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2017年5月21日

「祈りの真実」             詩編62:1-2、マタイ6:5-8
                         関 伸子 牧師 

 祈りに関することを多くの人が書いています。フォーサイスという英国の神学者が書いた『祈りの精神』という書物の中で、最もよく知られている言葉のひとつは、その冒頭に出てきます。「最悪の罪は祈らないことである」。フォーサイスは、この文章に続いて、こういう意味のことも言っています。「キリスト者は、まさか信仰を持っている者ならするはずはないと思うような罪を犯すものである。あらゆる罪の根源に、祈らないという事実があるという意味で、最も大きい罪である」。
 ところで、今日、私たちに与えられている主のみ言葉は、私たちの、祈らない罪を問題にしているのではないということです。祈りに熱心な人々が批判されている。むしろ祈りにおいて現れる罪、よく祈る人の罪を問うておられるのです。この5節に出てくる人びとも、祈りのたびにわざわざ一目につくところに出ていくわけではないでしょうけれども、ちょうどそうした場所を歩いている時に、祈りの時が来れば、一目もはばからずに祈りをする。きちんと祈りの定めを守っているのです。
 しかし、現代の私たちは、そのように主イエスに問われる程に、祈りに打ち込む生活をしているでしょうか。職場や学校で人々と共に弁当を開くときに祈りをして食べ始める勇気をもってはいない。それが私たちの姿ではないかと思われるのです。
 そうとすれば、その私たちにとって、祈りの偽善を戒める主イエスの言葉は、何を意味するのでしょうか。フォーサイスは、先程の書物の中で、祈れないのは祈ろうとしないからだとはっきり言っています。祈りを私たちの能力や可能性の問題として考えるのではなくて、私たち自身がまず祈りの中に踏み込んでいく時に、はじめて祈りの道が開かれるのです。
 祈りとは何か。主は具体的にそれをお語りになります。祈る時には、自分の部屋にはいり、戸を閉じて祈れということです。「自分の部屋」というのは、当時の農家などによくあった納屋、物置などのように用いられた部屋だったようです。窓が全く無く、内側から戸を閉じると、中は真っ暗です。人に明らかに見えるように、自分の密室を確保することもまた、偽善の道になりかねないのです。
 「彼らはその報いを受けてしまっている」(5節)。もう計算がすんでいるのです。祈りの相手がここでは人間になっている。人間の間でことがすんでしまう。真っ暗な密室、それは、自分で自分を見ることを意味します。本当の暗黒においては、自分の鼻先に自分の指を出しても、見ることはできません。
 ここで私たちは、この密室の祈りの勧めが、なぜ4節までの、施しのいましめにすぐ続いて出てくるのか、よく理解することができます。愛のわざである施しについて、主は、「右の手のしていることを左の手に知らせるな」と言われました。つまり、自分で自分の愛のわざを知ろうとしないようにするということです。ああ私は孤独の中で、こんなにも祈れるようになったと、自分で自分を評価するようになることではない。これは大切なことです
