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2017年4月30日

「重要なことを見分ける」      列王記上3:4-1、フィリピ1:3-11
                      めぐみ教会牧師 荒瀬牧彦

 今日の説教題は、めぐみ教会2017年度の主題をそのまま持ってきました。主題聖句はフィリピの1章9-10節。「わたしはこう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」

 めぐみ教会は今年「みことば手帖」というのを作って、毎月一つずつ暗誦する聖句を印刷したシールを貼っていくようにしているのですが――「おくすり手帖」をモデルにしました!――いちばん初めに皆で暗誦したのが、この聖句なのです。共同の働きを共にする東小金井教会の皆さんにも、ぜひこの祈りを分かちあって頂きたいと思い、この箇所を今日の説教テキストとしました。この祈りは、すべてのキリスト者、すべての人間が暗誦して日々祈る価値のある祈りであると思います。

 フィリピの教会に書いたこの手紙で、パウロは「自分は今監禁されているが心配しないでほしい。むしろこの事は福音の前進に役立っているのだ」と伝えようとしています。愛するフィリピの信徒たちは、自分たちの指導者である人が獄中に囚われていることで心配しているでしょうが、しかし、惑わされることなく事柄の本質を見てほしいと願っているのです。そこで、彼がフィリピの人たちのために祈る祈りは、「何が本当に重要であるかを見分けられるように」となりました。
 
 旧約聖書の列王記上3章には、若くして父ダビデから王位を継承したソロモンの祈りが記されています。彼は夢の中で、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と神に告げられました。その時彼が願い求めたのは、「善と悪を判断し、正しい裁きができるように、聞き分ける心を与えてください」ということです。父のようなカリスマや、戦争の勝利や、神殿建設の費用や材料を求める祈りではなく、正しく見分けられるようになる力を求めたのです。「主はソロモンのこの願いをお喜びになった」と列王記は記しています。

 反対に、大事なことを見分けられなかった人たちも聖書には多く出てきます。イエスのもとに「永遠の命を得るにはどうしたらよいか」を尋ねにきた金持ちの青年もそうです。彼は自分の財産を手もとに保持することのほうが大事だと思えて、イエスに従っていく――永遠の命を生きる――機会を逃してしまいました。網を置いてイエスの招きにすぐに従ったシモンたちは、ガリラヤ湖畔で呼びかけられたあの時、「今、自分に最も重要なのはこれだ」とわかったのでしょう。金持ちの青年と対照的です。

 「善いサマリア人の譬え」で考えてみましょう。傷つき倒れている人の傍らを最初に通った祭司、また次に通りかかったレビ人は、自分の仕事のことを考えたのでしょう。「この人を助けたら、自分はどうなるか」。その結果、何もせずに立ち去ることを選択したのです。三番目に来たサマリア人は、「この人を助けなかったら、この人はどうなるか」を考えたのでしょう。すぐにこの人の救護にあたり最善を尽くしました。三人のうち誰が「本当に重要なこと」を選んだのかは明らかでしょう。
見分けるために必要なのは知識や計算だけではないとわかります。結局、愛が決め手なのです。だからパウロは「愛がますます豊かになり」と祈っています。神さまへの愛、隣人への愛なしに、本当に重要なことは見分けられないのです。
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by higacoch | 2017-04-30 18:46 | フィリピ

