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2016年12月25日

「恵みと真理とに満ちていた出来事」
イザヤ書52:7-10、ヨハネ福音書1:1-14         香月 茂

 皆様と共に、クリスマス主日礼拝を捧げることができて、大変嬉しく思っています。イエス様の誕生を喜び、神様の御名をほめたたえましょう。
さて、今朝は14節を中心に、御言葉の糧を頂きたいと思います。「言は肉になって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちは、その栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあります。これを二つに分けると、前半は「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。これはヨハネ独自のイエス様の誕生の描写で、言は神様を表し、肉とは人間を表していて、短い中にもヨハネは重大な信仰を告白しています。つまり「神様が人間となられた」ということです。神学的な議論では「受肉論」と言って、神様が肉体を受け入れられたことを論じています。有名な本にアンセルムスが書いた『何ゆえに神は人間となられたのか』というものがあります。何ゆえか?それは、わたしたち罪人の救いのため、私たちの贖いのため、というのです。人間が何かをしたので、神様が人間となってくださったのではありません。ただただ神様の一方的な憐れみによるもので、これ以外の何ものにもよりません。
 次に、後半は「父なる神の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。ここで注意したいのは、イエス様の誕生はただ「恵みと真理によった」のではなく、「恵みと真理に満ちていた」と言っていることです。これは福音書を書いたヨハネの信仰告白だと言った方がいいでしょう。恵みが満ちており、この後のイエス様が為された出来事は恵みがさらに溢れた出来事だったのです。
 私は今回、聖書箇所を1節から14節として説教の準備をしてきました。しかしながら、この箇所を読み、祈りつつ準備していく中で14節までではなく、18節までにしておくべきだったと示されました。なぜなら、16節でヨハネは、こう言っているのです。「私たちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から恵みの上に、さらに恵みを受けた」と。恵みの上に、さらに恵みを受けたという言葉に、私はイエス様の十字架を思い起こしました。イエス様ご自身が、自らのいのちを犠牲にしてまでも、私たちを愛してくださったこと、そして、その死からよみがえって、新しいいのちを示して下さった復活の出来事を思い出しました。それで、今回の週報の正面に、イエス様の誕生、イエス様の十字架、そして復活―復活そのものではありませんが、復活後の昇天の場面の三点セットを選びました。このように、イエス様の誕生は、私たちに満ちていた恵みが与えられていたことのしるしなのです。
 さらに17節には、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理は、イエス・キリストを通して現れた」と告白しています。これは、旧約の時代は、モーセによって律法が与えられましたが、新約の時代は、イエス様によって恵み、そして真理が与えられたと理解できます。
次に、真理について考えてみましょう。真理は、福音書の中で22回、語られていますが、そのほとんどがヨハネ福音書にあります。具体的に言いますと、22回の内の19回出てきます。ヨハネが語るように、真理もイエス様によって現れたのです。イエス様は、「真理はあなたたちを自由にする」、「私は真理を語っている」、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」とおっしゃっています。こうしたことから、真理とは、神ご自身を表すというよりは、神の言葉であり、神の言葉を伝えるイエス様の言葉をも意味します。
 私たちは、しっかりと覚えたいのです。クリスマスの出来事、それは神の恵みと真理とに満ちていたということを。そして、その恵みが、イエス様の歩みの中で、溢れてきたのです。そして、ヨハネの手紙に「神は愛である」と告白されているように、ヨハネの手紙一の4章9~10節では「 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」とあります。
 私たちは神様の一方的な憐れみによって、今、罪赦されて、生かされているのです。この神の愛の地上での原点が、イエス様が、人間となられたことです。だから、喜びましょう。イエス様が、この地上にお生まれになったことを。そして、この誕生が、神の恵みと真理に満ちていたことを、隣人に伝えましょう。喜びをもって、あなたも神様に愛されたのですよ、と。イエス様は、生まれ、命をかけてあなたの罪のために死んでくださったこと、そしてその死ですべてが終わったのではなく、死を超えて命が与えられると示してくださったことを伝えましょう。この東小金井教会がどんなに小さな教会であっても、イエス様の救いの恵みと真理を伝えることができるのです。そのことをしっかりと忘れないようにしましょう。そして、イエス様の救いの恵みを伝えていきましょう。
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by higacoch | 2016-12-30 15:40 | ヨハネ福音書

