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2017年1月29日(日)

「愛のヴァイオレンス」      イザヤ書12:1-6、マタイ21:12-17
                          関 伸子 牧師 

 私たちに、この朝、マタイによる福音書に添えて与えられた旧約聖書の言葉として、イザヤ書の第12章を先程、共に聞きました。この章は第11章から続くのです。
 教会にしばらく生活をし、クリスマスを祝ったことのある者は、このイザヤの言葉が、クリスマスの祭りのどこかで、必ず読み聞かせられることを知っています。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで」。それが、私たちの主イエスの出現です。「そのとき」、さらに第11章の6節以下を読みますと、その日、みわざを喜ぶ者たちが感謝をし、歌を歌わずにおられなくなるのです。第12章2節にこうあります。「見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、畏れない。主こそわたしの力、わたしの歌/ わたしの救いとなってくださった」。神が私の歌になってくださる。神を歌うことができる時、それがクリスマスです。
 しかし、こういう歌を聞きながら、私たちは心の中に一つのうずきを覚えます。なぜでしょう。今私たちが生きるこの世界に平和があるかと問わずにはおれないからです。「狼と小羊が共に」と聖書は言います。しかし、小羊同士が喧嘩をしているではないか。狼が、いい気になってのさばっているではないか。私たちは、手放しでこの暖かい思いに浸ることができない思いが、どこかにあります。
 今日は、マタイによる福音書第21章の12節以下を読みます。「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された」(12節)。続けて主イエスは、イザヤ書第56章7節の言葉を引用しつつ、こう言われました。「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている」(13節)。
 1980年に日本で上映された、イタリアの監督であるフランコ・ゼフィレッリという人が作った「ナザレのイエス」という映画を見ました。この映画の中での主イエスは、こん棒のような、よく分かりませんが、大きな柱のような、そんなふうに思えるような物を振りかざして、当たるをさいわい何もかもなぎ倒し、店を壊し、人びとを追い立てておられたのです。このマタイ福音書で、主イエスは、大騒ぎを起こしただけではなく、旧約聖書の言葉を使って、「あなたたちは強盗だ」と言わんばかりです。神殿では、犠牲の動物をささげる習慣になっていましたが、エルサレムに集まってくる巡礼の旅人は、自分の故郷から動物を引いてくることはできませんので、ここでそれを買い求めるのは自然なことでした。ここではユダヤの通貨しか通用しなかったので、それぞれの地域のお金を両替する人も必要でした。ただしよそ者は事情がよくわかりませんし、他に方法もないものですから、足元を見られて高い値段を吹っ掛けられます。このマタイによる福音書は、「皆追い出し」と書いています。あなたがたは神の家、祈りの家を、「強盗の巣」にしている、と言われたのです。この言葉だけでも、本当に激しいものです。映画は、この言葉の激しさを映像化したとさえ思われます。
 ここで主イエスの憤りは、二つのことに向けられています。第一は、「祈りの家」であるべき神殿がけがされていること。第二は、神殿においてさえ、貧しい人々、立場の弱い人々が犠牲にされ、その上にあぐらをかいている人々がいることです。そうした状況に、主イエスの怒りが爆発します。本当の愛というものは、時に怒りとして爆発するほどの情熱を内に秘めているものでしょう。
 この事件に続いて、マタイは主イエスの別の面を記しています。「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた」(14節)。彼らはそれまで、宮の門のところで物乞いをすることは許されたけれども、神の前に出ることは許されなかったのです。しかし、今ここで初めて神殿に入り、主イエスのみもとに集まるのです。
 主イエスの、不正に対する憤りということで、中米エルサルバドルの大司教であったオスカル・ロメロのことを思い起こしました。ロメロの言葉や説教などを集めた本のタイトルがThe Violence of Loveというのです。ロメロ大司教はこう語ります。「私たちはヴァイオレンスを進めたことはありません。キリストを十字架に釘付けにしたままの愛のヴァイオレンスを除いては、私たちの自分本位や、私たちの間に周知の残酷な不公正を圧倒するために、私たち一人ひとりが自らに行使すべき愛のヴァイオレンス。私たちが勧める愛のヴァイオレンスは、愛の、隣人愛のヴァイオレンスであり、武器を打ち直して鎌とするヴァイオレンスなのです」。
 今回の話と同じ事件に基づくと言われるヨハネ福音書の記事では、「弟子たちは『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」(ヨハネ2:17)と記されています。まさにこの愛のヴァイオレンスがイエス・キリストを死に追いやった、ということを語っているのでしょう。社会正義が損なわれ、誰かの人権が踏みにじられるような状況に対して、私たちもまた、こういう激しさをもつことが求められているのではないでしょうか。
 冒頭でお話ししました映画の最後の場面は、主イエスの十字架で終わらず、甦りで終わるのです。しかも、甦られた主イエスが、画面から私たちに向かって、こう語りかけられるところで終わりました。「今から始まる」。主イエスがエルサレムの神殿を捨てて、ベタニアにお入りになったのは、私たちがやり直させるからです。私たちが歌を歌い直すことができるようにするためです。ベタニアは、十字架に向かうイエスの歩みを整える場所です。そしてまた、甦りに向かって、主イエスが歩みを始める場所でもあったのです。お祈りいたします。
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by higacoch | 2017-01-30 08:24 | マタイ

