<   2017年 02月 ( 4 )   > この月の画像一覧

2017年2月26日

「しかし、お言葉ですから」       イザヤ書55:8-13、ルカ5:1-11
                     国立のぞみ教会牧師 唐澤健太

 今朝、みなさんはどんな朝を気持ちで迎えたでしょう。春の日差しを感じる朝日の中で晴れやかな気持ちで目覚めた方がいるでしょう。しかし、また新しい朝を迎えても課題を抱え、動揺の中で、重苦しい朝を迎えた方もいるかもしれません。
 ペトロの召命物語として知られているルカ5章には、同じ朝でも全く違う朝を過ごしている人たちの姿がありました。 
 ある人たちは、ゲネサレト湖畔(ガリラヤ湖)の湖畔に立っているイエス様のところに、「神の言葉を聞こう」と押しかけています。その辺りで評判になり始めていたイエス様の教え、言葉を「神の言葉」として聞こうと迫っていく。人々の熱気や、活気を感じます。
 それとは対照的に、ペトロたち漁師は「網を洗っていた」とあります。夜通し漁をした漁師たちが、後片付けをしていたわけです。人々が熱心にイエス様のところに押し寄せているのとは、対照的。何だか群衆の熱気の蚊帳の外にいるように漁師たちは「網を洗っている」。神の言葉を聞く群衆たちから微妙な距離があるように感じます。
 しかも、この日の漁は、さんざんだったようで、「夜通し苦労したけども、何もとれなかった」のです。ペトロたちは、一晩中、小さな舟の上で、小さな松明を掲げながら、暗闇の中で、何度も、何度も、網を投げて、引き上げる。一生懸命やった。でも「何もとれない」。そのうち、朝日が登り始め、朝になる。朝になると魚は深くに潜ってしまい、捕りづらくなったそうです。ペトロは恨めしい思いでこの日の朝日を見つめたのではないかと思います。失意と、疲労と、そして睡魔に襲われながら、ペトロたちは「網を洗っていた」のでしょう。それがこの日ペトロが迎えた朝でした。
 そんな時に、ペトロはイエス様に声をかけられたのです。
 そんなペトロをイエス様はご覧になった。ペトロではなく、イエス様がごらんになった。そして「舟を出してくれ」。渋々だったに違いありません。ペトロはしゅうとめの高い熱を癒やしてもらった義理を感じたのかもしれません(ルカ4:38以下)。いずれにせよ、聞く気などなかった「神の言葉」をペトロは図らずもイエス様と同じ舟に乗り、特等席で聞くはめになったのです。
 どんな話をイエス様がされたのかは分かりませんが、イエス様の話が終わります。ようやく家に帰れる。そう思った矢先にイエス様はペトロに「沖に漕ぎ出して編みを降ろし、漁をしなさい」と命じられました。 
 主イエスの命令はとんでもない提案です。非常識な提案です。日が昇った日中は漁には不向きというのが漁師たちの経験上の常識でした。しかも、この日は夜通し苦労した挙句、何もとれないという経験をした朝です。「冗談じゃない」、「勘弁してほしい。せっかく網を洗ったのに……」。そんな声が漁師たちから漏れてもおかしくはありません。
 しかし、人間の知識、体験、常識の延長線上からは決して出てこない「言葉」が神の言葉(1節)として、ペトロたちの徒労の現実に迫り、挑戦してきたのです。神の言葉は、神の言葉のゆえに、人には思いもよらない言葉として飛び込んでくるのです。
 「しかし、お言葉ですから」とペトロは応答し、網を降ろしました。「お言葉ですから」。ここに御言葉に従う信仰があります。信仰は、私たちの知識でも、常識でも、経験ではなく、御言葉に対する決断です。私たちがよくすることは、御言葉に対して決断することではなく、御言葉を判断することではないでしょうか。自分の考え、経験に対して、社会の常識、人の言葉に照らして「御言葉を判断する」。この御言葉は私たちが受け止められ、聞くことができるか、この御言葉は今でも通用するか、常識的か。この御言葉は利にかなっているか。私たちが聞ける言葉だけ、ありがたく頂戴します。それ以外は、ご遠慮願います。そのように私たちは、御言葉を判断する。しかし、大事なことは、「御言葉に対する決断」であることを今日のペトロの姿は私たちに示しているのです。
 「しかし、あなたの言葉ですから」と決断していく。そして、御言葉に従う時、神の出来事が起こるのです。御言葉に従う時に、私たちは、神の出来事を経験する。「光あれ」と言われたら光があったように、神の言葉は出来事を起こす力をもつ言葉です。だから、御言葉を受け止め、御言葉に従う時、そこには必ず出来事が起こるのです。
 ペトロたちが経験したのは、経験したことのない「大漁の奇跡」でした。自分たちの常識では考えられない、しかし、ただ「お言葉どおりに」と従ったところに神の出来事があることを、従った者たちは経験しました。御言葉は人からもらったり、聞いたり、見たりするだけでは力になりません。御言葉に従って生活をする時に、わたしたちは、「御言葉の力」を経験するのです(「種を蒔く人のたとえ」マタイ13:1-23)。
 御言葉の力を経験したペトロは、罪を告白し、イエスを主と告白しました。主イエスは、そのペトロに「人間をとる漁師」という新しい使命を与えました。徒労の中で迎えた朝は一生忘れることのない「召命の日」となりました。
 ペトロの一日を私たちは「礼拝」を通して追体験するものです。徒労の中で迎える朝にも、主は言葉をかけて続けてくださいます。その言葉は「愚かな言葉」に聞こえることがあるかもしれません。しかし、「お言葉ですから」と聞き従うとき、私たちは新しく主を知り、新しい使命に生き始めることを経験するのです。
[PR]
by higacoch | 2017-02-27 08:19 | ルカ