2016年12月18日

「喜びは尽きず」 イザヤ9:1-6、マタイ1:18-25
                           関 伸子 牧師

 来週の主日はクリスマス礼拝です。その前に、私たちが今日、マタイによる福音書第1章18節から、「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」という言葉を聞きました。
 しかし、ここに書かれていることは、誕生そのものの出来事が全く書かれていないのです。最初にマリアが妊娠をした、それをめぐってヨセフが思い悩んでいたときに、夢の中で主の使いがヨセフに現れた、そしてその主の使いの望みに従って、生まれた子どもに「イエス」という名が付けられたということ、この三つだけです。しかも最も長いのは、ヨセフの見た夢の話です。
 18節の「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」という言葉、これは原文に添ってもう少し厳密に訳すと、「聖霊によって身ごもっていることが見つかった」という文章です。そのことで、ヨセフのマリアに対する愛がどんなに深く傷ついたかということは、説明を要しないと思います。しかもそのことだけで悩んだのではなさそうです。19節に、「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにすることを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」と書いてあります。自己保身の手段を考えたというふうに読んでしまいそうです。
 私たちもまたこれに似たことをいろいろな形で知っています。親しい者との愛の生活に、私たちは一方でどんなに大きな喜びを見出すか。そして他方においてどんなに深く傷つくことでしょうか。特にそこで愛が見いだせなくなった時に、そこで一緒に生きることはもうできないという思いを抱いたときに、どんなに心深く悩むことがあるか。しかも誰にも言うことができないのです。クリスマスはそういうまことに人間的な、しかし深い魂の中で起こったのです。
 森有正というひとりのキリスト者がいました。森先生は東大の教授の職を擲(なげう)ってフランスに行ってしまいました。そして、いろいろな人からひどいことを言われながら、お連れ合いと別れてしまうようなことをしながら、フランスで何十年と生活をし、1976年に天に召されました。関根正雄という先生が、森先生を論じておられる文章の中で森先生を引用してこうことを言っておられます。「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っています。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。(中略)人に言えず、親にも言えず、先生にも言えず自分だけで悩んでいる、恥じている、そこでしか人間は神さまに会うことができない」。関根先生は、この森先生の文章を指摘して、ここに森有正という信仰者の〈根性〉がある、ということを言っておられます。
 クリスマスは、いつもより多くの人が集まります。来週、この礼拝の席においても、私たちは皆一緒に、あの人も来た、この人も来たという思いの中にありながら、同時に傍らにいる人も忘れてしまうような、ただひとり〈神の前に立つ〉思いを持つことが求められているのではないかと思います。
 ヨセフはまさに、ただひとり神の前に立たされた。人間的な、それこそ人には言えない愛と疑いの中で、時にマリアに対して憎悪の念さえ抱いたにちがいないと思われるような悩みを抱きながら、しかし、ただひとり神の前に生きざるを得なかったのです。ただひたすらこの「心の一隅」において神と出会うことを願ったのです。
 ヨセフは夢の中で、主の使いにこういうことを言われました。あなたはこの娘を離縁してはならない。ちゃんと自分の妻として迎えなさい。それはこの女が産む子を自分の子として引き受けろということです。
 イエスという名はヘブライ語でヨシュア、ヨシュアというのは「わたしたちの救いだ」という意味です。長男が生まれるととても喜びます。私たちにとって神さまは〈救い〉なのだという思いで、ちょうど私たちが子どもに「恵」とか「恵一」などという名前をつけるのと同じように、ヨシュアという名前をつけたのです。
 MOLという集団があります。これはたいへん面白い集団で、「ミッション・オブ・レパーズ」と言います。レパーズというのは「ハンセン氏病患者」で、「ハンセン氏病患者の伝道」という意味です。この集団が発行した書物に『現代のヨブたち』という本があります。ハンセン氏病に罹った人たちがその中で信仰を持つに至り、どうやって生きてきたかということを書いている文章です。ひとりの人のことを紹介しますと、その人は15歳になった時に、自分の異常に気がつき、赤十字病院に行って、実に簡単に「あなたはハンセン氏病だ」と言われた。自分は死んだ方がましだと、15歳の少年がそう思う。ひとりの人が静かにわたしのベッドに近づいた。女の人であった。その人はまるで自分のベッドにすがるようにして体を傾けてきて、祈りに似た声でこう言ったというのです。「松村さん、すべての人があなたを見捨てても神さまはあなたをお見捨てになりませんよ」。その言葉を聞いていのちの火がともったと思った時に、彼は危篤状態を突き抜けた。そして、生きて信仰を語り続ける人となりました。神さまは私たちも一緒におられる、私たちがどんなに罪を犯しても、どんなにこの歴史を崩してしまうようなことをしても、神さまは私たちと共におられる。私たちが望みを捨てないですむようにしていてくださる。その意味において、私たちも、ハンセン氏病の方たちに負けてはならないと思います。同じ恵みを受けているからです。お祈りいたします。
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by higacoch | 2016-12-24 17:06 | マタイ

