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2016年10月30日

「なぜ神の言葉を殺すのか」  エレミヤ13:15-17、マタイ23:25-36
                           関 伸子 牧師

 今日の福音書には、「不幸だ」という主の言葉が繰り返されています。25節、27節、29節です。原文では、「わざわいである」という言葉で、それが先に出てきます。これを新共同訳は「不幸」と訳しています。
 いったい主イエスはここで、律法学者、ファリサイ派の人びと、その当時、最も模範的な信仰生活をしていた人びとの、何を指摘しながら、「わざわいだ、不幸だ」と言われるのでしょうか。25節でそのことがはっきり語られています。「杯と皿との外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ」。26節では、「杯の内側をきれいにせよ」。杯の内側がけがれているから、こう言われるのです。これはどういう意味か、解釈の上で少し議論があります。皿、杯、その内側に満ちている物とは何か。飲み物、食べ物です。しかし、ここでの飲食物は、人間の貪欲、放縦、自分の勝手放題にしたいという思いから手に入れたものを意味すると、理解する人びとがあります。それこそ、近ごろ問題になったことで言えば、政治家が、役得で手に入れたもので自分の食卓を満たしている、それに似ていると考えることもできます。そのために食器の内側が汚れているというのです。
 私たちの中会も、富士山の近くによい墓地を持っています。私たちは、その納骨室に喜んで行きます。その時に、「墓の中は死人の骨やあらゆる不潔なものでいっぱいである」などという主イエスの言葉を思い出すことはありません。しかし、主イエスは、ここには汚い物ばかりだと言われる。私たちの愛する者の骨が置いてあるのに、その骨が汚いとおっしゃるのかと、私たちは文句を言いたくなります。
 ユダヤの人びとは、墓を町の中に建てないで、町の外、城壁の外に置いて遠ざけたのです。そういう人びとの考え方を、主イエスはここではっきり用いられながら、あなたがたが、そのように恐れている墓に似て、あなたがたの内側には死人の骨、滅びがある。滅びが放つ臭いがいっぱいではないかと言われるのです。
 28節では、それを「偽善と不法」と呼んでおられます。「偽善者・偽善」という言葉を聞けば、すぐに私たちがそこで思い起こすのは、やはりファリサイ派の人たちのことでしょう。しかし、この「偽善」という言葉で、渡辺善太という旧約学の先生の説教集に『偽善者を出すところ』という題のものがあるのを思い出します。その最初にこの題の説教が載っているのです。ファリサイ派の人だけの悪口をおっしゃっているのではない。キリスト教会のことをも考えておられるに違いない。渡辺先生も、やはりまずそういうふうにおっしゃる。「よくクリスチャンは偽善者だと言われる。そういう非難があるが、」と語り初めておられるのです。その通り、教会というのは偽善者を生むところである。教会に、いのちがこもっていると、新しい人が次々とやって来る。それはいい。しかし、それをどうするかというと、偽善者に育てあげる。キリスト者というのは、こういう善いことをする。そう教えられ、そのようにしようとする。この説教の最後は、「なるほどそうであろうし、偽善者の発生は避けられない、しかし避けられないどころか、むしろ歓迎すべきだと私は思う。偽善者が生まれるのも結構、産んだらいいではないか。開き直っているのではない。そうではなくて、人間というのは、どうしても、初めは外側で正しい生活、つまり人びとから正しく見える生活というのを覚えるものである。律法学者、ファリサイ派の人びとへの道を必然的に辿らざるを得ないのです。」渡辺先生が言われるのは、教会というものが、人間の営みである限り偽善を作るより他ないではないか、それを直視しようというのです。しかし、そのようにして、その人が教会において覚えるのは、ただ偽善だけというのではなくて、神の前に立つことを覚える。そして、人間のわざではない、神のわざ--神の見るところ--において、自分がどんなに、卑しむべき偽善者であるかということを、教会においてすら、その偽善者にならざるを得ない人間であるということを、〈神のまなざし〉の中で悟らされる。その時に人間の信仰が生まれる。
 「偽善」の最も深いところに、現れてくるその正体は、「神の言葉を殺す」ということです。37節の続きにこう書いてあります。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことかだが、お前たちは応じようとしなかった」。ヘブライ語で「救われる」ということは、「神のシェキナーの翼の下に入ること」という表現があります。この「シェキナー」という言葉はもともと「天幕」という意味の言葉です。救われるということは、危険が迫った時に、ひなが、その母のめん鳥の翼の下に駆け込んで行くように、その神の懐へ飛び込んで行くことだと信じたのです。
 さきほど「十字架のもとにわれは逃れ」という讃美歌を歌いました。文字通り、十字架の下にこそ平安があり、祝福がありますようにと歌いながら、そこに集まる世界が開ける。そこで偽善は超えられる。その時には、もはや、教会はただ偽善者が生まれるところなどではありません。上へ上へとのぼって行く新しいファリサイ的なキリスト者を生むところでもない。ここは、わたしたちの家と私たちが安んじて言い、そしてここはわたしの家だと、主イエスが、呼んでくださるところが生まれるのです。幼な子の信頼をもって、「あなたのところ以外に、この偽善の罪から解き放たれるところはない」と言えばいいのです。その時、「不幸だ」という主の言葉は、主の血によって、主の死によって「さいわいなるかな」と言う言葉に代わる。だから私たちはそれに応えて、「祝福がありますように」、そう主に対して賛美の声を挙げることができるようになるのです。お祈りをいたします。
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by higacoch | 2016-10-31 19:25 | マタイ

