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2016年11月27日

「滅びを越えて」 イザヤ45:20-24a、マタイ24:32-51
                           関 伸子 牧師

 ある説教者の説教の中に、その人がどのようにして信仰を与えられ、どのように神に仕えるようになったかという話を読みました。この人は弁護士として活躍していました。ある日、道を歩いていたら、農民のひとりが自分の飼っている豚を一所懸命小屋の中へ追い込んで入れようとしているけれども、豚が言うことを聞かないと、「弁護士が地獄に連れて行かれるように、お前たちも地獄に連れて行かれるぞ!」と言った。そうしたら豚はびっくりして、すぐに小屋の中に飛び込んだというのです。これを見ていた弁護士当人がびっくりして、教会に行くようになったという話なのです。この説教者はこの譬えを語った最後に、豚に導かれたと言っています。この人は滅びを畏れることができて、そのために救いにまで至ったのです。
 私たちはマタイによる福音書、第24章を学んでいて、この第32節から、その第24章の終わりまでを、一気に読みました。この主イエスの警告もまた、滅びの警告です。35節に、「天地は滅びる」と言う言葉があります。「天地は滅びる」という明らかな予告です。
 私たちの肉体も魂もそして霊も、死すべきもの、滅びるものである。そのことを、私たちは永遠に生きておられる神を知るからこそ、幻想を抱かずに、見つめさせられるのです。しかし、このことは決して簡単なことではないのです。自分たちが滅びるということを、まともに見るということは、なかなか私たちにはできないことです。だから主イエスは、38節以下に、こういうふうに言われるのです。「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった」。創世記が伝えるノアの物語は誰もが知っています。ノアは人びとの目の前で大きな舟を造った。それにもかかわらず人びとは、滅びを畏れる者をあざけることだけしていて、自分たちが滅びることについての恐れを持つことはなかった。だから自分たちは永遠に生き続けることができるかのごとく、食い、飲み、めとり、嫁ぎなどしていた。主イエスはその話を、昔の話ではなくてご自分を十字架につけようとしている人びとと、その時代に向かってお語りになった。滅びを最も恐れておられたのは、ここでは主イエスだけであったと言ってもよいかもしれません。その主イエスが、あなたがたはなぜ「食い、飲み、めとり、嫁ぎ、滅びを知らず生き続けることができるのか」と、いぶかっておられるのです。
 私たちは、「滅び」という事柄から考え始めました。それは何よりも主イエスがここで「天地は滅びる」とおっしゃっているからです。天地を造り、私たちの存在をお造りになったのは神です。神さまが無から作ってくださったのです。そして主イエスは、その神のわざが終わる時、再び、すべては無に帰することは事実だと言われる。わたしが語ってきた言葉は、その滅びを貫いて生きる。それが、私たちの〈いのちの言葉〉以外の名にものでもない。そのように私たちに語りかけられるのです。
 42節を読みます。「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主がかえって来られるか、あなたがたには分からないからである」。いつか、それは分からないけれども、主が、いつでも私のところに雇用としておられる。待ちながら、それに備えながら生きてゆくところに、私どもの真実の生活が生まれる。そのことを45節から思慮深い僕の譬えでお語りになります
 「忠実な思慮深い僕」と、それに対する「悪い僕」とが、48節に対比されています。「しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。そしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる」。とある。どうしてこんなところに偽善者が出てきたのでしょう。ひとつの理解はこうだと思うのです。第23章で、主イエスは、実に丁寧に偽善な律法学者、ファリサイ派の人に対する批判を語られました。「偽善な律法学者、ファリサイ派の人たちよ、あなたがたはわざわいである」と繰り返されました。偽善とは神さまを信じているような顔をして、本当は神さまを本気で相手にしないことです。ここに登場するのも〈僕〉です。神さまの僕、主の僕だと思っている人びとです。それが悪くなっている。主イエスが自分の家の戸口に立っている。まあいいから、世の終わりなんか、ずっと先の話だから、今は、ここでこうやって酒を飲んでいるほうが楽しいではないか。しばらくキリストのことを忘れていて何が悪い。そういう「悪い僕」の話を主がしておられるのです。昔の遠い話なのでしょうか。私たちは毎日、いつの間にか、それに似た生活を初めているのではないでしょうか。
 30節に「そのとき、人の子の徴が天に現れるという言葉があります。滅びしか見えないように思われてくる、自分を取り囲んで押し潰してしまうかもしれないほどの、暗黒の空に「人の子の徴」を見る。その「十字架の徴」は、私たちにとって、しかし、もはや滅びのしるしではなく、「望みのしるし」になる。そして教会は、この滅びることがない主の言葉を聞くために、集まっているところだと私は信じます。
 三人の私たちの信仰の仲間がこの数年の内に亡くなりました。本当に亡くなってしまう。しかしその方たちも、ここで、滅びない言葉を聞き続けた。ここで一緒に礼拝した。それを確認することができるからこそ、私たちの望みは開かれるのです。そして私たちはその望みをもって、また毎日、三度三度の食事をし、日ごとの生活を、人びとに糧を与えるために、生き続けることができるのです。
   