2016年12月11日

「心動かぬ扉」 イザヤ書30:8~、マタイ11:7~19
                         関 伸子 牧師

 かつて日本にも来たことがある、カトリックの司祭のミシェル・クオストという方が書いた、『神に聴くすべを知っていたら』という祈りの書物にある祈りの言葉の一節をご紹介します。「主よ、こよい、わたしは恐れに満ちています。あなたの福音が、あまりにもこわいので、ふるえています。説教をきくだけなら、なんのことはないでしょう。きいて、つまずかないでいることも、むつかしくはありません。しかし、それを真剣に生きることは、とてつもなく、むずかしいことなのです」。
 実は、このクオストの祈りの初めに引用されるのは、このマタイによる福音書、第10章の34節です。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである」。他のみ言葉と共に、このみ言葉が引用されています。それを読んで、祈る者の心が「恐れに満ちて震えている」というのです。この祈りの持っている真実さは、私たちも、よく理解することができます。み言葉を真剣に生きるということは、とてつもなく難しいということです。私は、このクオストという人の信仰者らしい誠実さはよく理解するつもりです。ただ、「説教を聞くだけなら何ということはない」という言葉、「聞いて、つまずかないでいることも難しくはない」という言葉。説教を聞くことはそんなに易しいことなのでしょうか。この人の気持ちは、とてもよく分かりますけれども、あえて問いを出さざるを得ないのです。
 主イエスは、たとえばこの第11章の5節において、ご自分の、さまざまなみわざを語った最後に「貧しい人々は福音を告げ知らされている」と言われました。貧しい人びとに福音を告げた、というご自分のわざが、どんなに大切かということに力点を置いて語られたのです。そのために、後の人びとは、福音が説教されるというよりも、死人が甦るということの方が、大事だろうと考えて、この順序を置き換えた人があるほどです。しかし、ここでは、貧しい人びとに福音が説き明かされるということ、告げられるということ、それが主イエスの究極のわざであったのです。そして、更に6節には、「わたしにつまずかない人は幸いである」と語っておられます。ということは、主イエスにつまずくことが、どんなに多かったかということです。むしろ、この第11章でまず一貫して語られているのは、クオストさんが言うように、み言葉につまずくということは、たいしたことではない、というようなことではないのです。主イエスつまずかないで、済ませることの難しさに耐えることができなかったと、福音書は語るのです。
 そして私たちは、何よりも信仰者の生活の中で、礼拝に出ること、説教を聞くことに全力を挙げます。私たちの教会においてなされる説教も同じことなのです。神はここで生きて働いておられる。この礼拝において、私たちはその神と出会う。その神を礼拝する。今、私たちはクリスマスを前にして、この礼拝をしています。クリスマスにおいて、主イエスがお生まれになったということは、その神さまの新しい歴史、原点がまさしくここに置かれ、始まったということを意味します。
 主イエスは、そのヨハネを先駆けにして、この世に来られました。しかも、これで私たちが忘れてはならないことがあるのです。イエスはここで嘆いておられるのです。このように、ヨハネとイエスとが共同作業として、神のみわざを始めたのに、人びとは何をしたか。16節、17節に、主の嘆きの言葉が記されています。今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。「笛をふいたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」。
 「今の時代」というのは、別の訳をすると「この人びと」という意味です。「ここに生きているこの人びと」ということです。神さまに「この喜びを共にしてください、この悲しみを共にしてください」と願うのに、神さまがちっとも調子を合わせてくださらないと言って文句を言っているように聞こえるのだと言うのです。
 ところで、この16節、17節については、もう一つの理解があります。むしろ、子どもたちに「遊んでくれ」と呼び掛けているのは、洗礼者ヨハネであり、主イエスであると理解することもできるのです。その呼び掛けを聞きながら、一緒に遊ぼうとしない人こそ、いわゆる「この世の人びと」、「この人びと」のことだと考えるのです。ヨハネが示した神の悲しみも、主イエスが示した神の喜びも見ることができない。共感するところがない。むしろ、それを踏みにじってしまっているのです。
 主イエスにおいて始まった神の国、神の支配は、なぜ、その激しさを持たなければならなかったのか。罪と闘うためです。罪と闘う激しさを持って入り込んで来た時に、人間の罪が荒々しくそれを踏みにじった。そこで、ヨハネの首がはねられたのです。主イエスが十字架につけられて殺されたのです。
 ある人はこう書いています。「あなたがたの罪は赦される」。説教者はそこに命をかける。なぜでしょう。神のみ名による行為がそこに行われるのです。そこで神の救いが起こるのです。み言葉をここで聞くことに全力を注いだ時、私たちは日ごとの生活を生きるのに、何も難しいことはなくなるのです。なぜでしょう。主イエスが一緒にいてくださるからです。もう私たちの歴史は変わっているのです。その新しい歴史を生きる時、誰もがひとりではなくなるのです。主イエスがいつも一緒にいてくださるのです。それが、私たちに与えられている望みです。お祈りをいたします。
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by higacoch | 2016-12-17 19:28 | マタイ

