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2016年9月25日

「与えられた恵みに目を向けて」 詩編31:22-25、ヘブライ11:20-26
                            香月 茂

 今年も皆様と共に、召天者記念礼拝を捧げることができたことを大変嬉しく思っています。私は今年で定年を迎え、今年の12月末日をもって、この教会を退きます。来年からは、関先生が牧師としてご奉仕してくださいます。ですので、今回で皆様と共に礼拝を捧げるのは最後となりました。
 私はこれまでの人生で、今年ほど自分の死を考えさせられる年はありませんでした。定年を迎えたからではありません。そうではなく、いつものように一般健康診断を受け、その結果胃に大きな影が見つかり、その後、別の病院での精密検査によって、悪性腫瘍と解りました。そのことで自分もいずれ死ぬのだと考えさせられました。死ぬということは解っていたのですが、死が近くにあると自覚させられた思いです。私は神様を信じています。ですから、手術後、どうなるか、死ぬのか、まだ生かされるのか、そのことだけに心が囚われてはいません。それよりは上を見て、神様を信じて、これらを受け止め、自分の身がどのようになろうとも、神様に目を向けて、神様に喜んで頂けることを求めて生きていきたいと思っています。ただ弱く欲の深い私ですから、神様を悲しませてしまうことが多くあると思いますが、でも神様を見上げて歩んでいきたいと願っています。
 さて、今朝、与えられました箇所にイサク、ヤコブ、エサウ、モーセの名前が記されていますが、これらの人たちはみな亡くなった人たちで、旧約聖書の創世記、出エジプト記という文書に記されています。しかし、ここには簡単に彼らの名前が書かれているだけですが、今朝の箇所を簡単にまとめて説明しますと、アブラハムの子どもたち、孫などは、アブラハムが、神様を信じて生きていったように、その子らも孫たちも神様を信じて生きていったと言いたいのです。
 さて、皆さんにとって、信仰というのは、どのようなものなのでしょうか。信仰というのは、信じることです。信じることとは、解ることとか、理解できるというとは違います。自分にとって分かり切れない部分があっても、自分の身をゆだねて生きるという面があります。こうした解り切れていないものがあっても、信じるという生き方は、他方危険な面があります。それは一種の賭けのようなところがあるからです。日本では「いわしの頭も信心から」と信じる人を揶揄する言葉があります。また実際、何かを、誰かを、信じ込むことは、危険ですし、騙されてしまうことがあったりします。信じ込んで、気づいたら、自分の全財産が、ほとんど吸い取られたとか、人生が狂わされたということにもなりかねません。だから、私は牧師で矛盾するようですが、「宗教には気をつけなさい。」と言ったりします。
 最後にまとめて語りたいのですが、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれています。どうしてかと言いますと、聖書には、神様を信じて踏み出した最初の人物だと言われているからです。ある日アブラハムの前に、神様が現れて「私が示す地に向かって出発しなさい。」と命じられます。彼はその時75歳、新しい人生に踏み出すには、もう年を取りすぎています。今でいうなら後期高齢者です。体も頭も衰えるばかりです。そのような年でしたから、彼は悩んだと思います。「まだ若い時ならいいが、今はもう老いの坂道をくだる年なのだからと。もう無理」と結論づけて、神様の呼びかけに、答えなかったのではありません。悩んだ挙句、神様に賭けたのです。神様を信じて歩み始めたのです。その後、アブラハムはずっと模範生の歩みをしたのではありません。嘘をついたり、人を騙したりしますが、最終的には、神様に立ち返ることを繰り返しながら、神様を信じて生きていき、死にました。その子孫たちは立派な善い行いをして生きていったかと言いますと、そうではありません。むしろ、悪賢く、欲張りな面を持ちながら生きていきますが、やはり、神様を捨てはしていません。罪深いのですが、神様に悔い改めて生きていったのです。こうした彼らを、総じて「信仰によって」という言葉で、今朝の聖書個所は言い表していっています。短い箇所にもかかわらず、5回も「信仰によって」とありますし、聖書を広げていらっしゃる方は、その前後の箇所にも、この言葉をもっと見つけることができるでしょう。彼らは、善い人間ではなかったけれども、信仰をもって生きていったと言っているのです。
 では、どうして、善い人間ではなかったのに、信仰をもって生きたのでしょうか。それは逆です。善い人間ではなかったからこそ、そんな罪人を憐れんで、愛して下さった救い主イエス様を信じたのです。私たちを憐れんで、私たちが救われるようにと、身代わりとして死んでくださったイエス様の救いに、身をゆだねて、イエス様を見上げて、生きていったのです。こうした彼らが、イエス様を信じていったように、だから、皆さんも信仰によって生きていって欲しいと願っているのです。皆様の上にも、イエス様の豊かな恵みが注がれていることを信じています。それゆえに、イエス様から与えられた恵みに目を向け、さらに天に上げられた時の恵みを見上げて、人生を歩んでいって頂きたいと願います。
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by higacoch | 2016-09-30 16:24 | ヘブライ