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by higacoch | 2016-11-30 18:34 | マタイ

2016年11月20日

「主の言葉は成る」 イザヤ書55:6~11、ルカ1:26~45
                            荒瀬 正彦 牧師

 降誕前節は私たちが御子の誕生を待ち望む季節ですが、しかし御子の降誕は一直線に十字架に繋がるものであれば、むしろ「待っている」のは私たちではなく神様の方が私たちを待っておられるのではないかと思います。では神様は私たちの何を待っておられるのか。神様は、私たちが神様の招きに対して応答することを待っておられるのです。
 イザヤ書55章11節は「わたしの口から出るわたしの言葉は、空しくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むところを成し遂げ、わたしが与えた任務を果たす」と言われます。キリストなるイエス様の誕生は正にその宣言が歴史の上に成就された時でありました。イザヤ書55章の1節から6節までを要約して言えば「この世のものは一時の空腹を満たすことは出来るかもしれないが、あなたの全部を本当に生かすことは出来ない。そんなもののためにあなたは一生を費やすのか。わたしに耳を傾けて真実の命を得るようにしなさい」と言っております。
 苦しみが長く続くとき人は迷います。闇があまりに深いとき人はさすらい始めます。そして神への信仰を失い、人と人との信頼が失われ、共に生きる道から離れてしまう。そして己の道、自分だけの思いの中にのめり込んでしまう。6節の言葉はそんな者たちへの呼び掛けです。生命への招きです。己の道、己の思いを捨てることを躊躇っては真実のものを得ることは出来ない。だから捨てなさい、と。11節は神の言葉は必ず実現する、神が与えた使命を必ず果たす、と力強く言うのです。
 今朝はイザヤ書と同時にルカ1章46節以下を読みました。村娘マリアの所に天使が現れ「恵まれた女よ、主があなたと共におられる。あなたは神の子イエスを生む」と告げました。マリアは答えます。「お言葉が、わたしの上に真実に成就しますように」。答えた後でマリアは急に不安になってきた。マリアは急いで従姉エリサベトの許に向かいました。エリサベトもまた神のお告げで洗礼者ヨハネをその胎に宿していたのです。マリアはこの不思議と不安を心から分かり合える者同士で語り合い、祈りたかったのでしょう。エリサベトはすべてを分ってくれ、心から喜んで呉れました。そして言いました。「主が仰たことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」。
 エリサベトの祝福と慰めの言葉を聞いた時、マリアの心は震えました。今、神の恵みを味わっている人が目に見える存在としてそこに居る。共に手を取り合っている。エリサベトの言葉を聞いてマリアの心に歌が生まれ、彼女は賛歌を歌います。
 今朝、私たちは教会に集って来ました。そこで交わす「シャローム」の挨拶には深い思いが秘められています。マリアとエリサベトの挨拶と同じ挨拶を交すのです。
 「あなたは神様の恵みを受けています。私も恵みを受けてここに来ました。あなたの知っている喜びを私も知っています。信じることが出来るあなたは幸せです。私も幸せです。私たちに語られる神の言葉は、神ご自身の手によって必ず成就するものです。おめでとう。」
 私たちの教会にも、多くの悲しみや不安や生活の戦いがあります。あの人にも、この人にも人知れぬ問題があるかも知れない。だがその問題をどうして上げることも出来ない。しかし、一緒に歌うことは出来ます。祈ることは出来ます。心を開き聖霊の導きを受けて歌い祈ることは出来るのです。
 『忘れないで』と言う歌があります。その2番で「だけどいつか激しい嵐が、君の微笑みを吹き消す。だからいつも離さないで、胸の中のみ言葉を」と歌います。生きていればいつかは嵐に遭う。そうすれば微笑みも希望の火も消えてしまう、と言うのです。消えてしまった火を、私たちには燃やすことが出来ない。ではそれっきりなのか。いいえ、もう一度燃え立たせることが出来る。「胸の中のみ言葉を離さなければ良いのだ」と。神様がその言葉を覚えていて約束を果たされる。神の言葉が微笑みの灯を、希望の火を、再び燃え立たせて呉れる。主の言葉は必ず使命を果たして戻るのです。主の言葉は必ず成る。神の真実と誠実はイエス・キリストの出来事の中に成就したのです。そのことを覚え、信頼して、感謝したいと思います。  
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by higacoch | 2016-11-26 18:00 | ルカ