2017年1月22日

1月22日 「救いの道」        イザヤ書9:1-7、マタイ4:12-17
                         関 伸子 牧師 

 私たちは、戦後72年、戦争のない生活をしてきましたけれども、今でもイスラエルをめぐるパレスチナの政情は、新しい戦争の緊張を呼び起こしています。〈聖地〉と呼ばれるところが、決して理想郷ではないのです。しかもそこに主イエス・キリストが生まれて、生きて、死んで、甦えられたのです。
 この第4章の12節以下のところに書かれていることは、この福音書記者が、主イエスのそうした歩みを、パレスチナの地において歩まれた歩みを、心をこめて書いている記事です。ここに「ヨハネが捕らえられた」と訳されている言葉があります。この「捕らえられた」という言葉には、特別な意味が込められています。同じマタイによる福音書で言うと、第20章の18節です。これは主イエスが、ご自分が捕らえられ、十字架につけられて殺される。そういう歩みをたどるということを予告なさった言葉ですが、ここに「引き渡される」と訳されている言葉があります。これが、第4章の12節の「捕らえられた」と訳されている言葉と同じ言葉なのです。この言葉はこの後、教会の生活の中において、重要な意味を持つようになります。聖餐に際して読むコリントの信徒への手紙第11章に出てくる言葉も「主イエスは、引き渡される日の夜」という言葉から読み始めるのです。「引き渡される」。人の手に渡される。しかし、人の手に渡されて王位につけられるためではなくて、判決を受けて殺されるためです。
 主イエスの先駆けになった洗礼者ヨハネは、どうして捕らえられたのでしょうか。ガリラヤの地方とそれからヨルダン川の東側の岸のあたりを、その当時支配していたヘロデ・アンティパスという領主がいました。このヘロデ・アンティパスという人は、もう妃がいたのですけれども、自分の兄の妻に恋をして、とうとう奪ってしまうのです。それが有名なヘロディアです。その娘がサロメです。しかも、この自分の妃にしてしまったへロディアと、ヘロデ・アンティパスとは、伯父と姪の関係にありました。洗礼者ヨハネは、自分の兄弟から妻を奪ったこのヘロデ・アンティパスの仕打ちを、はっきり名指しで追及したのです。そして捕まり、やがて、殺されるのです。そこには、明らかにこの世の権力者の、自分に語り掛けられる神の正義の声を圧殺する力が働いています。そして他方においては、そこになおかつご自分の真理の言葉を語らせ、しかもそれを語ったヨハネが権力者の手に渡ってしまう。それをじっと許しておられる神のみこころが働いているのです。洗礼者ヨハネは、人びとの罪を責め、そしてそこから立ち直るための悔い改めを告げました。そういう使命に生きた者として当然の道として、死に渡される歩みを受け入れたのです。