2017 年4月23日

「あなたがたと共にいて」      イザヤ書65:17-25、マタイ28:11-20
                            関 伸子 牧師

 主イエスの墓の番をしていた番兵たちは、急いでエルサレムに帰り、祭司長たちにイエス・キリストの遺体がなくなったこと、恐ろしい出来事が起こり、天使が現れ、「イエス・キリストが復活した」と告げたことなどを、その目で見たとおり報告しました。そういう意味では、皮肉なことに、この番兵たちの報告が、最初のイエス・キリスト復活宣言であったと言えるでしょう。この証言を聞いた祭司長たちは、兵士たちを丸め込もうとしたのです。ということは、祭司長たちも、何らかの意味で、イエスの復活を信じたということではないでしょうか。
 さて、今日のテキストのもうひとつの話は、復活されたイエス・キリストがガリラヤで弟子たちの前に現れた物語です。ここに「疑う者もいた」と記されています。復活というものがいかに受け入れがたいものであるかを示していると思います。
 皆さんの中には、山登りが好きだ、という人がおられると思います。中には、同じ山に何度も登った、という人も多いと思います。同じ山に再び登ると、あの時はこうだったなあ、という思い出がよみがえってきます。主イエスの弟子たちも、そうだったのではないでしょうか。
 16節に「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておられた山に昇った」とあります。主イエスと山、と言えば、真っ先にエルサレムのそばのオリーブ山が思い浮かぶのですが、ガリラヤの山とはいったいどこの山でしょうか。定かには分かりませんが、一つ思い当たる山があります。マタイによる福音書5~7章に〈山上の説教〉と呼ばれるまとまりがあります。主イエスが弟子たちと共に、群衆を引き連れて山に登り、山の上でいくつも説教をなさった場面です。弟子たちが昇った山は、その時の山だったのではないかと思います。
 ガリラヤの山に登った弟子たちは、そこで復活した主イエスに会い、主イエスを神として礼拝したのです。彼らはイエスにひれ伏しますが、疑いも生じています。この「疑う」という言葉は、もともとは、「二つに分かれる」を意味し、新約聖書ではもう一度だけ14章31節で使われています。夜、イエスが湖を歩いて弟子たちの舟に近づいたとき、ペトロは舟を出てイエスのもとに行こうとしますが、風邪を恐れておぼれかけると、イエスは「なぜ疑ったのか」と叱ります。ペトロの心は二つに分かれてしまいました。イエスのもとにいたいと思う一方で、現実に恐怖を覚えています。このような状態が「疑う」という言葉で表されています。
 疑うことは、必ずしも悪くはありません。このあと弟子たちは「本当に、あなたは神の子です」と告白していますから、「疑う」ことが告白へと高まることもありえます。今日のマタイ福音書でも、疑う弟子たちにイエスが近寄ります。イエスは疑いを乗り越えた者に近づくのではなく、疑いを残す者に近づきます。この近寄るイエスの言葉が弟子たちの疑いを乗り越えさせます。
 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(18~20節)。これが、マタイ福音書に記されている主イエスの最後の言葉です。主イエスは、ここで三つの命令を語られました。
 第一は、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という命令です。「伝道」とは、ただ信者を増やすことではなく、人をこのイエス・キリストに向き合わせ、その弟子となって、新しく生き始めるように促すことです。第二は、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」なさいということ。イエス・キリストの弟子になったら、洗礼を受けます。洗礼を受けるとは、正式にイエス・キリストの弟子になることです。「あなたは正式な門下生です」と、しるしをつけてもらうのです。自分の信仰に責任をもって歩むということが、そこから始まります。第三は、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」ということ。キリスト者の歩みは、洗礼で完成するのではありません。むしろそれは第一歩であって、そこからイエス・キリストの教えを学びつつ、共に歩んでいくのです。
 そしていよいよ最後の最後の言葉です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。三つの命令があると言いましたが、ただ単に命令されるのではありません。イエス・キリストが、それを実現する力を与えてくださるのです。それは、イエス・キリストこそが「天と地の一切の権能を授かって」いて、そのイエス・キリストが世の終わりまで、いつも私たちと共にいてくださるからです。
 マタイは、天使がマリアの夫ヨセフにイエス・キリストの誕生を告げた時に、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と語り、この名は「神は我々と共におられる」という意味である、と説明しました(マタイ1:23)。神が共におられる徴として、イエス・キリストがこの世界に送られたのです。そういう意味では、マタイ福音書は、「神が共におられる」「キリストが共におられる」という二つの約束にサンドイッチされた書物であると言うことができます。
 主イエスは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)と約束してくださいました。私たちがキリストの愛とともに歩むことを願い、キリストを愛し、互いに愛し合うならば、主イエスは私たちと共にいる。私たちの教会に、キリストの愛を満たしていただき、キリストが共にいてくださることを信じて歩んでいきましょう。わたしたちも、イエス・キリストの弟子となり、洗礼を受け、主の教えを守り、「神は我々と共におられる」という約束と共に、歩んでいきましょう。お祈りいたします。 
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by higacoch | 2017-04-24 09:58 | マタイ