2016年11月13日

「神の完全さと私たちの完全さ」 創世記1:26~31、マタイ5:38~48
                             関 伸子 牧師

 北海道の遠軽というところに北海道家庭学校というのがあります。これは留岡幸助という牧師が建設したものであり、非行少年という烙印を押された少年を収容し、教育し、再び世間に送り出す施設です。この家庭学校のことは、以前にテレビで紹介されていました。第五代の校長は谷昌恒という方で、『ひとむれ』という本を評論社というところから出版されました。谷さんの恩師であるフランス文学者の渡辺一夫教授が、わざわざ訪ねて谷さんにこう言います。「焼け石に水」でもいいんだ。焼け石も水をかけ続けていれば、熱が下がらぬはずはない。この渡辺先生の言葉を聞いた谷さんは、それを自分の原点にしたと書いておられます。
 山上の説教に語られている主イエスの言葉を私たちが読む時、私たちの心のどこかの隅に、「主イエスよ、そんなことをおっしゃっても、それは焼け石に水をかけろと言われるようなものです、世の中はそんなものではありません。あなたは夢を見ておられるのではありませんか、あなたは美しすぎることしか語っておられないのです」とつぶやいているのではないでしょうか。そして、さっさと水をかけることもやめているのです。主イエスの言葉の美しさや激しさに心を打たれ、驚嘆しながらも、どこかで、主が語られるようには生きられないのだと思っているのです。 
 谷先生の文章は、ここに単純に愛に生きる「ひとむれ」があると語っています。北海道家庭学校では、広い校内に平和山という山があり、月に一回全生徒がこれに冬でも雪をかきわけて登っていくそうです。この山頂に近いところに、創設者、留岡幸助の記念碑がある。そこで賛美歌をうたい、礼拝をする。ある時、雪の降る中で、そうした礼拝をした折、号令をかけてまわれ右をさせた。なぜ急にうしろを向けられたのかという、いぶかりの表情が生徒たちの背中にはっきり読み取れた。その背中に向かって、谷校長はこういう話をした。自分の願いは、この留岡先生の精神を背負って、君たちがしっかりと歩いていくことである。
 私たちもまたこの教会から送り出される時、私たちの背中に向かって、主イエスが、敵を愛するのだ、あなたが憎いと思うその人を愛するように生きるのだ、と呼びかけてくださるその言葉を、からだで受けとめるのではないでしょうか。
 「目には目を、歯には歯を」という言葉は、そのまま聞くと、ひどく野蛮なことを言っているように思われます。今日においても、何らかの損害を受け、その責任の所在が明らかになれば、賠償を求めることが裁判所でも当然の権利として認められています。損をさせられるとは、人間として正しく扱われないことを意味します。