 イエスは、それをお聞きになって、ガリラヤに退かれたと書いてあります。なぜでしょう。一つの推測は、主イエスは、人びとが期待しているメシア、救い主としてこの世に登場されたけれども、そういう状況から自分たちを救ってくれるために登場するメシアというのは、都エルサレムに栄光に輝いて神の宮に現れるべきものであったのです。その華やかな舞台に立って、ヨハネを捕まえて、ひどい目に遭わせてしまう権力者に対して、その権力に立ち向かうことを拒否しておられるのです。
 ある人は、それを「神さまのみ手の中に隠れたのだ」と表現しました。幼な子イエスは、当時の支配者ヘロデ大王の追跡を逃れるためにエジプトに逃げました。やがてお帰りになった時に、ユダヤの地を避け、その当時の政治的なさまざまな争いから外れたナザレの地に赴き、そこで育ち、そこにお住まいになった。そして今、ガリラヤの地に退き、神のみ手にご自身を委ねることから活動を始められたのです。
 その次に「カフェルナウムに来て、住まわれた」とあります。それを、イザヤ書の引用によって、この福音書記者は説明をしようとするのです。
 ガリラヤの地、カフェルナウムになぜ住んだのか。この15節以下のイザヤ書の引用は、これは先程読んだイザヤ書第9章そのままの正確な引用ではありません。「ゼブルンの地、ナフタリの地」という、二つの固有名詞は、いずれもユダヤ民族の種族の名前です。かつてユダヤ民族の十二部族がそれぞれ分かれて住んだ時も、このゼブルンとナフタリの部族がガリラヤに主として済んだということを意味します。「海沿いの道、ヨルダン川のかなたの地」というのは、ここでは明らかにガリラヤ湖という意味を持っています。
暗黒の地と思われていたそのガリラヤの一つの中心地であるカフェルナウムの町に、主イエスが住まわれたのです。神の真理を語り続けるために、そこに自分の住まいを定められたのです。そのようにしてくださったから、イザヤの言葉はここに成就するとマタイも書くことができたのです。
 カフェルナウムの地にお住まいになって、「教えを宣べた」のです。何を告げたのか。「天国が近づいたのだ」というのです。この〈天国〉というのは、「神の国」ということです。「神の国が近づいた」と言われたのです。
もう一つ主イエスが言われたこと、それは「悔い改めよ」ということでした。「悔い改めよ」と訳されている言葉は、文字通り言うと、自分の思いの向きを変えることです。私たちが方向転換をして歩み始めるとき、権力者に捕らえられたヨハネの後を、ご自分の行く先をよく分かりながら後を追っていかれた主イエスの歩みを、その思いの中で受けとめたいと思うのです。なぜかと言うと、主イエスは、十字架につけられたからです。まさにその一点において、主イエスは、ヨハネが示したように、私たちにとって本当の光になってくださったからです。
 ここに私たちの救いに至る道が鮮やかに示されていることを、私たちはよく知りたいと思います。お祈りをいたします。
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by higacoch | 2017-01-23 16:20 | マタイ

東小金井教会のこれからの予定(説教要旨は次のページから)

      いつでも どなたでも お気軽に どうぞ! 

