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2017 年3月26日

「輝く神の子の姿」         イザヤ30:8-22、マタイ17:1-13
                          関 伸子 牧師 

 主イエスはペトロとヤコブ、それからヨハネという三人の弟子と共に、高い山に登られました。この三人の弟子は、この後も、ゲッセマネで主イエスが、祈りをなさる時にも選ばれていきました。
 高い山の上で、三人の弟子たちの目の前で主イエスの姿が輝いたのです。衣が真っ白に光るという事件が起こったのです。まさしく、主イエスの変貌です。ベツレヘムに生まれ、ナザレに育ち、そしてペトロたちと寝食を共にしてガリラヤを旅し、エルサレムへの旅をなさっているこの主イエス、この肉体を持ち、血を持っておられる主イエス、まことの人間としてこの世に生きておられる主イエスが、神の子としての正体を、ここで明らかにしてくださるということです。
 だからこそ、このすぐ前に起こっている出来事を、忘れてはならないのです。第16章の16節で、すでにペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」とイエスに告げました。そして、この山の上で白く輝く主イエスの姿を見た時に、ペトロは、喜びに溢れて言いました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」。ここに「すばらしい」と訳されている言葉は、「美しい」という言葉です。「何と美しいこと、何とすばらしいことでしょう」とペトロは言ったのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である。これに聞け」。「そうだ。これはわたしの子だ。わたしもこの子のことを喜んでいる」。そう言われたのです。このイエスを信じる時にのみ、このイエス自身が言った「自分の十字架を負う」ということにも、耐えることができる。そして、自分のいのちを見出すことができる。生きていてよかった、ということが分かるようになる。そう言ってくださるのです。この神の言葉が、しっかりと聞こえたのは、主イエスの正体が分かった時です。
 この第17章は「六日の後」という言葉をもって書き始めていました。第16章が記している、あの大切な弟子たちとの対話、ご自分の苦しみや、死や甦りについてお語りになった。あの時から6日を経ているということです。六日の準備が、この山の上の出来事のために必要だったというのです。出エジプト記24章の16節、ここでもモーセが、主なる神からその声を聞かせられるのに、6日間、待たなければならなかった、と書いています。神のみ言葉が聞こえてくる、神の啓示が起こるのに備えて、主イエスは、弟子たちにも6日間の日を用意なさったのです。
 また同じ1節に「イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」と書かれています。誰が連れてくるのでもないのです。主が6日の間に用意をなさって、私たちを、ここに連れてきてくださるのです。私たちは、その主の力によって、ここにひきずり込まれて、主のみ前に立つのです。
 そこでもう一つ、ここで興味のあることは、この主イエスが、一人で父なる神の前にお立ちになったのではなく、モーセやエリヤと共に立っておられることです。モーセは言うまでもなく、ユダヤの人々を、あの奴隷状態からひきずり出した人です。その神のみわざに仕え切った男です。申命記第34章は、モーセの死を記述したのちに、こう書きました。「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった」。またエリヤは、預言者中の最大の預言者と言われ、神の言葉を実に激しく語った人です。イスラエルの民がこのモーセやエリヤを思い起こすのは、ただ、自分たちが神に捨てられていなかったのだ、ということを思い起こすためでした。
 主イエスが、この二人と語る姿を見た時に、ペトロは、この三人にゆっくり話し合ってもらう場所を、作ろうと思ったのです。ここに「小屋」と訳されているのは、元の言葉は「天幕」という意味の言葉です。しかし、このペトロの申し出は、少し早すぎたようです。このペトロの申し出の言葉、それは短いものですけれども、この短い言葉を語り終えないうちに、こういうことが起こったのです。「ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた」。
 ここで、とても大切な聖書の言葉があります。ペトロの手紙二第1章です。主の変貌の時に、立ち合ったペトロが書いたと言われる、この手紙の第1章16節にこう書かれています。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜(よ)が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」。
 マタイによる福音書の第3章で、主イエスが洗礼をお受けになった時、天から聞こえた神の声もまた、「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者」ということと同じ言葉でした。この箇所について、ある牧師が書いています。「自分がこの箇所を読む時に、イタリアのフィレンツェにある一つの絵を思い起こす」。この牧師が言うのは、フィレンツェの聖マルコ修道院の聖職者であり、絵描きであった、フラ・アンジェリコの作品のことです。その一つの小さな作品、主にご生涯を描いた作品の一つに、この変貌の光景があるのです。光輝く中に立つ主イエスは、両手を広げておられるのです。そこで、この牧師は言うのです。「それは十字架につけられる姿を示している主のみ手が、弟子たちを招き、祝福するみ手であることをも、感じ取ることができる。今私はそれを思い起こす」。お祈りをいたします。
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by higacoch | 2017-03-27 08:19 | マタイ