2016年9月18日

「神のわざがなされている」 詩編82:1~8、ヨハネ福音書10:31~42
                            関 伸子 牧師
 
 今朝私たちに与えられた言葉として読みましたヨハネ福音書第10章31節によれば、「ユダヤ人たちはイエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」のです。ここでイエスは殺されるような状態になってしまったのです。イエスが、「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」と語ったからです。
 主イエスは、今にも石を投げようとする人々に対して、「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか」と聞かれます。そこで先ず、ユダヤ人たちは「善い業のことで、石で打ち殺すのではない」と答えます。ユダヤ人たちは、よい業と認める。
 34節以下には、主イエスの反論が記されています。主イエスはここで、旧約聖書、詩編82編の言葉を用いて語っています。詩編82編は、あなたがたは人として死ぬ。君候のごとく、支配者のごとく死ぬ、滅びると言います。わたしたちは、実際、しばしば自分を支配者とします。イエスに神々と呼んでいただく前に、自分を神々としているということはないでしょうか。しかも、わたしたちは人の罪は赦せないのです。罪を赦せないのが自明のこと、むしろ人間らしいことだと思っているところがないでしょうか。わたしたちは人から批判されるのが嫌です。ほんの小さなことでも悪口を言われると、それだけで夜も眠れない思いをすることがあります。しかし、わたしたち自身はどんなに多くの人の罪を赦していないことでしょう。人の欠点を見つけること、悪口を言うこと、日常茶飯事です。イエスはその意味で、わたしたち人間に諦めを抱いておられるならば、地上に来てくださらなかったはずです。
 パブロ・カザルスというスペインのチェリストは、ジュネーヴで自分のオラトリオが演奏されたとき、メッセージを書きました。それが『喜びと悲しみ』という自叙伝に残っています。「祖国愛がなぜ祖国を超えてはいけないのか」。短い言葉ですが、カザルスは、ほかのところでも同じ問いを出しています。この人はカタロニアの民族の誇りに生きた人です。しかし自分がカタロニアを愛する思いは、カタロニアを攻め滅ぼした人々に対する憎しみになってはならないと思い続けた人です。原子力の兵器を捨てようと、そこで訴えかけています。1990年のクリスマスにはベルリンの壁が壊れたと言って、わたしたちは喜びました。世界に平和が来ると思ったのです。しかし、今もなお民族と民族が血で血を洗い合うような争いを重ねています。裁き続けています。
 イエスが行う父の業とはイエスの十字架と復活です。イエスが、地上で行った様々な業の全ては、「父が与えて下さった業」でした。しかし、その業の集大成とも言われるべきものは、十字架と復活なのです。そこにこそ、最もはっきりとイエスが神の子であると示されているのです。神の子イエスが十字架で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びつつ息を引き取ったのを見ていた百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と語りました。人間の罪のために、父なる神に捨てられ切り離される苦しみのなかで息絶えたイエスを前にして、ローマの百人隊長は、このイエスこそが神の子だったと告白するのです。
 それでもユダヤ人たちはイエスを捕らえようとしました。この10章の終わりにおいて、ヨハネによる福音書の一つの区切りがあると見ることが出来ます。11章からは、新たにイエスの十字架と復活に向けた歩みが本格的に始まって行くのです。
 そこに入る前に、イエスの歩みの原点であり、ヨハネによる福音書の初めに記されていた、イエスの洗礼の場面に立ち返っています。ヨハネによる福音書は、洗礼者ヨハネの活動から書き記されています。ヨハネは、イエスがやって来た時、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」と語りました。そして、イエスに対して洗礼を授け、「この方こそ神の子である」と力強く証をしたのです。
 イエス・キリストの業というのは、イエス・キリストの生涯全体で示された業、特に十字架にかけられ復活するということによって、この方が神の子であると知らされるのです。それは愛の結実でした。神の愛がそこに集約されているのです。
 パブロ・カザルスは自分の国を追われてしばらくプエルトルリコに住みました。そこで住んだ小さな家に、「エル・ペセーブレ」と名づけました。「飼い葉桶」という意味です。カザルスは家の表札に、この家は「飼い葉桶」と名づけたのです。イエスが、いつもいてくださるということです。幼な子イエスの愛がここに居続ける。わたしたちの罪の悔い改めの涙を受けてくださるのです。
 わたしたちは、教会に集まっている人間だけが本当の恵みを知っていて、教会の外にいる人は恵みが分からないなどと言ってはならないと思います。わたしたちこそ、神の愛について、時に、本当に身勝手な考え方しかしないのです。そして自分の罪は罪のまま放っておくのです。わがままの限りを尽くす。今そのことに気づくべき時です。
 そして、招かれている礼拝に、イエスの恵みをしっかり受け止める心をもってあずかります。それがわたしたちの祝福です。十字架と復活のイエス・キリストの恵みに捉えてくださる神のわざが日々なされています。わたしたちはそのことを信じ、解き放たれた自由な思いが与えられることを願います。お祈りをいたします。
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by higacoch | 2016-09-24 18:11 | ヨハネ福音書

