2017年5月28日

5月28日 「心を開かれて」       イザヤ書26:1-6、ルカ24:44-49
                            関 伸子 牧師 
  
 この朝与えられている聖書の言葉は、ルカによる福音書第24章の44節以下です。ある注解書を書いている人が、こういうふうに書き始めていました。「主が甦られた日の夜……」。私はハッとしました。この第24章は、1節から一貫して、同じ日の出来事を語っているということを、私はその時、十分に自覚していなかったのです。
 ずいぶん長い一日でした。当然、もう夜も更けている。あたりは、すっかり寝静まっている。その静かな夜更けに、主イエスが、み言葉を語りつづけられる。主イエスと食卓を囲みながら主の言葉に耳を傾ける弟子たちの姿を思い浮かべます。これは、その日一日の出来事の終わりであると共に、新しい夜明けへの備えでした。
 キリストが、甦ってくださった。食卓を共にしてくださった。み言葉を語ってくださった。ここに教会の礼拝の姿があります。この朝、私たちも聖書を読み、礼拝をささげます。45節に、「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とルカは書いています。こころを開く。それがまず大切なことです。しかも、それをしていてくださるのは主ご自身です。
 「聖書を悟らせるために」。悟るというのは、ああ、そうだ、と納得するということです。聞いて、開いたこころの中にみ言葉が入り込んでくる。主イエスは、ここで、ご自分が語っていることは、何も今初めてのことではないと言われます。「わたしが以前あなたがたと一緒にいた自分に話して聞かせた言葉は」と言われたのです。けれども、それが弟子たちのものにならなかった。弟子たちのこころを捕らえ、根をおろしていなかった。弟子たちのこころが、まだ開かれていなかったのです。
 「心を開く」と訳されている、この「心」という言葉は、ふつう日本語で翻訳する時には「理性」と訳される。理性と訳すと、少々難解となるので、「心」と訳したのでしょうか。福音書の中でこの言葉が用いられるのはここだけです。理性とは何か。まず基本的な意味は理解力です。聖書が語っている神の救いについてはわからなければいけない。それほどに、こころを開くことができるはずです。主ご自身が、私たちのうちに住むためにです。そのように、こころを開かれて、初めて、新しい時に備えることができるのです。
 皆さん自身がいつも願うことは、自分の生活が新しくなることでしょう。その新しくなるということは、自分がこころを開くということです。理解をすることができるようになるということです。
 こころを開くとは、どういうことなのでしょうか。横須賀線の衣笠に、衣笠病院というキリスト者の営む病院があり、そこで勤務されていた小児科の医師だった方から聞いた話を思い出します。神学校の教授が、学生の有志を連れて、この衣笠病院を訪問しました。牧師になると、病んでいる方を訪ねるということは、とても大事なことになる。だからせめて、一度だけでも体験させておきたいと思ったのでしょう。ある婦人を訪ねさせられた男性の神学生がいた。予めお医者さんから説明があった。「この方は癌で、もう直る見込みはない方です。そのことをよくおぼえておくように」。若い神学生は途方に暮れた。病室に入っても何を言っていいのかわからないのです。とにかく聖書を抱えて行った。非常によく覚えているのは、とにかく、とまどっていた神学生に、そのご婦人のほうからこう言われた。「あなたはもうすぐ神学校を出て牧師になるんですって?」「はい」。「あなたのためにお祈りしましょう」。そこで祈りをしていただいて、半ばすごすご、半ば、やれやれというような思いもあって戻った。病んでいる方の最初の訪問としては大失敗だと本人は思っている。戻ってから正直にその報告をした。そうしたら病院づきの牧師の方も神学校の教授も、「それは、よかった」と言われました。その方は、自分はもう、いつ召されるかわからない者だということを、祈りの中でも明確に告げられた。だが、その病気にこころを占領されず、神学生のために祈る。祈って励まして、送り出さなければいけないと思われたのでしょう。その婦人には、自分のことではなくて、この若い神学生のために、こころを開く思いが神から与えられたのです。病む者に、その病にだけ思いを集中させ、自分がどんなに惨めか、どんなに苦しいかということだけに思いを至らせるのではなくて、そのような時にも、他者のために祈るこころに生きさせる。主が、そのようにしてこころを開いてくださった。
 自分のことにかまけていたら、こころは開かれない。主イエスは、聖書がわかるように、あなたがたのこころを開くと言われ、46節からこう語られました。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」。
 主イエスは、弟子たちの頑ななこころに向かって言われる。イエスご自身が死んで甦られること。そして、その主の事実に基づいて罪の赦しが与えられる。罪の赦しを得るために人びとのこころに悔い改めが起こるのです。
 罪人である私たちに、こころを開いておられる主イエスを見ることが大切です。私たち自身が、自分を理解していると思っているよりも、もっと深く私たちを理解し、受け入れ、私たちを、神の子としてくださる主イエスのみわざを知ることが大切です。そこで立つのです
みなさん、一人ひとりの中で、夢ではない事実として、神の子としての生活が始まる。大切なこと、それは神によって心を開いていただくということです。主の言葉をよく知る。そして、あの時の弟子たちと同じように、これから私たちは証し人として立ちます。自分もまた、こころを開き続けて、神がこころを開いていてくださることを証しする生活を始めることができるのです。お祈りいたします。
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# by higacoch | 2017-05-29 09:59 | ルカ