2017年4月16日

「私たちに先立つ復活者イエス」  ハバクク書3:8-19、マタイ28:10-20
                           関 伸子 牧師 

 主イエス・キリストが、十字架につけられて死なれた後、主イエスと共にいた弟子たちは何をしていたのか。ひとつ推測することができる言葉が7節の天使の言葉です。「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」。
 主イエスと共に弟子たちが活躍をしたのも、ほとんどの期間ガリラヤでした。そこからエルサレムに何度か上った。ここでも弟子たちは本拠に帰りますけれども、甦りを信じ得ないままに、暗い思いで故郷に帰ったということです。
 マグダラのマリア、七つの悪鬼に憑かれていた女と記されていて、おそらく今日で言えば、自分でもどうしようもない心の病に取り憑かれ、激しい力に取り押さえられていた人です。そこから解放されて、もう一度、いのちに甦って、人生のやり直しができて、主イエスに仕えていたひとりの女です。しかし、その主が死んだとき、彼女は死んでしまった主イエスを訪ねて墓に行ったのです。
 現代に生きる私たちは、死後の世界というようなものを、真面目に考えなくなってしまっているかもしれません。死の事実は、それで乗り越えることはできない。しかし、福音書は、主イエス・キリストが甦られたこと、そして、この失意の弟子たちがガリラヤに帰る時、この甦りのイエスは先回りをして、先にガリラヤについておられるはずであるということを告げるのです。
 ある人が「復活節の疑い」という言葉を書き記しました。復活節を迎えて、初めて、人間は死んだらすべてがお終いだという事実を疑い始める。死が揺らいだ。墓の蓋をしていた石が、揺るぎ動いて、取り除かれたように、死の扉が揺らぐのです。
 また古い言葉に、「復活節の高笑い」というのがあります。復活の祝いの日の朝は、礼拝堂の中は、「わっはっは、わっはっは」という高く大きな笑い声に満ちたのです。主イエス・キリストのいのちによって、生かされる教会は、そのように笑うことを知る集団であり、その笑いの中で、自由と平安に生きるのです。
 私たちが、自分の人生について不安を抱くこと、それは、死に不意打ちされることがないかという脅えです。主イエスは、ガリラヤに行ったら私に会えると、女たちに語りました。ここで、墓地を出たばかりのところで、死に取り囲まれているところから、飛び出して来たばかりのところで、復活の主に会っているのです。
 受難週の時、男たちがうろたえ、主イエスを裏切る中で、主イエスに対する愛と誠実を貫くことができたのは女たちです。弟子たちに知らせるために、女たちは一方でこの不思議な出来事におそれを抱きながら、他方では、主イエスが生きておられるという言葉に、すでに喜びを誘われながら「走って行った」。すると9節に、「すると、イエスは行く手に立っていて」と書いてあります。「すると」という日本語はこれで結構ですけれども、原文はもっと強い言葉です。「見よ」と書いてあります。走って行った、すると見よ、と続く。しかも、原文の味わいは、「イエスが迎えに来られて」です。そのような思いを抱きながら、走って行く女たちを突然迎えたのは、弟子たちではなかった。甦られた主イエスが先に出迎えられた。そして「平安あれ」と言われた。これは日常の挨拶です。しかし、私たちがよく知っているヘブライ語の「シャローム」、つまり、いつでも「平安あれ」と訳すべき挨拶に対応するギリシア語ではなくて、「喜べ」と訳すことができる、もうひとつのギリシア語の挨拶の言葉なのです。「喜びなさい」、甦りのいのちそのものである主イエスが、私たちを迎えてくださって、「さあ、ここで喜びなさい」と言われるのです。
 私たちが信仰を与えられるようになるには、いろいろな筋道を辿るものです。しかし、その根本においては先回りしておられる主イエスに会って、主のもとで、この喜びを学ぶということ以外の何ものでもないと私は思います。「弟子たち」という言葉は、原文で読むと、ただ「弟子」と書いてあるだけではなくて、「あの方の弟子たちに」と特記されています。〈彼の〉弟子たちに、というのです。特にその意味で私たちが記憶すべき言葉は、10節のイエスが女たちに言われた言葉です。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちに」。これまで「弟子たち」と記されているのに、ここでは「兄弟たち」となるのです。
 なぜここに「兄弟たち」という言葉が用いられたのか。昔から必ず指摘されたのは、詩編の第22編との関連です。主イエス・キリストの絶望の言葉を生んだこの詩編の中で、23節に、このように記されていることです。「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/ 集会の中であなたを賛美します」。このことに気づくと、主イエスは、十字架の上で歌い始められたこの詩編第22編を、甦られてマグダラのマリアたちにかけられた言葉の中で、完結させられたのだと言うこともできると思います。しかもその時に、たったひとりで深い絶望の中で歌い始められた主イエスのこの歌は、ここで、その「兄弟たち」の歌となるのです。
 絶望から始まったこの歌は、神の勝利にあずかる喜びに終わる。そしてその喜びを告げ、勝利をもたらした神のみ名を告げる時、告げるべき相手は、皆兄弟となる。こうして甦えられたイエスが、ガリラヤで弟子たちにお会いになった時、18節以下の御言葉を与えてくださった。その最後の言葉が19節から20節に記されています。
 今、その兄弟姉妹のすべてをつなぎ、ここに主の家族を造る、主イエスが備えらた、聖餐に、このことへの深い感謝をもってあずかりたいと思います。「世の終わりまであなたがたと共にいる」と言われた主イエスが、その霊において私たちと共に在りますことを信じたい。そこに望みを託して、私たちの周囲に、なお兄弟姉妹の交わりを作っていく伝道と奉仕のわざに生き続けたいと願います。お祈りをいたします。 
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by higacoch | 2017-04-16 19:04 | マタイ