2017年2月19日

「イエス様は宝、あなたも宝」     イザヤ書33:5-6、マタイ13:44-45
                        成瀬教会牧師 丹羽義正

 とっても短い箇所だが、私はこの聖書の箇所が大好きだ。なぜ大好きかと言うと、自分のことがここに書いてあると思うからだ。誰でも、自分のことが書いてあると思える箇所は好きになるだろう。
ここには「 畑に隠された宝 」と「 高価な真珠 」のたとえ、2つのたとえが書かれている。いずれのたとえも、宝のすばらしさ、その宝を手に入れることの喜びが語られている。おそらくこの宝を手に入れたときから、この人たちの生活は一変してしまったことだろう。
 この宝が隠されていたところは、最初のたとえでは畑である。見つけたのはおそらく農夫だと思うが、農夫が借りている畑を耕しに来てそこで宝を見つけた。農夫にとって、この畑は何のかわり映えもしない、ありふれた日常生活の場であっただろう。何か胸がワクワク・ドキドキするような素晴らしい変化が自分の人生にもたらされる、そういう期待を抱くこともない、むしろそういう期待を抱くとあとでガッカリさせられるのがオチ…、見慣れたこの畑の風景はこれからもずっと変わることはないのだ…そのように「 期待 」ではなく、「 あきらめ 」が支配する日常生活。その象徴がこの畑だったと思う。この農夫は、畑でたくさんの汗を流して来ただろう…生きるために。たくさんの涙も流したことだろう、生きることの厳しさのゆえに…。でもそこに隠された宝を彼が発見したとき、見慣れた畑の風景は今までと全く違ったものに見え、輝く畑に見えたことだろう。色あせていた彼の日常生活が、あきらめていたその人生が、まばゆい輝きを放つものに変わったことであろう。
 彼がこの宝を発見した時の様子を想像してみよう。地面に向かって大きく鍬を振り下ろす。いつもだったら、サクッと勢いよく入っていく鍬が、この日はガチンと鈍い音を立てて止まってしまう。彼は最初、これが宝だとは思ってもみなかっただろう。むしろ自分の作業の邪魔になるだけの、単なる障害物にしか思わなかったのではないだろうか、「 ちぇっ、こんなところに石かよ 」ってボヤいたかも知れない。私たちも同じように、自分の鋤が固い運命という名の石にぶつかったり、まったく意味のない出来事に邪魔されたりするたびにボヤいたり、わめいたりすることがあるだろう。だがそういう障害物だとか困難の中に、実は私たちに発見されることを待っている「 あの宝 」が隠れているのだ。この宝は私たちの人生の行く手を阻む障害物の中に身を隠している!それが神様のなさりようであり、天の国の法則なのだ。私もそういう神様のなさりようを体験したひとりの人間だ。だからこの聖書の箇所は大好き、自分のことが書いてあると思えてならない。私がこの宝、すなわちイエス様という宝を発見した時の出会いは、この農夫のそれとよく似ている。
