こうして大きな喜びに満たされて、彼らは救い主イエスの誕生を喜び、町の人たちに伝えたのです。それから羊飼いたちは、天使から聞いたこと、それらが一つひとつが本当であったことを思い起こし、神様を賛美しながら、自分たちの職場に帰っていきました。
 神様はあえてこの羊飼いを選ばれて、彼らを召しておられます。イエス様の誕生を知らせるものとして、神様が彼らを用いられたのです。こうしたことを思う時、神様は、神様の働きを担う者を召し出されるということが解ります。その召しは神様から出ているのです。
 神様は、羊飼いを召し出されたように、神様は、私たちを召し出しておられるのです。それは、私たちがイエス様の救いを知らされ、その後に、イエス様を知らせる者として、この時代に召し出されているのです。それは、一人でも多くの人に、イエス様の救いを知らせるためであります。大きな喜びであるイエス様の誕生を、喜びを与えられた者として、伝える者でありたい。
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by higacoch | 2008-12-20 11:33 | ルカ

2008年12月7日

「恵みによって救われて生きる」  詩編141:3-9, エフェソ2:1-10

 先週、「哀しみの南京」という舞台を見に出掛けました。この舞台は1937年の南京事件、日本兵による虐殺事件をテーマに取り上げたものでありました。戦争という過酷な状況の中で、獣化する人間、敵だというだけで容赦なく、虫けらのように次々と市民、子ども、老人を殺し、女性たちを強姦していった日本兵の戦争犯罪の事実を暴き出し、人間の罪深さをえぐり出しながら、鋭く問い掛けるものでした。この舞台は私にとってはとてもつらいものでした。特に最後の台詞は「地獄こそ、わが住み家」そう叫んで終わるのです。この最後の言葉が私の脳裏から離れませんでした。私は思ったのです。上演された御夫妻は自らの父たちが犯した罪、それを担い、その罪の償いとして自らが苦しみ続け、その苦しみを担い続けることを、自分たちの歩みとして考えておられるように思えました。自分の人生、罪を担いながら、苦しんでいく、この罪を背負い続けるしかないと考えておられるように思えたのです。どうなんだろう。罪を犯した罪人は、自分が犯した罪を償いながら、殺された魂を弔う道しかないのだろうか。 私は改めてイエス・キリストを知らされた者としての生き方は、どうなのだろうかと考えさせられました。
 キリストを知る以前と以後とは、どう違うのか、それは決定的に違います。それは、死と命の違いであります。キリストを見上げない所では、どんなに自分の罪を深く見つめ、深く受け止め、深く懺悔したとしても、その道はやはり死なんだと。どんなに自分の罪を悔い、苦しんだとしてもそこからは決して命は見出せません。人間がどうあがこうと、またどんなに真剣に生きようとしたとしても、その解決はできませんし、そうした所には、命に通じる道はないのです。それを一番よく知っておられたのが、神様だと思うのです。だからこそ、神は自ら人間に近づき、人間の世に来て下さり、神ご自身が、命の道を開いて下さったのです。それが、私たちの救い主、イエス・キリストなのです。
 パウロは、言います。「私たちは神に造られたものであり、しかも神が前もって準備して下さった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私たちは、その善い業を行って歩むのです」と。ここでいう業は、私たちが救われるための業ではありません。この業は神様に救われた者が、その救いの喜びによってなす業です。何かを得るための業ではなく、与えるための業、恵みに応答して為す業なのです。私たちは、まさにここに生かされています。イエス・キリストの恵みによって救われて生かされているのです。
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by higacoch | 2008-12-13 22:34 | エフェソ