2017 年4月9日

「ろばに乗ってあなたの王は来られる」  詩編118:22-29、マタイ21:1-11
                 伊能 悠貴 伝道師 (さがみ野教会)

 イエスという名の方が、ろばに乗って都エルサレムに入場されました。多くの人びとはこの方に向かい、「ホサナ!ホサナ!」と叫んでおりました。助けてください!救ってください!という意味です。都中の人々は、これを聞いて「いったい、これはどういう人なのだ」と驚きました。
 私たちが教会に足を運ぶときに目にする光景というのは、まさにこのような光景であると思います。イエスというお方に「助けてください。救ってください。」と叫ぶ者が集まります。初めてイエスという方と出会われた方は、「いったい、このイエスという方はどういう方なのだろう」と思われることと思います。
 教会は、約2000年間、このイエスというお方を救い主と信じて歩んでまいりました。2000年間ですから、言い方を換えるならば、聖書に登場するイエスという方は、この時代にだけ生きた偉人という訳ではなくて、今も生きている神の子なのです!この方は、今も生きておられ、私たちの救いを与えてくださる神の子、私たちの王なのです。
 ですが、そうは言われましても、このお方のことを知ることで私たちにとって何が変わるのでしょうか。日々、忙しく生きています。仕事をしています。家事育児をしています。自分に与えられている課題、務め、重荷…たくさんあるのです…不安を抱えながら生きているのです。主イエスは、それを知っていたので、私たちのもとにろばに乗って来られました。
 本日は、マタイによる福音書という箇所を読んでいただきました。時代は西暦30年ごろ。舞台は地中海に面する国イスラエルです。イスラエルとは水色の六芒星を中心とした白地の国旗を掲げ、現在もある国です。西暦30年当時、イスラエルはローマ帝国の支配下にある国際情勢のもと、とても圧迫されていた国でありました。ローマ帝国の支配は、地中海沿岸全域に渡っておりました。現在で言うところの、トルコ、ギリシャ、イタリア、フランス、スペイン、アフリカ大陸北部。すさまじい支配力のもとに、イスラエルもまた置かれていたのでした。納税の義務が課せられた。皇帝礼拝も強いられた。まことの神を礼拝しつつ生きたいと思うイスラエルの人々は、自分たちを圧迫するかのような政治下の中で、なんとかして自分たちの生活を保って生きておりました。それが、この時代の人々でした。
 私たちもまた、時代と文化の違いはあるものの、苦しい生活のもとに置かれ、自分の生活でやっとのことがあります。自分の声がどこにも届かない思いをしながら生きていることがある。ますます自分の生活は自分で保たねばならないとふさぎ込んでしまう思いになります。だんだんと、だんだんと、自分の生活で精いっぱいだ…と余裕のなくなっている時代に生きつつあるのかもしれません。