 このことは、私たちが祈れないと言って嘆く時にも同じことです。さてそれならば、別のところへとは、どこへ出ていったらよいのでしょうか。それを私たちに示すのが、7節と8節の言葉です。7節の、「偽善者のようで」という言葉は、ユダヤ人以外の人々という意味であるよりも、神を信じない人、あるいはもっと適切な表現を求めるならば、本当の神さまがわからなくなっている人という意味です。
 もうひとつここで大事なことは、このようなくどい祈りによって、名を呼ばれた神さまは必ず出てこなければならないと、人々が考えていたということです。古代インドの諺に、「祈りは神々の上にある」という言葉があるそうです。祈りは、神の意志を尊び、謙遜に願いごとを述べているようですが、実はそうではなくて、神々に自分の言うことを聞かせ、言う通りに働いてもらう道である。そういうことになるのです。主イエスはここで、そういう祈りは無意味だと、はっきりおっしゃっております。そして、そういう祈りの真似をするな、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(8節)と言われたのです。
主イエスは、私たちが理解するような意味での祈りは、もう不必要だと言っておられるのです。本当にすこやかな祈りの道を見出すことが、私たちの重要な課題となってきます。自分で無理してでも祈る祈りの不必要ということがよくわかった時、本当の祈りが生まれてくるのです。祈りの真実に私たちの目が開かれるのです。
 なぜ主イエスは、戸を閉ざして祈れと言われたのでしょうか。そこでこそ裸になって、神の前に立つ。その意味で、神は隠れた所におられるのです。自分自身を自分で見るよりも、神の目で見ていただければよいということです。
 ティリヒという神学者はよくこういう意味のことを言います。神は私たちに近い。神は私が私を知るよりも、もっとよく知っていてくださる。そして、私が私を愛するよりも、もっと深く私を愛してくださる。
 信仰を持つということは、それ程に自分に近い神に気がつくことです。ひとりになった時、わがままになりやすい自分に打ち勝つためにも、私たちは、まず主の祈りを密室で祈り始め、祈り続けることによって、真実の密室の祈りを回復すべきであるかもしれません。あとは神が道を開いてくださる。私たちに必要なものは、何でもご存知なのです。思いがけないところで、思いにまさる仕方で答えてくださいます。そのことを信じて主の祈りを祈る。自分の部屋もなく、まわりに家族がいて困るなら、目を開けたままでも、心に主の祈りを祈ることはできます。そこに密室は生まれます。電車に乗っていても、道を歩いていても、そのように祈ることができます。どこででも神は会ってくださいます。祈りはすばらしいものです。神が与えてくださった最大の賜物のひとつなのです。お祈りいたします。
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by higacoch | 2017-05-21 14:54 | マタイ