2016年10月23日

「大切な屑」 ヨハネ 6:1-15   
                     荒瀬 牧彦 牧師(めぐみ教会)

 「五千人の食事」の箇所である。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)とヨハネによる福音書で異なる点の一つに、皆が満腹した後に、イエス御自身が、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と命じられたということがある。ヨハネ福音書は、ここに重要なメッセージがあると考えたのだろう。
 なぜイエス様はこれを命じられたのか。ヨハネ福音書の得意とするダブル・ミーニング(二重の意味をこめる)手法がここにあるとすれば、「パン屑」とはなんのことだろう。それを残さず集めるという命令には何が含意されているのだろう。
 想像してみてほしい。腹いっぱいごちそうを食べた後に、皿の上にパンのかけらが残っていたらどうするか。おそらく捨てるだろう。コンビニでは、日々売れ残りのパンや弁当を大量に捨てている。「利益のため」大量の食品を平気で無駄にする社会は、また、平気で人を使い捨てにする社会でもある。そう考えてみると、「パン屑」というのは、我々人間であるというところに行きつく。
 イエス様は「無駄にならないように」と言われた。「無駄にする」というギリシア語の他の箇所での用例をみると、ヨハネ3章16節「神は、その独り子をお与えになるほどに世を愛された。独り子を信じる者が、一人も滅びないで永遠の命を受けるためである」の、「滅びる」や、「ある人が100匹の羊を持っていて、その一匹を見失ったとすれば99匹を野原に残して捜しにいく」という譬えの「見失う」がある。無駄にするなという命令に、一人も滅ぼさないように、一人も見失わないように、という意図を読み取ることができる。
 12の籠いっぱいになったという「12」は、12部族からなるイスラエルを象徴する数。新しいイスラエル、イエス様が招き集められる神の民の暗示がここにある。
 イエス様のまなざしがみつめなければ、五つのパンと二匹の魚は、「なんの役にも立たない」というレッテルをはられて終わりだったろう。イエス様が目を留め、取り上げ、祝福して、分けたから皆を満腹させるものとなった。イエス様のまなざしがみつめなければ、パン屑は、草原に落ちたまま、土にまみれ、風にふかれて飛んでいっただろう。イエス様が「集めよ」と命じたから、12の籠いっぱいになった。
 カンバーランド長老教会という我々の教派を考えても、(こんな言い方をすると先達たちには失礼ではあるが)草原に打ち捨てられたパン屑のような人たちが、追い詰められたところで始めた教会だったではないか。今だって小さい。でも各地に広がり、国境を越えたつながりを持ち、ユニークな働きをしている。この教会もまた、集められたパン屑である。
 自分自身だってそうだ。「なんの役にも立たないでしょう」と言われるような存在かもしれない。でも、イエスのまなざしは違うものを見てくださっている。いや、イエスのまなざしが、価値なきものに、価値をつくりだしてくださる。
 貧しい人の食べる大麦パンがたった五つ。でも、それが大勢の人たちを満腹させる貴重なパンとなった。そこらに捨てられたままのパン屑。でも、丁寧に拾い集めたら12の籠にいっぱいになる。値高きパン屑。イエスのことばは、今も響いている。「少しも無駄にならないように、残ったパン屑を集めなさい」。
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by higacoch | 2016-10-29 16:09 | ヨハネ福音書