2017年2月19日

「罪と死に勝つところ」       出エジプト19:1-6、マタイ16:13-20
                           関 伸子 牧師 

 マタイによる福音書は、ここから新しい部分に入ります。これまでの箇所は、ガリラヤから出発した主イエスの宣教活動がどんどん広がっていったことを記していました。人々の病を癒し、パンと魚の奇跡で多くの人々に食事をお与えになりました。この後の主イエスの活動は十字架に向かって集中していきます。ここは地理的にもひとつの折り返し点です。
 この舞台となったフィリポ・カイサリア地方はガリラヤよりもさらに北、ヨルダン川の源流です。あまり賑やかな場所ではないところにある町です。しかし風光明媚で知られ、ヘロデ大王の別荘がありました。「弟子たちにイエスは『人々は人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった」。この北の果ての地域で、主イエスの問いかけに答えて、ペトロは「あなたはメシア(キリスト、救い主)、生ける神の子です」(16節)と、主イエスに対する信仰告白をしました。
 この告白が、もう一つ大事な意味を持っているのは、その後に続いてこう記されたことにもよります。「すると、イエスはお答になった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる』。
 イエスは教会をお建てになったのです。そしてその教会の歴史が、ここから始まるのです。そして、この教会についてイエスは言われました。「陰府の力もこれに対抗できない」。ご自分が、これから建てる教会の特色は何か。陰府の力もこれに対抗できない、そういう強さだと言われたのです。
今年は宗教改革から500年経った記念の年です。牧師・神学者である徳善義和先生の『ルター』という書物を読みました。挿絵、写真の類い一切なしです。そこに、ただ例外として図版が一つ入っているのです。それは何かというとルターの紋章なのです。このルターの紋章というのは、丸い円です。空色、薄い黄色で塗られています。その縁は金色です。中央に白いバラの花が描かれていて花弁は4つです。そのバラの花の芯に当たるところに、ルターのシンバルマークらしいもので、赤いハート、心臓が描かれているのです。更にその心臓の中心に黒い十字架が書かれています。実はこれは美的感覚からすれば、色の配合が、少なくとも日本人の趣味に合わないと私は思ったのです。徳善先生の本は、そのシンボル・マークのところに、ある人に宛てたルターの手紙の一節が、引用しており、そこで、ルター自身が、この紋章の意味を説明しているのです。たとえば、なぜ一番外側に金色の輪が描かれているかと言うと、金は、最も得難い、そして廃ることのない宝を意味するのであって、そのように、われわれは、天に至る救いに生きている、終わることのない、いのちに生きているのだということを示しているのだというのです。
 主イエスは、「わたしの教会」と言われます。主イエス・キリストの教会なのです。「わたしの教会」にあなたがたは生きる。「わたしの教会」をあなたがたがみんなで作る。わたしをキリストと呼ぶときに。そしてあなたがたが造る「わたしの教会」に、死もまた刃向かうことができない。そう宣言してくださったのです。
 ルターは自分自身の姿を示すシンボル・マーク、紋章を金色の枠で囲んだのです。いのちの枠で囲んだのです。そしてその上にML、つまりマルティン・ルターという自分の名前の頭文字を書いたのです。私たち、もそのようないのちの望みに、今ここで生き抜いているのです
その金色の輪の中に、ルターは白いバラを描きました。ルターは、手紙の中で、白は雲と天使を意味すると言っています。そして空色は天を意味すると言っています。「天」、神のいますところ、その天にあずかる望み、喜びの中に、今自分たちは、天使のように生きることができるというのです。
主イエスは、19節にこう言われました。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。死の門から押し寄せてくる力に勝って、それを振り切ることができる教会は、天国の門を開くのです。
このペトロの告白に続いて21節にこう記されました。「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目に甦るべきことを、弟子たちに示しはじめられた」。ここでイエスは、初めてご自分が十字架につけられて殺される定めであることを語られるのです。
 ルターが、先ほど紹介した手紙の中でこう言っています。「黒い十字架、それは死のしるし、痛みを意味する」。キリストの痛ましいあの死、そして死における十字架の愛の痛みをこの黒が語るのです。その十字架を抱くようにして、書かれている心臓の色、それは、いのちの色で塗られなければならない。神の義によって生きる人間は、十字架につけられた方を信じることによって、いのちに生きるのだと言うのです。そのお影で、私たちの黒枠は黄金色に輝くのです。
 手を合わせて「私はキリストを信じている、私もイエスをキリストと呼んでいる。イエスさまがついている。なぜ怖がっているのだ、なぜ恐れているのか、なぜ臆病になっているのか」と自分に言い聞かせる。それができるのです。教会に生きているのですから、それができるのです。それが私たちに与えられている恵みです。お祈りをします。
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by higacoch | 2017-03-20 08:23 | マタイ