2017年5月14日

5月14日 「あなたも神への道を知る」   ミカ書7:8-10、ヨハネ14:1-14
                            関 伸子 牧師 

 ヨハネによる福音書第14章1節から14節までのみ言葉の内でおそらく最もよく知られているのは、6節の「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」というみ言葉だと思います。
 この主イエスの言葉を導き出したのは、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」という弟子トマスの問いでした。この後フィリポはやはり、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」とお願いをした。
 トマスもフィリポも弟子です。主イエスには12人の弟子がいた。なぜあなたはこの方の弟子ですかと問われれば、この方に呼ばれたのだ、この方について来いと言われたのだ、だからわたしはついてきている。それは共通のことです。トマスは主イエスの傍らにあって力強く福音を説かれる主のみ言葉を聞き続けていた。それがもう聞かれなくなる。何千人という人びとに主イエスがパンを分け、魚をお与えになる。いくら配っても、次から次へとパンがあふれてくるような籠を手にして配ったその時の感触をトマスは忘れることができない。その主イエスのみわざはもう見られなくなる。ラザロの墓に向かって「ラザロよ、出てこい」と言われたあの叫びはもう聞こえなくなる。その時ラザロの姉妹たちマルタ、マリアは、ラザロが死に瀕した時にイエスがいてくださらなかったことを深く嘆いた。だから後からやって来られた主イエスに「あの時いてくださったならば」と涙ながらに訴えている。
 主イエスは、トマスに対して「わたしは道であり、真理であり、命である」と、トマスのこの問いがなかったならば聞こえなかったかもしれないこの真理を告げていてくださる。
 トマスと同じようにフィリポもまた、愚かな願いと言われるものを述べた。それに対しても主イエスは丁寧に語っておられます。そしてその言葉の最後にはこういう言葉があります。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」。不思議な言葉です。あなたがたがしているわざは、わたしが地上で行ったわざよりも、遥かに大きい。主がそう言われたのです。そして、その大きなわざを行うために必要なこととして、13節、14節に、繰り返して約束してくださいました。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」。祈りへの勧めです。
 ヘンリ・ナウエンというカトリック司祭がいました。アメリカで教えていましたが、カナダでラルシュ共同体のために働きました。このナウエンが書いた『イン・メモリアム』という名の追悼の文章を読みました。司祭ですから、母の死に立ち合うことができないことが多いのですが、それが許され、家族と共にみとり、臨終に立ち合うことができました。母は信仰と愛に満ちた人であったと書いています。ある日、母が祈っているのに気づいた。「おお神よ、わたしの神よ、わたしの父よ、わたしの神よ」。母はこの言葉をこれまでにも何前回となく口にしてきたに違いない。今こそ、ただ神を呼び続ける言葉が母の存在そのものから溢れる祈りとなっている。
 アメリカの社会はまるで神などいらないみたいに生きている。しかし現代のアメリカ、現代の世界はその最も深いところで病んでおり、苦しんでおり、愛を失っている。今夜あなたは家にいますか?と必ず尋ねられるそうです。そこにナウエン司祭がいてくれないと落ち着かない人たちがいるのです。ナウエンは、道徳では人は救えないとはっきり言っています。道徳ではなくて何か。神秘だと書くのです。神と向かい合っているところに生まれてくるミステリーだけが救いとなります。
 主イエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言ってくださいました。そして祈ったら聞かれると言ってくださいました。信じることは祈ることです。そこで主イエスは続けてこういうふうに言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」。ここに「住む所」と訳されている言葉は、この基になっている動詞はヨハネによる福音書が最も頻繁に用いている言葉です。たとえば第15章2節に「わたしにつながっているなら」という言葉から始まって、以下ずっと続けて読んでいくと、「つながっていなさい」、「つながっていれば」、という言葉が連続して出て来ます。これは皆、原文では「とどまる」という言葉です。しかし、トマスに対しては、トマスが愛のおきてを守る以前に、既にとどまる場所が父なる神の所に用意されていると告げられました。
 ペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」と問うけれども、これを問わなくて済むようになった時がくる。それは第21章が語っている、甦りの主がペトロに「あなたはわたしを愛するか」と三度お問いになった時だ。愛の告白を求めては、「わたしの小羊を養いなさい」とおっしゃってくださったその言葉です。ナウエンはそのペトロと自分の姿を重ね合わせます。つまり自分もイエスの弟子だ。イエスに従って殉教の死をとげたペトロと同じだ。それを、深い謙遜の思いをもって受け入れるのです。そして初めてハーバード大学という名門の大学の教授であったときには知らなかった安息と、本当に自分は神のお役に立っているという喜びを知るのです。
 そして私たちに呼びかける。あなたもそのように主イエスの弟子になることを求められているのではないか。伝説によるとトマスもまた、インドにまで行って伝道をしたと伝えられています。主イエスがここで、どんなに深い思いでそのすべてをお語りになったか。そしてそれによってどんなに深く私たちが、今、生かされているか。これは主イエスがなさったいかなる奇跡にもまさる奇跡と言うことができると私は信じています。お祈りをいたします。
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by higacoch | 2017-05-14 18:22 | ヨハネ福音書