 イエスというお方は、そのことを誰よりもご存知でした。人の生活、人の心の奥底までご存知でした。私たちを救うために来られた。「いったいどのように救ってくださるのでしょうか。いったい私たちは何に苦しんでいるのでしょうか。」私たちの苦しみをご存知のこのお方は、ろばに乗って来られました。白馬ではありません。人の重荷を背負う動物ろばです。この方は、ローマ皇帝を倒すような形でこられた訳ではありませんでした。その力はあったはずです。この世界を造るほどの力をお持ちなのですから。ろばに乗ってこられることこそ、私たちの救いのために必要だったのです。
 この方は徹底的に柔和で、謙遜で、人の重荷を担う王として私たちの前に来られました。すでに今ある王をなぎ倒すようなことをいたしません。謙遜をもって私たちの問題を共に担うために、私たちの前に来られたのです。この方は言われます。「あなたの重荷は一体何か。それを、私が担おう。あなたは一体何に苦しんでいるのか。」じーっと待つようにして、この方は尋ねておられます。「あなたの苦しみを教えなさい。私が担おう。」
 私は精いっぱいやっています。生活を必死に守っています。我慢をしています。苦しい中でもへこたれず、生きてきました。自分は正しくやろうとしてきました。
 不思議と、苦しみを問われているのにも関わらず、自分の正当化が始まってしまいます。「いいえ。私の本当の苦しみは、他の人のことが信じられず、批判してしまうことです。自分のことばかり考えて、他の人のことはどうでも良いと思ってしまうのが、私の苦しみです。まるで、自分が自分の王様のように生きているのが、私の苦しみです。」「イエスさま、どうぞお助けください。」
 イエスは王となられ、十字架にかけられました。私たちの重荷を背負い、十字架にかけられました。苦しみを担い、憎しみを担い、十字架にかけられました。高慢という態度を持つ王たちのために、自分がまことの王になり、十字架にかけられました。私がこの方を十字架にかけました。この方は私の王となられました。
 そして十字架の上で言われます。「あなたの罪は赦された。あなたのことを、わたしは赦している。」
 この方が、2000年間、教会が礼拝しつづけている王であり、救い主です。あなたを造られ、あなたを愛し、あなたを赦し、あなたに命を与える救い主、王です。信頼することのできる王です。すべてをゆだねることのできる王です。
 もう自分ひとりで抱え込まなくていい。私にすべてを打ち明けなさい。あなたの罪は赦している。
 私たちはこの方に信頼して、はじめて生きていく力が与えられます。自分がここにいて良いのだ!生きていて良いのだ!と力が与えられます。なんと大きな恵みでしょうか。自分ひとりの力で生きていきなさい、と言われているのではない。あなたの命を、あなた以上に大切に思っているお方がおられる。主イエス・キリストです。この方は、今も生きておられる私たちの救い主、王なのです!
 この方に、私たちも「ホサナ!救ってください!」と叫びつつ、これから後、生きてまいりましょう! あなたの王は、ろばに乗って、あなたのもとに、来られました。
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by higacoch | 2017-04-11 14:39 | マタイ