2008年11月30日

「キリストと共に生きる」  詩編143:1-6, ガラテヤ2:15-21

 パウロは、19節でこう言っています。「わたしは神に対して生きるために、律法に対して律法によって死んだのです」と。ここで、パウロは「神に対して生きるため」と言っています。そうです。私たちは神に対して生きるのです。決して律法に対して生きるのではありません。もし律法に対して生きるのなら、イエス様の十字架の救いの恵みが無駄になってしまいます。神に対してではなく、律法に対して生きるということは、私たちの行いによる生き方であり、自分たちの善い行いを根拠に生きることであります。善行を積むことによって救われると理解し、それは神の恵みを受け止めて生きていないということです。この歩みは、昔の自分に戻ることです。だから、パウロ自身、イエス・キリストを受け入れる前は、律法に従って生きようと、日々努力し邁進していました。それが神様の前に正しい生き方だと信じてきっていました。しかし、そんなパウロがイエス・キリストとの出会いによって変えられてキリストによる救いを信じるようになりました。神に対して生きるためには、以前の自分、律法を頼りにし、律法に対して生きてきた自分が死ななければならなりませんでした。そうでもなければ、イエス・キリストの救いに生きることができないのです。以前の自分を残していては、どうしても律法によっての価値観を持ち続けることになってしまいます。パウロは、律法によって死んだということを、自分もキリストとともに十字架につけられているとも言っています。こうしたことで、パウロは、「生きているのは、もはやわたしではない。キリストが私の内に生きておられる」と語っています。
 教会は、傷つき、痛み、苦しみ、悩む人々が招かれ、そして教会生活をしています。人生街道を立派に生き抜いている人だけが選び抜かれているのでは決してありません。悲しみや苦しみを今抱えている人が来ていいのです。否、むしろ、そうした人たちが招かれて、キリストの福音を受け入れて、イエス様を信じて生きる者とされ、教会が造り上げられます。教会は、イエス・キリストの救いを受け止め、イエス・キリストを信じて、キリストと共に生きるのです。それ以外に、何か人間的なものが幅を利かせ、倫理的な価値基準が語られていく時、キリスト教会ではなくなっていきます。教会は、キリストの恵みをしっかりと受け止め、キリストを信じて、キリストと共に生きる群れなのです。私たち一人一人も、それぞれの痛み、苦しみ、悩みを抱えたまま、イエス様に近づきましょう。そして共にキリストを見上げて歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2008-11-30 22:39 | ガラテヤ

2008年11月23日

「神の義の成就」 ハバクク書2:2-4 、ローマ 3:21-26

  「神の国と神の義を、まず求めなさい」、この言葉はイエス様の言葉であります。イエス様が山上の説教でなされた教えの中にあります。「自分の命のことで、何を食べようか、何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。空の鳥を見なさい。・・あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と。  
  イエス様は「神の国」の教えは多くなされましたが、「神の義」の教えはここ以外では何も教えておられません。ですので、福音書からは「神の義」の内容はよく解りません。「神の義」はパウロの手紙に出てきます。新約聖書全体で9回、そのうち6回がここローマの手紙。しかも今朝の箇所に3回出てきます。
  パウロは言っています。「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。・・人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより、無償で義とされるのです」と。誰一人、神様の前に義とされない、しかし、神は恵みを下さった。それはキリスト・イエスによる贖いの業、これはイエス様の十字架の出来事であり、この業によって無償で義とされると。パウロが語る「神の義」をしっかりと受け止め、「神の義」の説教を強調して語った人は宗教改革者のマルチン・ルターであります。
 神は、神の義を示すために、イエス・キリストをこの世に送り、神の義の成就のために、御子を十字架に掛けられました。この御子の十字架の出来事は罪を償う供え物であったこと、この供え物が完全であったように、神の義の完全な成就だったのです。こうして、神自ら神の義を現して下さいました。人が神の義を成し遂げたのでは決してありません。神が神の愛をもって神の義を現して下さいました。
 イエス様が、「何よりもまず、神の義を求めなさい」と言われたことは、神様の恵みをしっかりと受け止めて、生きるようにということです。受け止めて生きるということは、神様に愛されたし、今も愛されているということを信じて生きることなのです。イエス様は、神の義を示されました。それは神の義によって人が生きるようになる、イエス・キリストを信じることによって生きるためなのです。それ程までに神によって、私たちは愛し通され、赦され、生かされています。
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by higacoch | 2008-11-29 18:00 | ローマ