 41節に、「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら」とあります。戦争の間に強いられて兵士となり生命を奪われた人は無数にあります。自由を奪われ、自分の人間性が踏みにじられる悲しみです。この悲しみが、思いがけなく私たちに襲うことは、今でも起こるのです。ローマやユダヤの兵隊に、自分の用でもないのに、王の用、国家の用のためだと言って駆り出され、使役された経験を誰もが持っていたでしょう。43節から48節にかけて語られていることは、47節の「兄弟」という言葉は、信仰の仲間を指すもののようですから、その意味では、自分の仲間だけを愛する愛であってよいかという問いかけです。
 多くを語らなくても、主が述べられるところは明らかです。自分が損すると思う時、不愉快だと思う時、そこに一歩踏み込むのです。それが他者を、相手を生かすことなら、そこでもう一歩進む勇気を持つのです。それが愛だと言われるのです。
 特に『ひとむれ』で心を打たれるのは、少年たちが、いかなることについてやぶれを経験するのかということです。それは親への愛なのです。親と子は仲よくするものだ。この総論は皆納得します。しかし、うちの親父は例外だ。あんなに親らしくない親をどうして愛するか。そこで崩れるのです。この崩れていく少年と共に歩く。運命を憎まず、これを受け入れ、大切にしなければならないと、教えるのです。
 この場合の運命というのは具体的です。こんな親を愛せるかと思う親が与えられているということです。家庭学校で礼拝をする。父の日の日曜日の説教の中で、自分の父親に徹底的に排除された少年の話をする。その母親は、他の男と姦通したという父親の疑いに耐えきれなくなって自殺をした。父親は生まれてきた子を、自分の子ではないと言って虐待し続けた。運命を愛するとは不幸を愛することでもあります。不幸を愛した時に、はじめて、人生は一変し、その一日一日が躍動するような経験をするのだと、谷先生は、少年たちに訴えるのです。
 主イエスは、「天の父が完全であられるように、私たちも完全であること」を求めておられます(48節)。それが主の究極の要求です。創世記第1章26節以下によれば、神はご自分のかたちに合わせて、私たち人間をお造りになりました。そしてそのことをとても喜んで私たちを祝福してくださるとともに、地上の支配を委ねられました。神のかたちを持つ人間の支配、それは、愛によるのです。
 主は、「迫害する者のために祈れ」と言われます。愛は祈りに始まる。神に祈る時、そこに、自分をいじめる人の名を入れる、憎いと思う人の名を入れる。この山上の主の教えを思い起こしつつ、その人にも神の恵みの雨が注がれていることを認めるためです。このことがなければ、私たちは絶望するより他ありません。愛する勇気を得ることは不可能です。
 今、家路につきます。心のうちに、なおゆるしていない人を、争っている人を、自分の敵となっている人の名を、その顔を思い起こすことでしょう。その人びとの中に戻っていく。その私たちの背後から、主は言われます。ここに生きなさい、この神の愛、わたしの恵みの中に生きなさい。あなたも敵を愛し得るようになる、と。
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by higacoch | 2016-11-20 03:54 | マタイ