        こどもと一緒の礼拝をいつもしています。
        礼拝の前半にこども向けのお話があります。
     
                      

4月23日  「あなたがたと共にいて」  関 伸子 牧師

4月30日  「重要なことを見分ける」  荒瀬 牧彦 牧師(めぐみ教会)
東京三教会講壇交換日 


5月7日  「死んでも生きる?」  関 伸子 牧師

5月14日  「あなたも神の道を知る」  関 伸子 牧師
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by higacoch | 2017-01-18 22:20

2017年1月15日

先週の説教「恐れるな、小さな群れよ」ヨシュア1:1-9、ルカ12:22-34
                    唐澤健太牧師(国立のぞみ教会)
 「恐れるな」。聖書は、「恐れるな」という神の言葉に満ちています。クリスマスの時によく読まれるマリアの物語においてその言葉は語りかけられました。マリアの妊娠を知ったヨセフにも「恐れるな」という天使の声が夢で告げられました。ガリラヤで漁師であったペトロは、「恐れるな。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と招かれ、イエス様の弟子になりました。嵐の舟の中で弟子たちは、なぜ怖がるのか、と主イエスへの信仰を問われました。「怖がることはない」、「恐れるな」と繰り返し、繰り返し神様が御声をかけておられることは、それだけ、私たちが簡単に恐れにとりつかれてしまうからでしょう。
 ヨシュアは、偉大な指導者モーセの後を引き継ぐことになりました。ヨシュアには、うろたえて、おののいてしまう、「恐れ」がありました。40年の荒野の旅は、ちょっとしたことで、群れは分裂しそうになりました。エジプトに帰りたいと言い出す者がいました。勝手に金の子牛を作ってしまう時もありました。イスラエルの人々を約束の地に導くためにモーセがどれだけ苦労してきたかをヨシュアだってきっと知っていたはずです。この群れを導いくことが自分にできるだろうか。その働きを自分ができるのだろうか。そのようないう恐れがあったでしょう。
 目の前にはヨルダン川が流れています。この時期は春の借り入れの時期で、雪解け水でヨルダン川は非常に増水し、堤を超えそうなほどでした(ヨシュア記3章参照)。そんな川をどうやって渡るのか。たとえ渡ったとしても、まだ足を踏み入れたことのない、約束の地へいよいよ入っていく。そこはどんな土地で、どんな人がすんでいるのか。よい関係ができるのか。争いになるのか。心配、不安、恐れがヨシュアの中にあったに違いありません。
 そのようなヨシュアに主は、「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」との約束を与えてくださいました。ヨシュアは約束の地を目指して進むことが求められたのです。