2017年3月12日

「神の国の到来」         エレミヤ書23:23-32、マタイ12:22-32
                           関 伸子 牧師 

 「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも赦されることがない」。今朝与えられている、マタイによる福音書、第12章32節に繰り返されている主の言葉は、福音書に記されている言葉のうちでも、最も難解なものの一つとされています。それは、こともあろうに主イエスが、「赦されない罪がある」と言っておられるからです。
 物語の発端は、目も見得なければ、口もきけない、悪霊に取りつかれた人の存在です。口もきけなければ、当然、耳もよく聞こえなかったかもしれません。二重苦、三重苦の虜になっている人がいた。それをイエスはお癒しになったのです。23節に「群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか』と言った」とあります。この「驚いた」という言葉は、「我を忘れる」という言葉です。我を忘れて、問わずにおれなかったのです。その時に我を忘れていない人がいたのです。それがファリサイ派の人々です。なぜかと言えば、自分たちこそ神の言葉を持っているからです。
 主イエスは、そこで大変はっきりした論争を挑まれます。25節以下です。悪魔でさえも、自分たちの国を大切にする。仲間割れして、自分の国が分裂し、滅んでしまうようなことは、悪魔といえども欲することではない。
 二股かけるということはできないのです。だから、明瞭な言葉が30節にあります。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」。いったい、神の国に生きるということは、どういうことなのでしょうか。
 みなさんもよくご存知だと思いますが、マザー・テレサは、1910年にユーゴスラビアに生まれ、志を与えられて、インドのカルカッタに派遣された修道女です。そして、カルカッタで働いているうちに「ミッショナリー・オブ・チャリティー」(神の愛の宣教者たち)というグループを作りました。このマザー・テレサについては、カトリックの女子パウロ会が刊行した、マルコム・マゲリッジというイギリスのジャーナリストが書いた『マザー・テレサ』という書物によって紹介されています。
 このテレサの一つの仕事は「死を待つ人のホーム」というのを作ったことです。これは、かつてある偶像の神に捧げられていた、神殿のようなものですけれども、それを貫き受けて、そこに、路傍に倒れていた人びとを運んだのです。昔の神殿ですから、なかは暗くて小さな窓が、上の方にあるだけで、テレビの撮影技師は、こんなところで写真を撮るのは、無理だと言って断るのです。ところが、後で実際に、それを映してみたところが、外の世界のどこを写しているよりも、その場面が明るく、美しく、感動的であったのです。この夢中になっている英国のジャーナリストは、23節の「群衆は皆驚いて言った」という、この驚きに重なる驚きに生きている、と言ってもよいと思います。