2016年10月16日

「あなたは主イエスに愛されている人」 
        ヨシュア 1:5~9、使徒言行録 18:9~17
                           石塚 惠司 牧師

 ブラジルに住んだ13年間、そこで私は素晴らしい主イエスの約束を見せていただきました。その事を今朝お話しします。
 主イエスはパウロに語りました。「この町には、わたしの民が大勢いる」。やがてその約束通り、コリント教会が生まれました。同様に1960年に始まったブラジル東北部の日本人植民地の小さな家庭集会が今、ブラジル人も集う教会になりました。主イエスがパウロに「この町には、わたしの民が大勢いる」と語られた約束をわたしはブラジルの地で見せていただきました。「主イエスは生きて働きこの村、この教会を愛しておられる」。これが13年間ブラジルで生きてきて学んだことです。主はどのようにコリントの町、そしてジョタカの地に住む人々を愛されたのでしょう。

 第一に、主イエスは人を派遣される。コリントの教会に派遣されたのがパウロ。彼はアテネからコリントに移りました。丁度その頃、コリントにやってきたユダヤ人夫婦、テント造りのアキラとプリスキラがいました。パウロは彼らの協力を得て、共に住みコリント伝道を開始しました。同様にジョタカの日本人入植地には日本から唯一のクリスチャン家族の佐々木兄家族五人が送られました。そしてサンパウロから牧師たちにより福音が伝えられ、洗礼が授けられました。そして日本中会の方々に祈られ、日本中会の方々の支援によって私たち夫婦が派遣されました。そしてさらに2016年1月からブラジル人のカルロス牧師夫妻がジョタカの教会に送られました。そしてなんと2017年からジェイコブ宣教師夫妻がアメリカのカンバーランド長老教会から派遣されます。このように主は町の人々を愛するため、そして主の民を呼び出すため、人を派遣されるのです。

 第二に、「神の言葉」によって主イエスは約束を見せてくださる。「パウロは1年6ヶ月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教え」(11節)ました。神の民を見つけ出し、呼び出すためにパウロはコリントの町の人の心に届く言語(町の人が普段使うことば)によってイエス・キリストを伝えました。人は言葉で物事を理解し、そして心で感じ、意思決定します。神はなんでも出来る方です。直接コリントの人に語ることも出来たはずです。驚くべき不思議な業により当時のコリントで信じられていた神々よりも優れていることを示すことも出来たでしょう。しかし神は人を遣わし、その人の口から出る言葉によって神の民を見出す方法を選択されたのでした。注目すべきことは神の言葉が伝えられ「この町にはわたしの民が大勢いる」という主イエスの約束はコリントで見事に実現したことです。今、ジョタカの教会は日本人よりブラジル人、つまり日本語ではなくポルトガル語を使う人が多くなりました。そこで神はポルトガル語で神の言葉が伝えられるように、とポルトガル語を話すカルロス牧師をジョタカの教会に送ってくださいました。今ジョタカの教会の歩みを思うと次の言葉の通りだと思わずにおれません。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」(コヘレトの言葉3章11節)。神は教会の人々をよく見ておられ、そこに住む人々が理解できる言葉で福音が語る牧師を派遣する道をつくってくださいました。