 教会は約束の地を目指して荒野を旅したイスラエルの民のように、この世の荒野を旅しながら、神の約束の地、神の国を目指して旅する民です。イエス様は人々に神の国が近づいたことを教え、人々と共に生き、人々をいやし、神様の力があなたがたの間にあることを告げられました。イエス様が告げられた神の国の実現を、「御国を来たらせたまえ」と祈り、神の国を待ち望む群れ、それが私たちの教会です。私たちの世界は、まことに困難な時代を迎えています。愛と憐れみが支配する神の国とは程遠い世界が急速に広がっています。愛が冷める終わりの時代(マタイ24:12)のように思えます。神の国を目指す私たちの前に激流のヨルダン川が横切っているようです。
 その中で東小金井教会は牧師が交代する時を迎えました。新しいリーダーが立てられます。関先生の中に「恐れ」があるでしょう。また東小金井教会の皆さんも新しい時代を迎える中で、「恐れ」があるでしょう。課題の前に、私たちはいささか小さすぎるのではないか。「恐れ」を覚えてしまいます。
 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。主イエスは弟子たちに語られました。主イエスの働き、主イエスの宣教を引き継いだ弟子たちは繰り返し恐れにとりつかれました。主を信じる群れ、教会もたびたび恐れました。しかし、教会は「恐れるな」との主の御言葉を聞き、支えられ、生かされるのです。
 だから、私たちがなすべきことは、その主の約束を信じることです。そして、神がヨシュアに語られたように、「ただ強く、大いに雄々しくあって、左にも右にもそれず、ただ主の命じられたことを果たす」のです。「神さまが喜んで神の国」をくださるのでから、ただ神の国を求めて歩むのです。東小金井教会がこれまでしてきたように心から主を礼拝し、主を証しし、「神を愛し、自分を愛するように、隣人を愛する」主の律法にまっすぐに従うのです。
 恐れることがあっても、「恐れるな」という主の声を聞き、神の国を目指して進みましょう。「平凡でいい。ひたむきに生きよう」(藤沢周平)。その時に、ヨルダン川が不思議な形でせき止められ、進むべき道がひらかれたように、私たちの教会の歩みにも神の備えて下さる道が開かれるのです。
 そして、何より忘れてはならないのは、荒野のイスラエルの民を導いたのは、神ご自身であったことです。昼は雲の柱で、夜は柱が、民の先頭を離れることはなかったのです! 預言者イザヤも「あなたたちの先に進むのは主であり/しんがりを守るのもイスラエルの主」(イザヤ52:12)と記しています。
 恐れることはありません。私たちに先立って主が進んで下さるのです。そして私たちのしんがりも主なる神が守っていてくださるのです。だから恐れること無く、新しい牧師と共に、私たちは、神が与えて下さる約束の地を目指して、神の国を目指して、ひたむきに歩みましょう。喜んで神さまはそれをくださるのですから! 「恐れるな。小さな群れよ」。
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by higacoch | 2017-01-18 22:14 | ルカ