2016年12月4日

「どんな時にも御言葉を伝えなさい」エレミヤ36:1-3 テモテ二4:1-8
                          香月 茂 牧師

 皆様と共に礼拝を守ってきて10年、時が経つのは早いもので、今日が実質、ここの牧師として語る最後の説教と考えてもいいでしょう。この時に、私が最後に皆さんにお伝えしたいことは「御言葉を宣べ伝えなさい。」ということです。
 パウロは、テモテに言います。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」と。パウロの自分の知識や、これまでに得た人生処世訓ではありません。自分の知恵の言葉でも、偉大な預言者の言葉でもありません。主イエス様に集中して、主イエス様の言葉や祈りの言葉です。今、私も、私の後を継いでくださる関先生にお伝えしたいのです。そして、関先生から皆さんに伝えて欲しいのです。「時が良くても、悪くても御言葉を宣べ伝えなさい。」と。主の御言葉であって、私たちの言葉でも、教会の言葉でもありません。
 では、良い時、悪い時とは、何時でしょうか。伝道するのに、時の良し悪しがあるのでしょうか。皆さんは、伝道するのに、どんな時代が良いのか、悪いのかと問われたなら、どう答えるでしょうか。多くの人は、迫害などがない時が良い時代で、迫害が激しい時代は悪い時代と考えると思います。私もそう思っていました。しかし、教会の歴史を見ていくとそうとは言えません。否、むしろ反対のように思えます。迫害がなくなった時代、教会はどんどん多くなり、権力を持ち始めました。国々の王よりも力が強くなり、彼らを支配するようになりました。そうなった時、教会は御言葉を伝えるよりも御言葉を解釈するようになりました。御言葉に仕えるよりも御言葉を支配するようになり、教会が御言葉よりも上に立ち、人々にお説教するようになりました。そうなって、教会は御言葉を伝えなくなり、教会にとって都合のいい言葉を伝えました。もともと、わたしたちが良い時、悪い時と考えるのは、私たちの価値基準によってであり、それが神様の判断基準に沿っているのか、解りません。むしろ、人間の価値基準で決めつけてしまっているのです。こうしたことを鑑みると、そう簡単ではありません。何時がいい時か、悪い時か、解らなくなります。何時が伝道に適している時なのか解りません。だったら、むしろ伝道を控えた方がいいのでしょうか。そうではありません。パウロは、私たちにとっての良い時、悪い時が解ることが大切だとは言っていません。大切なのは「御言葉を宣べ伝えなさい」です。何時がいい時か、悪い時か、解らなくてもいいのです。どんな時にも「御言葉を伝えなさい」と教えているのです。パウロは「伝える」ということを命じています。なぜなら、教会においても人間的な面が、どうしても生じてくるからです。