2016年9月11日

「キリストの声を聞き分けよう」 イザヤ50:4-11、ヨハネ10:22-30
                            関 伸子 牧師

 私たちの信仰とさまざまな意味で関わりの深いユダヤの人びと、ユダヤ人はクリスマスとほぼ同じ時期に、「光の祭り」と呼ばれる祭りをします。ヘブライ語で「ハヌカ」と呼んでいます。ヨハネによる福音書第10章22節に神殿奉献記念祭という祭りの名前が出ています。奉献と訳されている言葉をヘブライ語で言うと、これがハヌカ。口語訳聖書では「宮きよめの祭り」となっていました。宮きよめというのはせっかくの神殿がけがされてしまったのでそれを聖め直すという意味がありました。そして実際にその名に価する大きな出来事が起こっています。
 光をともす、というのはキリスト教会がクリスマスになると蝋燭を次から次へともしていったことに影響を受けたのではないか、と書いている人もありますけれども、ハヌカの祭りのほうが歴史的には古いようで、それを見ながら教会の人びとが自分たちもクリスマスが近づいていくと四本のろうそくを一週間毎にともしていくようになったのではないかとも思われます。
 主イエスがこの神殿奉献の記念の祭りの日に神殿におられた頃、既にそのような光をともす習慣があったかどうかは定かではありません。ただ冬、雨期、暗い時、ユダヤの人がこころまでも暗くしていたことは明らかです。
 「いつまで、わたしたちに気をもませるのか」と記されています。「気をもませる」というのは原文のギリシア語では、「上に物をあげる」という言葉です。人が誰かに宙に持ち上げられてしまう。たとえば小さな子どもです。大胆な子は声を上げて喜ぶだけかもしれません。けれども少し気の弱い子は、いきなり地面から掬い上げられて空中に持ち上げられると不安に脅えます。それと似た思いでしょう。
 「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」。イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」。
 イエスの声が聞こえながら聞き分けることができない。メシアがそこで語っているのに、そこに救いが見えない。こんなガリラヤ出身の田舎者、無力な男に、あの宮きよめをもう一度することができるだろうか。真実のキリスト、メシアの声を聞き分けることができないままです。そのくせ「わたしと父は一つである」と言われた主イエスの言葉に躓きました。だから31節に、「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」と書くようなことになったのです。
 先ほどイザヤ書の第50章を読みました。この第50章は悲痛な預言者の言葉で、「主の僕」について語ります。この預言の言葉を書いた人は、ユダヤの悲劇の歴史の中で、自分たちを救ってくださる方について世の人びととは全く違うイメージを描きました。主が遣わす僕。人に仕える王です。そのような王こそ、真実の救いをもたらすと告げています。お前たちのうちの誰が聞くか、この僕にこそ神の声が響きわたっていることを。闇の中に歩くときにも、この主の僕に生きるならば光のないときにも光に生きることができるはずである。聞くべきは僕として私たちのところへ来てくださった方の声だというのです。
 ヨハネ福音書第10章28節には、「わたしは彼らに永遠の命を与える」という主の言葉が記されています。皆さん一人ひとりがこの〈永遠のいのち〉を今既に与えられているのです。29節に、「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり」というみ言葉が語られています。