2017年1月8日

「開拓者イエス」           イザヤ書53:6-12、マタイ3:13-17
                            関 伸子 牧師 

 最近、『神の言葉は近い』と表題の祈りの本を読みました。これを書いたオーステルハイスという人は、オランダのカトリックの司教で、同時に、その詩人としての才能が認められている人です。これを読んでいると、カトリックとプロテスタントの者が、同じ主イエスに生かされているのだという喜びを味わうことができるのです。カトリックの司祭が、聖餐にどれだけ心をこめているか、改めてよく分かると納得させられるほどに、ミサに心を傾ける姿勢の反映が見られると思いました。
 この中に「彼の手にあるパン」という章があります。「彼」というのは、言うまでもなく主イエス・キリストのことです。何よりも私の心を捕らえたのは、「そのみ手に未来がある信仰」という言葉です。つまり、私たちの手の中に未来があるのではないということなのです。
 入学試験に失敗する者もあります。やっと学校に入ったとしても、自分が入りたいと思っていた学校ではないこともあります。せっかくこの人と、と思い定めて結婚してみたけれども、その結婚に敗れてしまうこともある。健康に破綻を生じる。この人と思って信頼していた人に裏切られてしまう。挫折はさまざまです。その時に、このオーステルハイスというオランダのカトリックの司祭が言うのです。われわれの信仰というのは、主のみ手の中にある未来を信じ、主の手の中に、むしろ自分の未来を置いていくことなのだと。
 昔から、教会が主イエス・キリストを読んできたたいへん重要な呼び名があります。それは「われらの唯一の望みなるキリスト」という言葉です。主イエス・キリストがこの世に登場された時に、そしてご自分の活動を始められる時に、まずそこで示してくださったこともこのことでした。つまり、わたしは、あなたがたの将来を、わたしの手の中に確保する、そのための闘いを今始める、ということです。
 主イエス・キリストの伝道の生活は、マタイによる福音書によると、まだ始まっていません。第4章の12節以下でヨハネの逮捕に続いて初めて開始されるのです。しかし、それに先立って、ひっそりと大工の子として生活しておられたナザレから、まず主イエスが姿を現された時に、第3章の1節以下にありますように、すでにヨルダン川で活躍をしていた洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになることでした。
 ヨハネが予想していたことは、自分がやっている仕事は、これから来られる方、主イエスの準備しかないということでした。ヨハネのもとにぞくぞくと集まっていた人びとの中に立ち混じって、ヨハネから洗礼を受けるために登場されたのです。ヨハネは、面食らってしまうほどであったのです。
 「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」。この洗礼者ヨハネもまた、この点では優れた人であったのです。主イエスが来られるならば、何よりも自分こそ、その方の前で、自らの罪を悔い改め、そしてその方の真のバプテスマに生かされたいと願ったのです。そして、15節にこう言われたのです。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。
 その時に、まず私たちが、はっきりと心に刻んでおかなければいけないのは、ここで「正しいこと」と訳されている言葉、これは、一般的には、このマタイによる福音書の、たとえば第5章から始まる〈山上の説教〉においては、「義」と訳されている言葉だということです。もうひとつ可能なのは「すべての義」、「一切の義」という訳なのです。もうひとつ、ここを学ぶ時に参照すべき大切な箇所は、同じマタイによる福音書の第21章です。その32節。「ヨハネが来て義の道を示したのに」という訳文があり、原文をそのまま訳すとこうなります。「ヨハネが、あなたのところに、義の道を通ってやってきたのに」。ヨハネが、あなたのところに、義の道を通ってきたのです。そうだとすれば、また第3章に戻りますけれども、「正しいことをすべて行う」とここでいうのは、すでに洗礼者ヨハネが歩いている義の道を全うする、義の道を完全に歩き尽くすということに他ならないということです。
「正しい事」という言葉は、「義」という言葉だと言いました。この「義」をもっともよく説明する言葉として、詩編第98編を引用する人があります。礼拝への招きの言葉として読むことがありますので、お聞きになったことがあるだろうと思います。詩編第98編は、私たちにとって神の御業は、神の〈いつくしみ〉をもってなされたことなのだと言うのです。神がそのようにして、私たちに対するご自身の真実を貫かれたのです。ご自分が握っていた私たちの将来を、私たちが手放したくても、神さまの方では手放さないということなのです。だから私たちは歌を歌わずにはおられないのです。「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ/ 歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え」と叫ばずにはおれないのです。
 最後にもう一度、このオランダの司祭、オーステルハイスの美しい言葉を読みたいと思います。「主なる神よ/きょうはあなたがこの世に/命のいぶきを与え/人間の中に/愛の篝(かがり)り火を焚きつける日です/きょうは/あなたの教会になるために/私たちが集められる日です/あなた自身が私たちの心の中に蒔いた言葉をもって/あなたに感謝いたします/聖霊の力によって/あなたを賛美します/私たちは喜びで一杯です/あなたを/私たちの父とお呼びします」。
 これが本当に、日曜日の祈りだと思います。日曜日に主の食卓にあずかりながら、この新しい月を生き始めることができる私たちの歌であると思います。お祈りいたします。
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by higacoch | 2017-01-11 14:59 | マタイ