 では、「伝えなさい」を強調して「伝えれば、いいのです。」となったら、またそれも問題です。隣人が、聞こうと聞くまいと語りっぱなし、相手を無視して、一方的に伝えればいいというものではありません。そこには、祈りの心がなければなりません。隣人に対する愛がなければなりません。新宿駅や渋谷駅などで、拡声器を背負って大音響で「悔い改めなさい。悔い改めなければ地獄に落ちる」と語り、人々を脅しているのは御言葉を伝えているとはいえません。伝えるのではなく、脅しています。伝えるのというのは、愛が必要なのです。パウロが人に福音を伝えるために、「その人に仕える者になった」という奉仕の心を持たなければなりません。このように愛と奉仕の心をもって伝えていかなければなりません。
 パウロは、愛する弟子、テモテに「御言葉を宣べ伝えなさい。」と命じていますが、パウロの趣旨からいうと、テモテだけに命じたのではありません。テモテは若き伝道者でしたが、伝道者だけに命じておられるのではなく、教会の誰にでも命じているものと受け止めます。
 さらにもう一つ、時の良し悪しを私たちの時代とか、外の環境で考えましたが、これは私たちの内側においても考えなければなりません。つまり、わたしたちがどんな状況なのか、どんな状態なのかということです。パウロは、フィリピの教会にあてた手紙を牢屋の中から書きました。その手紙の中には、「今は福音を宣べ伝えることができないので、残念だ」と書いてはいません。否、むしろ福音が宣べ伝えられていると喜んで手紙を書きました。またパウロは、多くの苦難・災難に会いました。そうした時は、伝道できないと嘆いたのではありません。そうではなく、個人的には伝道が難しい状況と言えるときにも伝道に励んでいます。
 今朝の箇所で、パウロは、「わたしは、世を去る時が近づきました。」と言っています。この言葉から、ここはパウロの遺言説教とも言われています。私の場合は、もうすぐ教会を離れて、新たな伝道の地に出掛けます。ここを離れます。ですから、大事なことを伝えたかったのです。御言葉を伝えることは何よりも大事なのですから。私は、皆さんに、繰り返して言いますが、「社会が、自分自身が、どんな時でも、御言葉を宣べ伝えなさい。」と。このことを私自身も求め、皆さんにも求めていって欲しいと願います。
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by higacoch | 2016-12-10 19:24 | テモテ