 マルゲッジが書いたテレサについての書物の表題は、日本語では単純に『マザー・テレサ』ですけれども、英語では“Something Beautiful for God”というのです。『神のためのうるわしきこと』です。これが、マザー・テレサが一番好きな言葉です。「さあ、私たちはこれから〈神さまの役に立つうるわしいこと〉を一つやろう」。そう言って、町に出て行くというのです。それは、神が主イエスにおいて、美しいわざをしてくださった、それを映し出し、それを放射するだけのことです。
 主イエスは言われます。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。もう来ているのです。それこそ、我を忘れる程に、すばらしい神のわざに参与することがここに始まるのです。
 『マザー・テレサ』を読んでいると、つくづくそのことを感じます。この人は退屈を知らない。しかも、あえて深刻そうな顔もしない。ニコニコしている。神の国が始まったことを信じ切っている。あるカトリックの聖職者の話ですけれども、その人は、田舎の小さな農村の教会の司祭として、最後まで生きた人です。自分のためには財産を蓄えません。文字通り裸になります。けれども、熱心に献金を募ってでも、一所懸命に心掛けたこと、それは、ただ貧しい人びとのために働くことだけではありません。ミサのための用具には金をかけたのです。一番良いものをもって、礼拝の道具は調えたのです。マザー・テレサもそうです。マゲリッジが、かなりのお金を送ったところが、さっさとミサの用具を買い調えて、マゲリッジに「ごめんなさい」と言って、手紙を書いています。テレサの生活を読むと、毎朝、4時半に起きて礼拝をします。主イエスの十字架の愛を確認します。主イエスの甦りの中に立ちます。主イエスが、神の霊をもって、神の国が、今ここにもたらされたと言われた時、主はこの神の霊による悪霊との闘いは、愛の闘いであるがゆえに、ご自分の死をも招くことであることを、すでに覚悟しておられたのです。こんなことを言えば、それだけ自らの死を近くに招くだけのことでした。しかし、神の恵みの霊は、そのようにしてしか、私たちを捕らえないものであることを、主イエスは明確に知っておられたのです。だからマザー・テレサは自分の愛の奉仕を誇りにはしないのです。自分を生かしている、主イエスを指し示すだけです。主イエスの恵みの光が、いま私から光輝いているだけなのです。カメラマンは来ても、私だけを撮らないでください、あの人も、あの人も主の喜びの中で生きているのですから、と言って共に働くインドの娘たちを、カメラマンの前に立たせるのです。私たちも、同じ恵みの中に生かされているのです。私たちも、同じ主イエスの見方になることができるのです。誰でもやっているような、小さなわざをしているだけのことであっても、そこに、主において始まった、神の霊による神の支配があるのです。聖霊を汚す言葉を語るまいと決心したいのです。それは、この主の恵みのわざを、拒否することであるからです。お祈りをいたします。
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by higacoch | 2017-03-13 09:31 | マタイ