 私は貧しい家庭で育った。貧しさは、私の人生にとって障害物以外の何物でもなかった。中学を卒業する時、経済的理由から普通の高校に進学することが出来なかった。会社に入ると、高卒者と大卒者では戦う土俵そのものが違うことを知らされた。努力しても先が見えている現実を知った。貧乏という障害物はどこまでも自分の行く手を阻み続けた。しかしこの貧乏であったことが私をイエス・キリストという宝へと導いてくれた。たまたまテレビの伝道番組を見たのだ。テレビの中でキリストと出会った喜びを語る女性歌手の歩みは、お金のために家族を裏切った私のそれと酷似していた。自分もキリストを信じたら、人生が変わるのではないか…それが私の宝を発見する出来事となった。ずっと長い間、貧乏が自分の人生の可能性を奪ったのだと思ってきた。自分の人生と言う畑は、つまらないものだけが満ちていると思っていた。しかしその貧乏であったということが大いなる宝と私を結びつける働きをしたのだ。私たちはしばしば自分の人生の行く手を阻もうとする様々な出来事に直面する。しかし自分にとって障害物でしかないと思うことが、何としばしば、生きて働かれるイエス様という宝を発見することにつながっていることだろうか!イエス様は、困難や人生のつまずきとなるような出来事の中で、私たちに発見されようと身を隠しておられる!
 宝を発見した農夫はずるいやり方で宝を手に入れるのだが、そこにとらわれて大事な点を見落としてはいけない。大事な点は、畑を手に入れるために彼は「 持ち物をすっかり売り払った 」ということ。それは真珠のたとえでも同じ言葉を使って強調されているではないか。今まで集めてきた真珠、そのすべてをすっかり売り払って一つの真珠を手に入れる。つまり、この宝を手に入れる喜びというのは、すべての持ち物を手放すに値するほどの喜びであるし、この宝を手に入れるというのは片手間なことではない!本当に自分のすべてを注ぎ込んで手にして行くものなのだということ。
 実は、このたとえは、私たちが宝であるイエス様を発見する物語であると同時に、イエス様が私たちを宝として発見してくださるという意味も重なっている。イエス様は私たちを手に入れるために、自分のすべて、そう、命さえも差し出してくださったのだ。信仰というのは、命を差し出して私たちを宝として御もとに引き寄せてくださった恵みに応え、私たちも持てるすべてを注ぎ込んで、この宝を耀かせて行くことであると思う。イエス様の全力の働きかけに私たちも全力で応える、そこに信仰が成り立つのだ。 
 ところで、私たちは宝を手に入れるためにそれに見合う代金を払えたのだろうか。答えはNoだ。この取引はイエス様が赤字の取引をしてくださったから成り立ったもの。それほどにイエス様は私たちをこの上もない宝と見てくださっているのだ。この物語は私たち自身の物語、私たちはその恵みに応えて歩もう。
                       