2008年11月16日

「愛と赦しをもって」 詩編 16:7-11, 使徒言行録2:22-39

 新聞の夕刊を見ていましたら、警官の拳銃自殺が過去10年の年間最多人数と並んだと載っていました。昨年まで10年間、日本では自殺者が3万人を下らないということが言われる中で、警官の拳銃自殺も増えているのだと思わされました。動機は職場の人間関係や病気などと書いてありました。
 現代は人間関係が難しくなってきて相手から傷つけられ、責め立てられ、そのことで悩み、病気がちになり、生きる力を失ってしまう人が多くいます。仕事の上で、何か失敗でもすると、パワーハラスメントを受けてしまうことがあります。
人は失敗をします。失敗をしない人はいません。どんなに小さな失敗でも互いにゆるさず責め合うとするなら、生きていくことはとても困難になっていくでしょう。赦すこと、それは大切のことです。その赦しをもってまず私たちを愛して、生きるようにして下さった神様の愛を学びたいのです。
 失敗といってすぐに思い起こされるのは、ペトロであります。ペトロは本当に失敗の多い人でありました。イエス様の一番弟子ですがよく失敗をしました。聖書にもそうしたペトロの失敗が記されています。特に「イエス様を知らない」と三度も言ってしまい、イエス様を裏切りました。そして大泣きしたとありますが、その後彼はどうしたのか。福音書には書かれていません。三日の後、彼は鍵を掛けて部屋に籠もっていたとあります。自己嫌悪に陥った日々であり、悶々として何もする気も起こらず、ただうずくまっていたのでしょう。
 そんなペトロの所に復活したイエス様が現れて、「平安あれ」と言われました。彼を愛し、彼の罪を赦されたのです。そして彼は約束された聖霊を頂いて大胆に説教をしました。この説教が、今朝の箇所であり、これが教会の最初の説教なのです。この説教でイエス様の復活を人々に告げ知らせ、イエス様が救い主であることを宣べ伝えました。彼は、罪赦されたダビデの喜びを語りつつ説教しました。
 イエス様の復活は、十字架の出来事への答えであり、罪の赦しの証明であります。それは罪によって死に至る道しかなかったのに、赦しによって命に至る道が神によって開かれたのです。このことをペトロは教会の最初の説教で語ったのです。この神による愛と赦しの中に生かされる喜びは、すべての人に約束されていて、イエス様を心から救い主と信じて生きる人には、誰にでも与えられているのです。このように、私たちはイエス様の十字架の贖いによって、罪赦されて、新しい命に生きるように導かれているのです。イエス様の復活によって、私たちも神の愛と赦しの中に生かされていることを覚え、感謝して受け止め、喜びをもって生きていきましょう。
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by higacoch | 2008-11-22 16:45 | 使徒言行録

2008年11月9日

「神の子キリスト」  イザヤ書53:1-5,マルコ福音書15:21-39

  先月のことですが、多摩市にあります恵泉女学園大学で、シンポジウムが行われました。テーマは「朝鮮半島とキリスト教」、朝鮮半島の南北のキリスト教の現状と課題という副題のもとに、三人の方が講演して下さいました。その一人の韓国の教授が、韓国で蔓延している類似キリスト教の勢力を明確に区別して、これを正すために既成の教会の絶え間ない努力が要求されるという趣旨のことを話されました。類似キリスト教というのは、日本でもよく知られています統一協会です。この点に関して、日本のコメンテイターの教授は、カルトの問題を研究していることから、質問を致しました。「類似キリスト教の見分け方は、どうしたらいいですか」と。すると、それは「簡単です」と答えられ、「勧誘する人たちが、イエス・キリストを一番としているか、いないかで解ります」とのことでした。類似キリスト教の人たちは、イエス様よりも教祖、文鮮明を上にもってきて語りますから」とのことでした。
  今朝はイエス様が一番と告白した人物から学びたいのです。この人はローマ軍の百人隊長であり、イエス様の最後の日、十字架刑に関わった人でありました。イエス様がどんな歩みをし、どんなことを語られたかを身近で見ていました。預言者イザヤが預言しているように、「見るべき面影もなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。軽蔑され、見捨てられ、多くの痛みを負われた」のを見ていたのです。そして十字架の上で祈られた祈り「神様、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのですから」を聞きました。そしてイエス様が十字架上で死なれた時、彼自らの心の奥から「本当に、この人は神の子だった」と信仰告白をしました。
  この百人隊長の信仰告白、私にとってはドイツの告白教会の信仰告白と重なるのです。第二次大戦、ドイツはナチス・ヒットラーの政権の下に、ユダヤ人殺戮作戦を立てて、多くのユダヤ人を毒ガス室へ送り込み、大量殺戮しました。こうした政策に対して、ドイツ福音主義教会は沈黙しました。しかし、少数のキリスト者たちが教派を超えて集まり、信仰宣言をしたのです。これがバルメン宣言です。そこには、「イエス・キリストこそが一番」と力強く告白されています。
  神は、イエス・キリストを通して、神の愛を現されました。それも十字架への歩みを通して、神の愛を現されました。神はこれほどまでして私たちを愛して下さったのです。百人隊長は、一連の十字架の出来事の中に神の愛を見たのです。それによって、心から信仰を告白したのです。私たちももう一度、私たちの歩みの中で、イエス・キリストは、私たちが聴くべき、また生きる時にも死ぬ時にも信頼し、服従すべき方であることを確認し、イエス・キリストに従う者でありたいと祈り求めます。
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by higacoch | 2008-11-15 14:51 | マルコ