 第三に、主イエスはクリスチャンだけでなく一般市民を用いられる。パウロはユダヤ人の激しい反対に遭いました(12節以下)。パウロを救ったのはアカイア州の地方総督、ガリオンでした。ユダヤ人がパウロを捕らえ、法廷に連れていきました。しかしガリオンは、パウロは法に触れることなどしていない、とはっきり語りユダヤ人のパウロに対する策略を一蹴しました。こうして神はユダヤ人からの迫害からパウロを守るため、裁判を司るローマ人を用いたのです。神はすべての人を愛しておられます。そしてすべての人を用いられるのです。それはブラジル、ジョタカの教会でも同じでした。1995年、1996年の礼拝堂建設の時、多くの人手を必要とする時、ジョタカ入植地の日本人の方々が助けてくださいました。天理教、生長の家、創価学会など異なる宗教の方が礼拝堂建設の際、屋根の木材を持ち上げる重労働の時手助けしてくださいました。神はあらゆる人をお用いになり神の民を探し出す福音宣教の働きを導き、教会を守られるのです。

 主イエスは約束の声が今日もブラジル、ジョタカに響いています。そして主イエスの約束はこの東小金井の町、そしてこの教会にも高らかに響いています。「この町にはわたしの民が大勢いる!」。主の約束はいつの時代でも変わりません。主はあなたを選ばれました。それは主があなたを愛しておられるからです。私たちは主イエスのみ手の中に生きています。
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by higacoch | 2016-10-22 19:48 | 使徒言行録

2016年10月9日

「人生の分水嶺」 創世記1:1~5、ヨハネ11:45~57
                             関 伸子 牧師

 ヨハネによる福音書は全部で21章からなっています。第11章というのはその中央にあります。ちょうどひとつの山を登ることにたとえてみると、道半ばにして頂上に達して、そこから向こう側を目ざして降り始めると言うこともできます。
 福音書の半ばにして、主イエスは殺されるという決定が下されて、そしてこれから後、第12章以下、一挙に主イエスの受難、死の物語が語られていきます。
 ここで頂きに達した、あるいは峠に達したと言いますが、峠は明るく陽がさしている。その明るい光を示すように、主イエスは光のいのちの言葉をもって「ラザロよ、出て来い」と墓に向かって叫ばれました。この主イエスのことばは、先ほど読みました創世記は、初めは闇があり混沌しか支配していなかったけれども、そこにいのちを呼び出す神の言葉が語られた時に、いのちの光が輝いたと語っています。
 頂に立って、向こう側に降りていこうとする。詩編第23編が「死の陰の谷」と呼んでいますけれども、明るい光輝く頂から死の闇が支配している中に主イエスが降りて行こうとされる。従って絶えず問われるのは、いったい主イエスが死なれたということはどういうことなのだろうかということです。
 神学校の先生に勧められて読んだ本があります。英国の神学者であるジェームス・デニーの著書『キリストの死』です。終わりのところで新約聖書でこんなに大切な主題なのだから、われわれの説教においても、神学を学ぶときにも、教会の営みにおいても、キリストの死を抜きにしては何もできないということをしっかりわきまえていこうと呼びかけるのです。
 この第11章最後の部分は第12章の叙述の準備となっています。そこでは、またラザロの家に主イエスが招かれています。この部分の最初、45節に「マリアのところに行って、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人」と書いてあります。マリアについては既に第11章2節で、「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」と特に紹介をしています。ヨハネ福音書がラザロの話をしているときにもマリアの墓の前の嘆きを描いているときにも、いつも心の中に留めていたのは、このマリアはイエスの葬りの備えをした、イエスの死の迎え入れた例外的な人間なのだということです。