[PR]
by higacoch | 2017-02-19 18:48 | マタイ

2017年2月12日

「義の成るところ」          イザヤ書58:1-12、マタイ5:17-20
                          関 伸子 牧師 

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。マタイ福音書第5章の17節を言い換えたものが20節です。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。主イエスは、ご自分が来られたのは「律法を成就する」ためだと言われました。成就する、これを実現する、ということです。
 「あなたがた」、それは、この山上の説教の教えを聞く弟子たちのことです。教育という務めを皆さんも持っておられます。教会で子どもたちのために、家で子どもや孫の教育、家庭教師、さまざまに教育の務めを持っておられます。
 子どもの教育においても、政府が国民を支配、教育するにも、アメとムチを使い分けなければいけないなどと言います。私はしかし、こう信じています。神が私たちに与えてくださる慰めは、安心して座りこむことではなく、この自分でもファリサイ派、律法学者にまさる義に生きることができる、と慰められて立ち上がれるようになる。これが、神によって与えられる救いです。
 山上の説教をマタイがまとめたひとつの理由は、当時の教会にすでに生じていた、誤解を解くためであったと考えられます。特に、この部分のすぐあと、21節から第5章の終わりまでは、次々とふたつの考え方を対比さえています。昔の人は「殺すな」と教えたが、わたしはあなたがたにこう教える、兄弟に対して怒ったり、悪口を言うだけで殺すに等しいことをするのだ。そういうふうに、昔から聞いてきた生活の教えに対して、新しいもっと徹底した生活の正しさを対比させていくのです。
「わたしが…来た」と、主が繰り返し語っておられます。主が来られたのは、これこれのことのため、ということです。かつて評判のよかった映画に、「陽気なドン・カミロ」という、ひとりの司祭を主人公にしたものがありました。村で一番腕力の持ち主である司祭と、その村の村長のコミュニストの友情と争いとがからみあう物語です。この原作が「キリスト教文学の世界」というシリーズの中で翻訳刊行されて、その解説を、田中小実昌という方が書いていて、こんなことを言っておられます。物語のクライマックスに洪水が起こり、村の人は皆逃げてしまう。ドン・カミロは答えます。「わたしがここにこうしていることが、彼らみんなの力になるのです。この鐘の音で、彼方の人びとの希望を盛り立てています。希望を、信仰を」。その場面を取り上げて、田中さんは、自分が鐘を鳴らして人を元気づけることもできなくなって、ただひたすら、祈られて、ということではないか、もともと人間的な神父だなどと言うが、イエスを十字架にかけたのが、その人間的なことだったのではないか。そう問いかけます。そして、田中さんの一番好きな言葉は、ドイツの牧師ブルームハルトの「神の国だ! 宗教ではない!」という言葉だと書いておられます。
 神の国、向こう側から来て、ここに始まる神の支配、その神の支配をもたらすためにこそ、主は来られた。律法の一点、一画もすたることはないのです(18節)。
 あのキリストが来られました。私たちの思うようになるイエスではありません。私たちは、日曜日には家族ともども楽しんで、堅苦しい生活なんかよした方がよいと考えてしまいます。しかし、そうした人間的な世界で、キリストは殺され、その恵みが圧殺される。主イエスが、「わたしは来た」と言われるのを聞く時、この主が何をなさったかを思い起こさなければなりません。いつも落第点しか取れないような私たちを立ち直らせるためにこそ、主イエスは、生き、かつ死なれたのです。
 コリントの信徒への手紙一の第13章、それは愛の賛歌と呼ばれます。3節にこう書いています。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」。その愛とは何でしょう。それを明らかに示し、私たちに与えるために、主が来られたのです。
 NHKの「大草原の小さな家」というテレビ番組にこんな話がありました。貧しい農民一家の三人娘の長女メアリーの物語です。この娘はなかなかの秀才で学校で成績がよかったが、急に成績が落ちて来た。視力が衰えてきて、黒板の字も読めなくなったのが原因らしい。貧しい農民の父にとって眼鏡ひとつ買うのも容易ではありません。しかし娘のために町へ行って手に入れる。勉強ができるようになったのはいいが、今度はまわりの口がうるさい。眼鏡をかけていると、担任の先生と同じように、いつまでも独身でいなければならないのよ、という言葉に、とうとうたまりかねて眼鏡を自分で隠してしまい、父には、なくしたと嘘をつきます。ところが、試験の前日になって、偶然その先生に婚約者のすてきな男性がいることがわかる。それで気を取り直して眼鏡をかけて試験を受け、みごと一番、めでたしめでたしとなるのです。しかし、このテレビドラマは、この娘がひどく打ちひしがれて父のところに行く姿を映し出すのです。この娘は、父が貧しい中で買ってくれた眼鏡を隠し、嘘をついたことが、どんなに深い罪であるかを知り恥じた。どう詫びてよいかさえ分からなかったのです。
 学校の成績だけではないでしょう。信仰の世界、愛の世界においても、これまで自分が何をしてきたにしても、とにかく好成績をあげればよいということにはなりません。神の律法を生きたとは言えず、それ故にまた、天国、神の支配するところでは、「最も小さい者」でしかないのです(19節)。これがわかるのは、主イエスが、神の愛そのものが私に向かって注がれていることを知る。それを知る時に、自分を恥じることを学ぶのです。その時、私たちは自分の小ささを悔い改めると共に、その神の恵みの手の中にある大きな自己に生きることができるようになるのです。
[PR]
by higacoch | 2017-02-13 10:16