2008年11月2日

「仕える愛に生きる自由」  詩編24:1-6, コリント一、10:23-11:1

 今朝の箇所では、食物の問題が取り上げられています。今、私たちの現代社会でも食の問題がとり沙汰されています。当時は宗教的な規律による食物のタブーがありました。ここコリントではギリシアの神々を祭った多くの神殿やローマ皇帝を祭った神殿があり、そうした神殿に供えられた動物の肉類が払い下げられて、町の市場に多く出回っていました。そこで異教の神に供えられた肉類を食べることの可否をめぐっての問題が教会でも生じていました。パウロはこの問題に触れて、大前提として「すべてのことは許されています」と言い、続けて「しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない」と言います。ここで「私を」ではなく、「私たちを」造り上げるわけではないと言っています。ここに注目したいのです。「私」ではなく、「私たち」、これは教会のことなのです。どんなときにも、各個人が自分の信仰理解を人に教え諭すばかりだと、教会を造り上げることはできないということです。つまり信仰の弱い人を叱咤激励し、早く信仰を強く、熱心にすることではなく、そうした信仰の弱い人を顧みて、そうした人と共に生きることをパウロは勧めているのです。だからパウロは、「人々を救うために、自分の益ではなく、多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしている」と言い、前章(9:19)には「わたしは誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」と言っています。
  この言葉はルターの「キリスト者の自由」の論拠となりました。ルターは、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。それと同時に、キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。」と語っています。そして結論として、キリスト者は自分自身のために生きるのではなく、キリストと隣人とに仕え、愛をもって仕える者であると教えています。つまり、キリスト者の自由は、何々からの自由という束縛からの解放だけではなく、否むしろ、何々への自由、隣人に向かい、隣人に仕える自由を言うのです。
 これはまさにキリストが私たちに示された愛による自由なのです。その自由によって、私たちは何よりもまずキリストによって愛されたのです。私たちは愛され生かされている者として、隣人に仕える者になるようにと導かれています。愛をもって生きるものでありたい。どんなに小さなことであっても、キリストに倣う者となり、隣人に仕える愛に生きる自由をもって歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2008-11-10 11:51 | コリント

2008年10月26日

 「終わりこそ始まりだ」 マタイ 28:16-20     
                        荒瀬 牧彦 牧師 (めぐみ教会 牧師)

 
 指揮者の小澤征爾さんが、若き日にNHK交響楽団の楽員にボイコットされて日本にいられなくなった“小澤事件”を振り返って、実はそれが自分が本物の指揮者になるための重要な原点だったと言っています。「あん時はわからなかったんだけどさ、今ならそう言えるよね。長いことそんなふうには考えられなかったけどね。でもある時さ、わかったんだよね」。
 重大な事柄に直面する時、人間にはその前面しか見えないので、圧倒され、絶望してしまいそうになります。でもそれを乗り越えた地点まで行くことができたなら、振り返って全体像を眺め、その真の意味を知ることができるのですね。「もうだめだ」と思ったところで終わるか否か。それが分岐点です。
 ガリラヤの山の上で、復活したイエス様が弟子たちに宣教を命ずる場面。弟子たちは「イエスに会い、ひれ伏した」のですが、「しかし、疑う者もいた」のです。主イエスが捕らえられた時には師を見捨てて逃げ去り、その上、復活された主に呼ばれて、生きておられる主を目の前にしてもなお「疑う者もいた」という不肖の弟子たち。しかし、それでもなお、イエスは彼らのことをあきらめていませんでした。弟子たちは十字架刑の時点で「すべて終わった」と思っていたことでしょう。しかしそれは終点ではなく、弟子たちにとっての始点だったのです。
 私たちは弱い者です。すぐに匙を投げてしまいます。自分のことも、人のことも。しかしそんな私たちのことをあきらめないイエスがおられます。そして私たちが「もうだめだ」と思った地点で「さあ始めるぞ」と言って下さるのです。そして「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束のうちに私たちを据えて下さいます。
 ガーナの難民キャンプのリベリア人キリスト者の集会で、日本の自殺者増加の問題を話した時、一人の兄弟に叱責されました。彼はエレミヤ書31章を開いて「あなたの未来には希望がある」という御言葉を指して、「なぜ日本でこれを教えないのか」と私に迫るのです。彼も仲間たちも将来への具体的見通しや好条件は何もありませんでしたが、しかし希望は強く持っていました。彼らは本当に神さまと共に生きているのだと、はっきりとわかりました。
 キリストにある私たちにとっての最大の資源、それは希望です。なんでも早く見切りをつけて早く切り捨てて生き残る。それがあたかも善であるかのように言われる時代にあって、私たちは「あきらめない」というメッセージを言葉と行動をもって発するものであり続けたいと思います。
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by higacoch | 2008-10-31 17:01 | マタイ