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2017年6月4日

「まことの救い」          エゼキエル36:22-28、マタイ12:9-21
                            関 伸子 牧師 

 今朝与えられている、このマタイによる福音書第12章の17節以下に、預言者イザヤの言葉として、イザヤ書、第42章1節以下の言葉が引用されています。このイザヤの言葉の中に、18節の終わりに「彼は異邦人に正義を知らせる」とあり、また20節の始めに「正義を勝利に導くまで」とあります。「正義」という言葉が二つ出てくるのです。
 この「正義」と訳されている言葉、一番元の意味は「分ける」というのです。黒と白に分ける、そういう意味の言葉です。そこから始まって、さまざまな意味での分けることを示すのに用いられるようになったのです。たとえば、このギリシア語から作られている英語の言葉は「クライシス」です。ギリシア語の「クリーシス」という言葉を、そのまま英語読みにしたのが「危機」でした。あるいはまた、「黒と白を分ける」というようなことから「判断、判決を下す」という意味となり、やがて、「裁き」、「裁判」を意味するようにもなりました。
 ここで「正義」と訳されている言葉は、他の箇所にも出てきます。たとえばマタイによる福音書、第23章の23節にこうあります。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴(うい)香(きょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ」。ここで「慈悲」と訳されているのは、この第12章で「正義」と訳されている言葉と、同じものです。なお、この「慈悲」のあとに続く「忠実」、これは、「人に対する真実」という意味のものです。「正義、慈悲、誠実」、いずれも他者に対する同じような態度を示すのです。ここにおける「正義」は、何よりも「人を不当に扱わないこと」でしょう。それどころではなくて、「人を生かす」ほどの正義が語られているのです。
 このマタイによる福音書、第12章においても、イエスは、やはり11節で一匹の羊の話をしておられます。安息日に、主は会堂に入って人びと共に礼拝をなさいました。「すると、片手の萎えた人がいた」。この片手の萎えた人というのは、伝説によると、石を刻む職人だったそうです。石工の手が萎えていた、しかも、大切な右手が萎えていたと伝えられるのです。脳溢血にでもなって、半身不随になったのかもしれません。しかし、信仰の仲間たちとの礼拝を求めて、会堂の中にあったのです。人びとは、イエスが安息日に、人を癒すことをすることを知っていましたから、まさに絶好の材料があったと考えて、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねました。その時イエスは、反問されました。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか」。この人にとっては、百匹の羊を持っていた人よりも、もっと貧しかったのです。かけがえのない羊です。その羊が、穴に落ちこんで、命の危険にさらされた。そうとすれば、それが、安息日であろうがなかろうが、それを助け出すのは当然です。今ここで癒すことこそ、安息日にふさわしいことではないか、と問われるのです。そこでも、安息日に善いことをするのは、正しいことであるとはっきりおっしゃっています。「正しいこと」です。これが正義だということを、どうして知らないのか、と問われるのです。
 みなさんもよくご存じの、インドで貧しい人びとのために、多くの修道女たちの先頭に立って奉仕をした、マザー・テレサは、書物でも紹介され、テレビにも登場したことがあり、世界中に知られるようになった人です。一般には、無視されがちなインド大衆の一人と思われるような者に、あなたは生きているということは、命を持って、この世に生きているということはまことに尊いことなのだということを、語りかけるのです。みんな神の愛のなかにいるからです。自分自身が真実に喜ばれているのだということを、マザー・テレサから初めて聞く人びとは、そこで、平安を得て死んでゆくことができるのです。
 主イエスがここで、一所懸命に教えようとしておられるのも、そのことです。ところで、主イエスは、ここであらわになった人びとの殺意に対して、力をもって抵抗はなさいませんでした。
ここに、主が示された正義があるのです。しかし、主イエスがここでなさっていることは、もう一歩踏み込んで考えると、まことに挑戦的です。なぜかと言うと、ここで主イエスは、穴に落ち込んだ羊の話をしておられますけれども「片手の萎えた人」は、穴に落ち込んだ羊ほど、緊急の癒しを求める必要はなかったのです。主イエスは、しかし、ここでは人びとの挑戦をまともに受けて、「手を伸ばしなさい」と即座に言われたのです。「そこで手を伸ばすと、ほかの手のようによくなった」のです。ここでは主イエスは勇敢です。敢えて癒しをなさったのです。なぜでしょうか。主イエスは正しさを主張しておられるのです。「安息日に善いことをするのは正しいことである」。そう断言されるのです。
 私たちは、ついに死に至るまで、思い込んでいる自らの正しさに固執するばかりであるのか、その正しさの罪に気づき、それを悔い、主が示される真実の正しさにおいて生きることはできないのか。いま自らを疑おうことのほうが正しいのです。主イエスから、激しく問われているのです。
 さきほどエゼキエル書、第36章を読みました。エゼキエル書は、私たちの心が、石の心ではなく、肉の心になるようにと祈りを込めて語ります。そのために、神の霊を与えられていると語ります。エゼキエルを通じて語る神の霊は、そこで、偶像礼拝は止み、真実の神を、主なる神として礼拝することが始まると告げられました。私たちも、主イエスが教えられた道に生かされ、その道を歩みながら、神を神として、礼拝し続けるやわらかな心に、生きたいと思います。お祈りいたします。
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by higacoch | 2017-06-04 15:57 | マタイ