2017年5月7日

「死んでも生きる?」        イザヤ書40:18-31、ヨハネ11:17-27
                            関 伸子 牧師 

 「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に4日もたっていた」。今日与えられているみ言葉はそのように始まりますが、ギリシア語の原文を読み始めてみると「行って、イエスは見た、彼を」と書いてあります。「イエスはご覧になった、ラザロを」というのです。ラザロそのものをご覧になったという言葉の味わいは深いと思います。ここは明らかに「見た」という言葉に力点があります。
 墓の中にあるラザロ、もう死んでいるラザロ、ラザロの死そのものを主イエスが見ていてくださる。そこから話が始まるのだということは、私たちにとっても大切なことではないでしょうか。「既に4日もたっていた」とあります。その頃は、今の医学のように発達した医療の技術があったわけではありません。診断の技術があったわけではありませんから、肉体の死を確実に確認できなかった場合もあったらしい。お医者さんは死んだと言ったけれども実はまだ余力があった。そういう人が2日目か3日目かに突然声をあげたり、息を吹き返し、目を開いて蘇生するということが起こる。これは実際にあったことのようです。ですから3日間は用心した。4日目になると、これは完全に死んだのだということになる。ラザロの肉体もまた、もうくさかったのです。39節には、はっきりそう記されています。ラザロは確実に死んだのです。その現実に死んだラザロを主イエスが見ていてくださる。愛といのちのまなざしが注がれています。そこにマルタが来るのです。
 30節が明記するように、マルタが出迎えたのは村の外であった。福音書記者は、この場面を丁寧に説明します。19節にはこうあります。「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」。18節に「ベタニアはエルサレムに近く、15スタディオンほどのところにあった」とわざわざ距離まで書いているのは、それほど遠くはないから多くのユダヤ人がエルサレムからも来てくれていたという意味だと、多くの人は理解します。いずれにしても、兄弟ラザロのことで慰めに来ていたというのは、ただ個人的に訪問を繰り返していたというのではなく、一種の葬りの儀礼をまだ行っていたという意味のようです。大切なのは、マルタが共にいる人びとをも振り切って主イエスの前に独り立ったということです。マルタ自身もラザロの死に打たれている。そのラザロの死を見ていてくださっている主イエスと〈共に立つ〉のです。そこで信仰の対話が始まります。
 そこでマルタは、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。私たちの誰もが知っているのです。愛する者の死は恐ろしいものです。厳しいものです。独りでは耐えられない。愛そのものにほかならない主にここにいていただきたかった。
 主よ、あなたが神に願ってくださるならば、主イエスご自身を通して、神はわたしたちのために働いてくださる。マルタのその信仰に、主イエスはきちんと答えてくださいます。あなたの兄弟は甦る。「あなたの兄弟は復活する」。マルタはすぐに打てば響くように答える。それは知っている。終わりの日の復活の時に復活する。
 主はマルタに言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。葬儀における説教の中に、こういう牧師の説教がありました。ある学校の校長の葬儀における説教です。その説教は、こういう話から始まる。この校長は病床で遺書を書いた。「7月12日から13日夜半、そして7月23日。ヨハネによる福音書第11章25-26節」。断片的ですけれども、おそらくこの7月12日から13日、あるいは更に23日に、病床でこのみ言葉を心に刻んだということでしょう。おそらくこの時自分のいのちの危機を感じるような体験を病床でしたというのでしょう。その後に、どうぞこのみ言葉を読んでほしいと書いています。
 教会堂にこのみ言葉を刻むということは、私たちの存在にそれを刻むということでしょう。しかもここでは、主イエスは「わたしは復活であり、命である」と言われただけではなくて、こうお尋ねになります。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」という応答の言葉を呼び起こしたいと願っておられるのです。
 今日の説教の題は「死んでも生きる?」という主イエスの言葉を掲げてそれに疑問符を付けた。わたしを信じる者は、もし死んでも、死の現実の中に落ち込んでも、それを突き破って生きることができる。「決して死ぬことはない」というのは、肉体のいのちがいつまでも生きるということではない。死が死でなくなる。そのことを、主イエスはこのように重ねた言葉で丁寧に私たちに教えていてくださるのです。
 アウグスティヌスがこの箇所についてすぐれた説教をしています。その中でアウグスティヌスは、このように主イエスを復活、またいのちとして信じる者は愛に生きると繰り返して教えています。死にぶつかったときに鮮やかに現れてくるのは、私たちが愛に生きているかどうかということです。ヨハネの手紙一はこう言います。「神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です」(ヨハネ一3:10)。生まれてきた子に悪魔という名前をつけたという親のニュースが広がりました。悲しいことです。これは神を軽んじることです。そしてその子を軽んじることになります。私たちは神の子です。私たちに与えられた子も神の子として生きるべきものです。そして神に属する者は、自分の兄弟を愛するのです。そのひとが生かされてきた愛が死に勝つのです。その愛そのものである主イエスが、わたしが甦りだと、死の中にある兄弟をのぞみ込むようにじっと見ながら、ここで「あなたはこれを信じるか」と問われるのです。「信じます」と言う以外に答えようがないのです。
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by higacoch | 2017-05-09 21:31 | ヨハネ福音書