 この45節以下の最高法院の決定について、オランダのスキルダーという牧師は興味深いことを言いました。この最高法院の人びとはメシアに対する信仰を貫こうとしていたし、自分たちが信じて待っているメシアを大切にしようとした。まさにそのために、まことの神から来られたまことの救い主イエス・キリストを殺してしまった。メシアの名によってメシアを殺したのだと言うのです。聖書の専門家は、イエスの歩みの中に真実の救いを見ることができなくなってしまっていました。
 50節に、「一人の人間が民の代わりに」とありますが、51節で「国民のために」と訳されている「のために」という言葉もまた、「の代わりに」という言葉と同じ言葉です。ですからここはしばしば「イエスが国民の代わりに死ぬと言ったのである」と訳されています。「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ」。ヨハネ福音書はそれを付け加えました。
 そのヨハネ福音書がここで過越の祭りについて何度も書いていることもまた深い思いを込めてのことであったと思います。過越の祭りが始まろうとしている雑踏の中で神殿に集まって清めの儀式にあずかっている時に、お互いに清められながら尋ねる。墓の前に立って死人を呼び出されたと伝えられるあのイエスという方はどこに行ったのだろうか。イエスを捜したのだと言います。
 「神殿の境内」という言葉があります。過越の祭りが始まり、陰暦ですが、春分の次の満月の時、それをユダヤの暦でニサンの月の14日と言いますが、この14日を迎えると神殿の境内に人びとが集まります。そこで過越の小羊が殺されるからです。これを殺すことができたのは祭司だけでした。神殿になまぐさいにおいが立ちこめて過越の小羊たちが屠られ、そしてその肉をそれぞれの家に持ち帰って食した。これはもともと牧畜民の固有の祭りであったと言われます。そしてヨハネによる福音書は、明らかにこの主イエスを過越の小羊とされた方であると理解しました。ヨハネによる福音書はイエスが十字架につけられた時、このイエスの骨を折ることはなかったと、第19章33節に、ひと言書いています。過越の祭りのために殺された小羊を自分の家に持って帰った者が食事をするときのひとつの定めは、食べるときにその骨を折ってはいけないと聖書のおきてに記されていたのです。過越の祭り、小羊が殺されその血が家の門口に塗られる。小羊が私たちの代わりに死んでくれている。私たちはそのために死の陰の谷を歩いても死ぬことはなく、いのちのもてなしを受けて生きることができる。この過越の祭りにおいて自分たちがすることと、そこで殺されていくものと、殺されている主イエスと重ね合わせて福音書が神のみわざの恵みを見ていたことは明らかであると思います。
 こうしてラザロの甦りの出来事が、ラザロが味わったいのちが、自分たちのものとなります。墓から出てきたラザロを自分の家に迎えることができたマリアが、自分たちをそのようにして生かしてくださる過越の小羊である主イエス足もとにひざまずいて香油を注ぎ、髪の毛でその足を拭った。このマリアのこころについてはまた改めて共に学びたいと思います。私たちの〈いのちに生きる道〉に、キリストの十字架が食い込んでいてくださることを常に覚えて、このキリストの十字架の意味を絶えず問い続け、神に信仰を問われていることを大切にして生きてゆきたいと願います。お祈りをいたします。
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by higacoch | 2016-10-15 18:38 | ヨハネ福音書