2017年4月2日

「仕える者になる」       エレミヤ書15:15-18、マタイ20:17-28
                           関 伸子 牧師 
 アガサ・クリスティーの『ベツレヘムの星』という短編集を読んで、私の心に残った一つの短編があります。「水上バス」という表題です。
 主人公は、ミセス・ハーブリーヴスという婦人です。このハーブリーブスさんは信仰があり、自分は人を愛さなければならないのだということをよく知っていた人です。慈善事業によく献金をする。アフリカの修道女の働きを聞けば感動して献金を送る。自分もそうしたい、と願う。ところが、この人にとってどうしてもできないことがありました。それは、本当の愛に生きることができないということです。人に触られるのがいやだし、人に自分の体が触れるのものいやなのです。
 それはちょうど、インドの最も貧しい人びとの住む地域で奉仕をしたマザー・テレサとは正反対だ、と言ってもよいだろうと思います。このマザー・テレサの言葉に、「不幸な人びとの面倒を見るよりも、人を愛することが大事だ」という不思議な言葉があります。いったい、本当に愛するということはどういうことなのでしょうか。マザー・テレサの言葉で言うと、愛するということは、ハンセン氏病患者に「触れること」なのです。遠くから見ていることであったり、その人のために金を恵んであげたりすることではなくて、その人に触れることなのです。アサザ・クリスティーが描く英国の婦人ができなかったことは、まさしくそれでした。
 ところで、どうしてこの婦人の話が「水上バス」などという題名で書かれているのでしょうか。ある日、それこそ、いやでも人に触り触れられたりして、すっかり参ってしまったこの婦人が、無人島に行きたいと思ったというのです。ロンドンに無人島はありません。仕方なくテムーズ川に浮かぶ水上バスに乗るのです。しかも寒い風が吹いている。風をよけて船客は、みな船尾の方に集まっているのです。船首の方にはたった一人の男しかいない。彼女はその前の方に回る。その先客を見ると、東洋の国の人らしい。ラシャの生地のような一枚織りの布を身にまとっている。どこかの国の人だろうと思いながらこの婦人は、その人の着ている上着のすばらしさに心が惹かれるのです。そして、ふとその上着に触れるのです。結局、彼女は、その人が誰であるか顔を見ることができませんでした。しかし、その人に触って、バスを降りた時に、初めて、彼女は変わったのです。温かさと幸福を知ったのです。
 マタイが語っている、主イエスの歩みを私たちは、読み続けることによって、そのキリストの歩みの中に私たち自身がひきずりこまれ、私たちも主イエスに触れることができると信じます。
17節から19節までに、主イエスご自身が語られた三回目の受難の予告が記されています。私たちは、ここにある主イエスの予告を、しばしば〈受難予告〉と呼びます。そのために。主イエスが、甦りをも告げておられることを忘れるのです。
 しかし、ここで、この主の勝利の預言をも聞き取った人びとがいます。それは、ゼベダイの子たちであり、その母です。ここでは、この母は「その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした」とあります。この「ひれ伏し、何かを願おうとした」という書き方は、たとえば王に対する心から尊敬の姿勢を示します。「何が望みか」と主に問われて正直に言いました。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」。
 「イエスはお答えになった。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか』」。この「杯」とはいったい何か。私たちはよく知っています。これから後、やがて読み進めると、主イエスがゲッセマネの園で、このヤコブ、ヨハネ、そしてまたペトロ、三人の弟子たちを連れて行き、神に祈りました。マタイによる福音書では、第26章の39節にその主の祈りを記しています。その祈りは三度も繰り返されたとあります。三度も「この杯を勘弁してください」と祈られた、というような杯です。
 エレミヤ書第25章15節にこう書いてあります。「それゆえ、イスラエルの神、主はわたしにこう言われる。『わたしの手から怒りの酒の杯を取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々にそれを飲ませよ。・・・』」。この「杯」は、神の怒りを、まともに飲まなければならないという苦しみを表します。主イエスは、ここで、まさしく、神の怒りを自ら負うところにご自分を置いたのです。それが、キリストの飲む杯でした。
 主イエスが言っておられることは、わたしが多くの人の贖いとして自分のいのちを与えるのと、そっくり同じような奉仕をあなたがたはするのだと言われたのです。 私たちは今ここでしているのは〈礼拝〉と言います。ご存知のように、英語でサーヴィスと言います。「奉仕する」ということです。私たちは、このサーヴィスとしての礼拝は、私たちが神にお仕えすることだと考えます。
 主イエス・キリストは、こう言われました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためにではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」。
 主イエスが、ここで語られたことに、それこそ、幼な子のような素直な心で、立ち帰らなければならないと思います。神の支配の中で、真実に大きくなれる者は、真実に、自分を小さくして、人に仕えることに喜びを知るのです。私たちも、主イエスに触れたいと願います。その主イエスの恵みの事実に触れ、仕える者になりたいと思います。お祈りいたします。
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by higacoch | 2017-04-02 18:48 | マタイ