2016年11月6日

「神の民」 詩編 105:1-6、ペトロ 一 2:9-10
                            香月 茂 牧師

 私にとっての今回の入院は、人生で始めての経験であります。今回、病院に出掛けて、最初に、いろんな病気を抱えた人が本当にたくさんいらっしゃるなあと思いました。こうした人たちを見ながら、すぐに思い出したのは、イエス様の所に集まってきた多くの病気の人たちです。イエス様はそうした人たちを深く憐れみ、彼らを癒されました。そこでマタイ福音書だけに限って病気の人の癒しを調べてみました。すると「イエス様はガリラヤ地方の町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒された。」と記してあります。
 さて、今朝の箇所に「かつては神の民でなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」とあります。イエス様の一番弟子であったペトロは多くの失敗もしましたが、イエス様のとりなしの祈りによって立ち直りました。そこでペトロはこの手紙を書いたのです。ペトロ自身の「私はイエス様から憐れみを受けて、今は神の民となっている。」という確信によっているのです。「もしもイエス様から憐れみを受けていなければ、以前のままで神の民ではない、私が何か、神様が喜ぶようなことをして神の民になったのではない。イエス様の憐れみによって、神のものとされた。」このことはあなたがたも同じだ。あなたがたが善い行いをして、神の民になるのでは決してない。神のみ心に沿った何かをしたから、神の民になったと言っていません。「ぜひ、知ってほしい。あなたがたは神から選ばれた民なのだ、あなたがたが神を選んで、神の民となったのではない。あくまでも神があなたがたを憐れんでくださり、神によって神の民とされたのだ」と言いたいのです。
 私は、最初にイエス様が病気の人たちに、どのように応じられたのか、そのことを述べました。イエス様が病気の人を深く憐れんでくださったことを話しました。この「憐れみ」は、ギリシア語ではスプラングゾマイと言います。この言葉の深い意味は、お腹が痛くて我慢できないくらい自分が苦しむという意味があります。ですから、イエス様が憐れまれた、ということは、病気の人たちが苦しんでいると同じように、否、それ以上にイエス様ご自身が苦しみを味わいながら、病気の人を受け入れ、癒されたということなのです。そして、さらに「憐れむ」という言葉には深い意味があります。それは、イエス様が徴税人のマタイを招き、弟子とされた話がマタイ9章にありますが、そこに出てきています。マタイが、イエス様を家に招き、食事をしました。そこには多くの客人が招かれました。徴税人たち、そして罪人たち(病人も罪人と考えられていました)です。その客人たちを見たファリサイ派の人がイエス様の弟子に詰問しました。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人らと一緒に食事をするのか、」と。これは「イエス様は、そいつらの仲間なのか」という意味です。それに答えて「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である」とイエス様は答えられています。医者、それは癒し(救い)を与える人であり、その人を必要とする人は、丈夫な人ではない、病人である。と、これは鋭い皮肉であります。ですが、その奥には深い真理が語られているのです。病んでいる人が、癒し(救い)を求める、その人に救いが与えられるのです。丈夫な人は救いを必要としません。自分で自分を保つことができると確信し、自分で生きることができると信じ込んでいる、だから救いを必要としません。
 医者、それは救い主イエス様です。救い主を必要とするのは罪人です。イエス様が共に食されている罪人(病人を含む)は救い主を必要としているのです。救いによって生かされるのです。そして続けて、イエス様は言われました。「私が求めるのは、憐れみであって、いけにえではない。」と。ここでイエス様は、いけにえを求めないと言われています。いけにえとは人が何かを捧げるもののことです。イエス様は人に何かを欲しいと求めておられるのではありません。善行や徳のある行動や多額の献金を求めておられません。求めておられるのは、憐れみなのです。ここは、人から憐れみを受けることではなく、イエス様の憐れみを求めることです。イエス様の憐れみによって生きることを求めておられるのです。
 最後に、イエス様は「私がこの世に来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためだ」と言われています。ここでイエス様と弟子たち、徴税人、罪人らと会食をされているということは天国の祝宴と理解されています。つまり、神の国に生きる者たちの会食だと。そうすると、これらの人たちを神と共に生きる人、「神の民」と理解できます。イエス様の憐れみ、それを受け入れて生きる人たちは、神の民なのです。まさに、私たちなのです。イエス様の十字架の罪の赦し、それを必要とし、受け入れて生きる私たちこそ、神の民とされています。「今は、神の民であり、かつて憐れみをうけなかったが、今は、憐れみを受けているのです。」私たちも神の民として、イエス様の救いの業を伝えて歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2016-11-12 17:19 | ペトロ