2017年1月1日

「信仰の前進」 列王記上17:17-24、フィリピ3:12-16
                           関 伸子 牧師 

 今日与えられた聖句には、「兄弟たち」という言葉が出ています。1節に「わたしの兄弟たち」という言葉があり、17節には、「兄弟たち」とあり、この13節にも「兄弟たち」と書いてあります。第4章1節には、「わたしが愛し、慕っている兄弟たち」となっています。その箇所をよく読むと、それぞれ特に力をこめて、大事なことを語ろうとする時に「兄弟たち」と呼び掛けていることが分かります。
 それは、自分だけが特別なわけはないのだというのです。だから、安心しなさいという気持ちを、この言葉で表しているのです。それならば私たちも、パウロはずば抜けて偉い人だからどうにもならないと思わないで、兄弟たち、と呼んでくれていることにしたがって同じような信仰の旅をしている一人の兄弟の言葉として、これを読み、信仰の導きを得たのです。
まず第一にパウロは、「わたし自身は既に捕らえられたとは思っていません」と言っています。12節にそのことがあるのですが、ここでも、繰り返して、わたしはすでに捕らえられたとは思っていないと言うのです。
 自分はただこの一事を努めると言っているのです。信仰生活というのは本来一途なものです。ただこの一つのことだけを信じさえすれば、それでいいと言われることは、私たちにとっては大きな慰めであり、また力です。パウロは、後ろのものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばしつつ生きていくことだと言うのです。
 私たちは後ろのものと言うとただ過去のことだけ思います。しかし、じつは、後ろのものというのは、本当は、罪のことではないでしょうか。なぜかと言えば、私たちの後ろのものというのは、いつも悔みをもって私たちに迫ってくるからです。私たち人間の生活は、ある意味では、過去の生活によってつくりあげられたものでしょう。できればもう一度やり直したいと思うようなことのたくさんある過去を、どうしたら忘れることができるかということです。
 先ほど、列王記上の話を読みました。この話はそのことについて大事なことを教えてくれています。預言者エリヤが追放されてあちらこちらを逃げてまわるのです。そしてあるやもめのところに身を隠していた時の話です。預言者の力によって、この家では粉も油も一度もなくなったことがありませんでした。したがって、エリヤとやもめと子どもとは何不自由なく暮らして行くことができたのです。ところが、そのうちに子どもが病気になって死んだのです。そうすると、今、読んだ18節に、「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」と言いました。自分の子どもが死んだのは自分の罪のせいだ、とやもめはすぐ考えたのでしょう。やもめがどんな生活をしていたかよく分かりません。
 罪というものは消しようがないのです。しかし、神によって罪が赦された時にはじめて自分の罪を消すことができるのです。そのようにして自分の罪が赦され、失敗の多い過去の生活が感謝に帰られていくならば私たちは罪からまぬがれ過去から逃げることができるのです。
 ところが、後ろのものを忘れるだけでは、実は救われた生活にはならないということです。後ろのものを忘れても、新しい気持ちを持って、前に進ませるものがなければならないのです。ただ、前に進んでいくのではなくて、まるで乗り出すようにして前進していくことです。
 そうすると、聖書の中で言っている前の方というのは、少なくとも神の方角だということが間違いないのです。神のお喜びになる人生を歩むことが、実は前に向かって進んで行くということだと思います。成功、不成功を言えばそれは自分の目指した目標に達することができたということではなくて、神が喜んでくださる生活に自分は歩いて行くことができ、時に自分も本当に安心することができるということではないでしょうか。
 さて、このように読んでふと気がつくことは、フィリピの信徒への手紙第3章4節から、パウロは自然に自分の生涯のことを語ってきて、14節で、自分の生涯を語ることが終わっているということです。したがって、これは、一種の自叙伝です。信仰の立場からというのは、キリストと自分との関係ということです。私たちの生涯というのは、いつでもだれかとの関係から、本当の値打ちが分かるものです。あの人の生涯は社会に役立ったとか、あるいは家族のために役に立ったということでもわかるのです。それならば、キリストとの関係から自分の生活のことを書いた、自叙伝だと言ってもいいかもしれません。しかし、自叙伝とは言っても、まだ終わっていないのです。それは、これを書いている時にパウロがまだ生きていたとか死んでいないとかいうことではなくて、キリストとの関係が永遠だということであり、いつまでも続くのです。いつまでも、神がキリストによってくださるご褒美を目指して、後ろのものを忘れ、前のものに向かって、激しく進んで行く、実に壮烈な競争であるかもしれません。しかし、人との競争ではなくて、自分の罪との競争であり、それに勝つ生活です。ヘブライ人の信徒への手紙第12章のはじめに書いてあることは、この競争をよく表している、と思います。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびたただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。
 このように、私たちは、自分の罪と競走し、それに勝つ生活をこの一年の歩みを通してさせていただきたいと願います。お祈りします。
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by higacoch | 2017-01-07 15:53 | フィリピ