2017年2月5日

2月5日 「実を結ぶ種」         イザヤ6:6-13、マタイ13:1-23
                           関 伸子 牧師 

 今日、私たちは、マタイによる福音書第13章の1節から23節までの長い物語を一気に読みましたけれども、一挙に分かったでしょうか。10節から17節まで、弟子たちはイエスに、こういうふうに尋ねます。「なぜ、彼らに譬えでお話しになるのですか」。「彼ら」は群衆です。当時のユダヤの人びとです。
 11節以下の主イエスの答えを要約すると、それは、彼らが悟らないということが明らかになるためです。逆に、弟子たちのこととして言うと、あなたがたは悟るということがはっきりするためということになるのです。
 16節に「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ」とあります。この原文は、もっと強い言葉で「あなたの目は幸いである、あなたがたの耳は幸いである」という言葉なのです。私たちの目を指し、私たちの耳を指しながら、主イエスは、こんなにも喜びにあふれて、祝福の言葉を語ってくださっているのです。
 ここでの問題は、「聞いて悟る」ことです。ここに何度も繰り返されている言葉は、この「悟る」、「分かる」という言葉です。
主イエスが、今ここにおられる。この言葉を私たちに与えてくださる。私たちを類別するためなのでしょうか。悟りなき、自らの愚かさを悔い改める。「あなたの目、あなたの耳は幸いだ」と言ってくださるキリストの言葉を、心から受け止めることができるところへ導かれることを、私たちも、切実な祈りとしたいと願うのです。
 私は、教会学校に小さい時から通いました。紙芝居を先生が見せてくれます。今でも、いくつかの紙芝居の場面を覚えています。先生が、この種まきの譬えの話をしてくださったのも、今でも、覚えています。こういう文章に書いてあることも、たとえば、いばらが伸びて、種から生まれた芽生えが妨げられる場面は、紙芝居を見た方がよく分かるのです。種が何であるか。いばらが何であるのかわからないけれども、とにかく、そこで語られていることは分かるはずです。そして、それが、もし少し分かりにくかったとしても、18節以下のような解説をしてくだされば、子どもにだって分かるようになるのです。
 ついでのことのようですけれども、4節に「道ばたに落ちた種」とあります。ある人の説明を読んでなるほど、と思いました。当時のユダヤの人びとの農業は日本のものとは違って、実際に種を落として歩いたのです。ロバが馬に袋を背負わせて、その袋の中に種を入れて、その袋に穴をあけておく。そのロバか馬に畑の上を歩かせると、ポロポロ落ちていく。それが種まきになるというのです。そこで私たちは問わずにおれなくなります。自分自身は、豊かに実を実らせる土地なのか。それと
も失敗してしまう土地なのか。そのようなことは、誰でも考えるに違いないのです。
 11節に「天国の奥義」とあります。「神の国」という言葉を、マタイ福音書は、できるだけ避けました。「神」という言葉を、できるだけ避けたかったのです。そこで、「神の国」の代わりに「天国」と言いました。「奥義」と訳されている言葉は、「秘密」と訳してもよい言葉です。「天国」、「神の国」とは、私たちが死んでから行く美しい世界というのではありません。「神が支配なさる」ということです。
 いったい、その神の支配をどこで知るのでしょうか。それが第二の問いです。19節に「御国の言葉」という言葉が出てきます。「神が支配しておられる」ということを、私たちが知るのは、まず第一に、主イエスが、語ってくださった言葉を聞くことによるのです。だから、礼拝でも聖書の言葉を読み、そして、説教を聞くのです。
 そこで、第三のことです。ここに一つの問いが生じます。この「み言葉だけ」ということが、私たちの戦いを呼び起こすのです。誘惑との闘いです。とくに、私たちが心を惹かれるのは、22節の「いばら」についての主イエスの解説です。「また、茨の中にまかれたものとは、み言葉を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとがみ言葉をふさぐ」。「世の心づかい」これはあの〈山上の説教〉の中で「思い煩い」と一つになるのが「富の惑わし」です。「惑わし」と訳してある言葉は、「欺き」とも訳し得る言葉です。「富の詐欺」と訳してもよいのです。富に騙されてしまうのです。神の支配の現実なのであって、富の支配の現実敵ではないのです。信仰一筋に生きるということは、決して夢見て生きることではないというのです。
 今「夢見る」と言いました。ここでもう一つ、大変大事なことは、やはり最初に言いました、16節の主の祝福の言葉です。み言葉について語っておられながら、主イエスはここで「あなたがたの耳はさいわいだ」とだけ、おっしゃいませんでした。「あなたがたの目はさいわいだ」ともおっしゃいました。目で見ることができる言葉です。神の真理の言葉、神の国を告げる言葉は、目に見えるのです。
 私の愛唱聖句のひとつである、ペトロの手紙一、第1章8節に「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」と記されています。
 ここに「見ていない」と書いてあります。けれども「見たことはないのに愛し」というのです。あなたがたは、主をまだ見たことはない。しかし、信仰の目において見ている。信仰の目において見、信仰の耳において、その言葉を聞き、これを愛して喜んでいる。輝きに満ちた喜びがそこにある。それこそが信仰の幸いなのだ。このみ言葉により、私は信仰が揺らいでいた時に、立ち直りました。「私の目も、私の耳も、キリストに祝福された」という確信を失うことはないのです。その確信によって、教会は立つ。みなさんも立つのです。神さまは生きておられます。お祈りをします。
[PR]
by higacoch | 2017-02-06 13:37