2017年3月5日

「何によって生きるか」          申命記8:1-20、マタイ4:1-11
                            関 伸子 牧師 

 今朝私たちに与えられている聖書の記事は、主イエスの「荒野の誘惑」と題されることの多い、名高い物語です。この荒野の誘惑そのものの物語よりも、もしかするともっと広く知られていると思われる聖書の言葉が4節に出てくるからです。「人はパンだけで生きるものではない」と主イエスがここで言い切られました。それは、主イエスがひとつの決断をなさったということです。
その決断とは何か。自分は十字架につくのだということです。この言葉は、主イエスの荒野における誘惑との闘いの中においてです。1節に「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」とあります。この荒野の誘惑に立ち合った人は誰もいません。主イエスがバプテスマのヨハネのところで洗礼をお受けになったことの当然の発展です。第3章15節の主イエスのみ言葉は、「今は留めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。「義」とは、神さまの義であり、また、その神さまの義に見合う人間の義です。
 この主イエスの荒野の体験の背後には、明らかに、旧約聖書の民の信仰体験があります。第一に、出エジプト記の第34章の28節「モーセは主と共に40日40夜、そこにとどまった。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した」。モーセは十戒、律法を神から受けて帰ってきました。しかし、民がその間にすでにモーセを裏切り、神を裏切って金の子牛を拝んで大騒ぎをしていた。モーセはやり直しをしなければならなかった。もう一度シナイの山に登って40日40夜、パンも食べず水も飲まない断食を重ね、神のおきてを神さまによって、書き記し直していただくために過ごさなければならなかった。神の言葉が人びとの心に書き記し直されるため、人びとの罪が、神の言葉がもう一度語り直されるために、モーセは40日40夜の、この苦難を耐えなければならなかった。しかも、このモーセの努力もやがて再び、三度、神の民によって裏切られるのです。裏切られたからこそ、再びこの神の民を神ご自身のものにするために、主イエスがついに、モーセに代わって生まれてこられなければならなかった。そのようなことからすれば、主イエスは第二のモーセです。神の民が神の言葉によって生きることに挫折を繰り返し、希望を失ったときに、神さまのほうでなお忍耐をもって、人の罪を赦してやり直すために来られたのが、この主イエスの歩みだったのです。
 神の言葉はこの世の中で語り直されます。その言葉によるこの世の生活が回復されなければならないのです。そのために主イエスは、モーセのシナイにおける40日40夜の断食をもう一度繰り返されたのです。そのときに、その主イエスを試みる者が、モーセによって与えられた神の言葉を盾に取って試みる。第二の誘惑と第三の誘惑は、いずれも旧約聖書に出てくる教えをわざと用いるのです。そしてあなたが神の子であるなら、その救いはこうであるはずだ、こうでなければならないはずではないかと問うのです。
 私たちが主イエスの「退け、サタン」という、この10節の言葉を読む時、すぐに思い出すことがあります。主イエスがこの後弟子たちをお集めになって、そしてやがてご自分が、弟子たちの待っていたキリストであることを明らかになさいます。弟子たちは、まず最初、それを受け入れました。しかし、主イエスがすぐその後で、あなたが信じるキリストとして、わたしは十字架につけられて殺されるのだと言われました。その時、今主イエスはメシアだと告白したばかりのペトロが、主イエスの裾を引っ張るようにして、そんなことがあっては困ります、そんなことはあるはずはない、と言いました。そして主イエスはペトロに向かって、このサタンに対するのと同じことを言われたのです。「退け、サタン」。サタンと弟子たちとが重なるのです。主はそこで弟子たちからも試みを受けられたのです。主イエスは、そういう意味では、私たちに対しても戦われている。だからこそその愛される人間の、しかも主イエスご自身がよく理解できる切実な救いの期待に対して、そこに救いはないと言い切られたのです。そのために、主イエスはご自身が十字架につけられる道を選ばれたのです。
 この荒野の誘惑を理解するために読むべきもうひとつの言葉は、申命記の第8章の言葉です。モーセに導かれたユダヤの人びとは、パレスチナに到着するまで40年の間荒野で旅をしなければならなかった。その40年の荒野の旅の間に、民は厳しい飢えを体験した。その時に、神さまは民が眠っている間にマナを降らせて、この民を養われた。それとの関連で、「人はパンだけでは生きず」という言葉が3節に書かれているこの民を養われた。それとの関連で、「人はパンだけでは生きず」という言葉が3節に書かれているのです。
 人間は、申命記は神に選ばれた民に向かって、あなたがたが人はパンのみによって生きるのだと言ったときにこそ滅びる、神の民という驕りの中で、神に本当に感謝することを忘れたときにあなたがたも滅びる、いや、あなたがたこそ滅びる、と申命記は言ったのです。だから主イエスは必死になられたのです。私たちが自らの罪のためにですら滅びてはいけないからです。滅ぼしてはいけないからです。その滅びの中にご自分の身を置いたのです。それ以外に、人びとが立つ道はないということを見抜かれたからです。私たちもペトロのように、その主イエスの前に立ちはだかって、「サタンよ」と言われることがないように、主イエスがここから歩み始められたその道を、正しく見抜きながら、主イエスがここで悪魔に対して「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」という聖書の言葉を、もう一度はっきりご自分のいのちを賭けて語り直してくださったことに、深い感謝を表したいと思います。お祈りをいたします。
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by higacoch | 2017-03-06 08:25 | マタイ