2016年10月2日

「憤り、涙する主イエス」 ホセア11:8-11、ヨハネ11:28-44
                            関 伸子 牧師

 ヨハネによる福音書第11章の長い物語のひと区切りを、この朝与えられたみ言葉として聴きました。おそらく姉であったと思われるマルタは家にいない。主イエスに会いに行ったこと、そのことを残されていた妹マリアが知っていたか、それは明らかではありません。いずれにしても、27節までに記されていたように、主イエスと思いがけない深いいのちの対話をすることができた姉のマルタが家に戻ってきます。そして「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。他の者に聞こえないように告げました。
 「お呼びです」と訳されている言葉の、「呼ぶ」という言葉はさまざまな表現がありますが、ここに用いられている言葉は、声を出すという意味の言葉です。
 名を呼ばれるということは私たちの人生においてたくさん体験することです。生まれたときに親に呼ばれ、学校に行って教師や友人たちから名を呼ばれるようになる。月に一度、母に付き添って皮膚科に行きます。病院でも名前をよばれて医師と差し向かいで座ると、母はそれだけで血圧まで上がってしまう。私たちはそのようにして名前を読んでくれる人と相対して言葉を交わして、その人に支えられ、導かれて、生きていく。しかしその中で私たちが何よりも聞かなければならないのは、主イエスに呼ばれているということです。
 主イエスはこの時まだ村に入っておられません。墓は村の中にはおかれなかった。多くの民族が考えたように、死は汚れですから、自分たちの共同体の日常生活の場所の外に置かれました。マリアが急いで村の外へ出て行こうとする。マルタがその先頭に立って導く。既に四日たっています。イエスを見るや否や挨拶も何もしない。主イエスの足もとにひれ伏して主を拝みながら、「主よ、もしここにいてくださいましたなら」と嘆き訴える。33節には「彼女が泣き」とありますから、言葉が続かず涙が溢れたのではないかと思います。涙が溢れると言葉は切れる。一緒に来たユダヤ人たちも泣いた。同情してのことです。これは死を迎えた者の自然であるかもしれません。ただし、福音書はその先に何回読んでも驚くべき言葉を記しています。
 イエスはその人びとの、またマリアの涙をご覧になりながら「心に憤りを覚え、興奮」されました。ここに「心に憤りを覚え」と訳されている言葉の意味は、馬が激しく鼻を鳴らす姿を描くものです。「心に憤りを覚え」というのはこれだけを取り出して読まないで、更に付け加えられている「興奮して」、また35節にある「涙を流され」という言葉が言い表している主のこころを推し量ることによって、更に深められた理解をすることができるのではないでしょうか。
 「イエスは涙を流された」。33節にある、彼女が泣くとかユダヤ人たちも泣くというのとは表現が違います。実際に主イエスの両眼に涙が溢れ頬を伝ったという意味の言葉です。イエスの両眼に涙が溢れた。その涙を見ながら人びとは、「『ご覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った」と記されています。この「愛しておられた」という言葉は既に11節で、主イエスがラザロのことを「わたしたちの友」と呼んでくださいましたけれども、この「友」と訳されている言葉と同じ言葉です。つまり友愛、友情を示す言葉です。私たちは死ぬ時、主が自分の友として自分のために涙を流していてくださると信じて死ぬことができる。しかもその愛が激しい憤りと共にあるのです。憤りは33節にも38節にも繰り返されたように、絶えず主イエスの心深くにあったのです。
 ところでもうひとつ、「興奮して」という言葉が、33節に、「憤りを覚え」という言葉に続いて記されていました。「心を動かす」という言葉です。おそらくヨハネ福音書が特に心を用いて、大切なところで書き記している言葉のひとつです。
 今朝、ホセア書第11章の言葉を併せて聴きました。信仰の民に対して、どうしてお前を見捨てることができようか、どうしてお前を引き渡すことができようか、滅びに渡すことができようかと神が語られたとき、ここでも、「わたしは激しく心を動かされ、哀れみに胸を焼かれる」という神の言葉がホセアによって語られました。「哀れみに胸を焼かれる」。これは神の言葉です。そしてまさに、ここに主イエス・キリストにおける愛の戦いが既に予告されていたと言えると思います。
 このラザロの物語を読むときに、ドストエフスキーの『罪と罰』はこのラザロの物語についての最もすぐれた注解書であるということを、多くの人びとが指摘しています。その中核にあるのは、金貸しの老婆とその妹を、老婆は意図して、娘の方は意図せずして殺してしまったラスコーリニコフという男が、どのように自分の罪に目覚め、悔い改めに導かれるかという物語ですが、その要のところにあったのは、体を売ってまで家族を養わなければならなくなっていたソーニャが、愛を込めてラザロの甦りの物語を読むところです。歪んだ燭台の上の燃えさしの蝋燭はもうかなり前から燃え尽きようとしていた。このみすぼらしい部屋で不思議と永遠の書物を読むために集うことになった人殺しの男と淫らな女とをぼんやり照らしだしていた。
 人を殺すとか、あるいは体を売るということは、初代のキリストの教会においても、教会に入ることを許されないとされた恐ろしい罪です。人びとからはじき出されるような恐ろしい罪を犯した男と女が、しかしここでは永遠のいのちを語っている聖書を読むためだけに集まっていた。まるで教会がそこにあるようです。そしてそのふたりが闇の中にいるのではなくて、主の甦りの光が射しているのでしょう。そして甦りと深く結びつくのは主のいのちを賭けた罪の赦しです。私たちの不信仰がそこで赦される。そして私たちの愛の無さがそこで赦されるのです。主の招きの声がよく聞こえますように。お祈りいたします。
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by higacoch | 2016-10-08 11:08 | ヨハネ福音書