 わたしの父がわたしにくださったもの、それは、誰もわたしの手から奪うことができないもののこと。私たちのことです。洗礼を受けた方たちは皆キリストにとってかけがえのない者になる。洗礼を受ける人びとが与えられると天に喜びがあると私たちは信じます。かけがえのない者、いかなるものにもまさる者がまたひとり、またふたり、わたしに与えられたのだ、と主イエス・キリストが喜んでくださるということです。だからわたしの手からこの者を奪うことは、父なる神の手から奪うことだと言われるのです。「わたしと父とは一つである」という言葉は、その意味において抽象的なことを言っているのではないことがとてもよくわかります。私たちは、その神のものとして生き、その神のものとして死ぬのです。それがここにおける、主イエス・キリストの約束です。
 「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」。私たちに求められているのは、その主イエス・キリストに従うことだけです。主イエス・キリストは私たちに、あなたがたは世の光だと、おっしゃってくださいました。エフェソの信徒の手紙の言葉は、私たちこそ光の子であると言いました。私たちキリスト者はキリストのものになった時に、信仰を持たない者と武器を持って戦う道を覚えるのではないのです。洗礼をお受けになった方たちが、その自分の家族の中にあってこの〈主イエスのもの〉としての光を輝かすようになったとき、主イエスがなさったのと同じように自分は人に仕える。神に仕え、人に仕えることによってこの光に生きるという道を選びます。
 洗礼を受けた方が家に帰ると光がそこにともります。光が増えるのです。だから誰かが洗礼を受けるということは、その家族にとって祝福です。
 イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」によるテロに脅かされる今日この頃です。心を変えてほしいと思います。主イエス・キリストはすべての者の主となってくださった。この主のものとなる私たちに真実の平和の光がともるように、繰り返して願わずにおれません。みなさまにその平和と愛の祝福が豊かにあり、その喜びの中で望みをもってこの週を歩みたいと思います。お祈りいたします。
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by higacoch | 2016-09-17 16:14 | ヨハネ福音書

2016年9月4日

「赦すことが求められている」 詩編15:1-5、マタイ18:21-35
                            香月 茂 牧師

 今朝与えられた箇所は、まさにイエス様がたとえ話をして、赦すことを教えられた所です。最初に、弟子のペトロが「人の罪を何度、赦さなければなりませんか」と聞いています。しかもペトロは「7回までですか」と具体的に聞いています。
 ペトロの問いにイエス様は「7の70倍までも赦しなさい。」と教えられました。490回という数が大切なのではありません。7の70倍までというのは、どこまでも赦しなさいという意味なのです。もうこれ位赦したなら、もう赦さなくてもいい、と言われたのではありません。ひたすら赦しなさい、でした。
 そこで、イエス様は、一つの天国のたとえを語られて赦すことを教えられました。ここには、王様と家来の話が前半にあります。家来は王様に莫大な借金をしています。この借金を戻すようにと王様が家来に求めました。すると、家来は、どうにかして全額返済をしますからと必死に願いました。それを聞いた王様は、彼を憐れんで、借金を帳消しにしてくれたのです。しかしその後、王宮から外に出て行った家来は、ほんの少しの金を貸した友人に出会いました。その彼も借金を返してくれていませんでした。そこで家来は、借りた金を返すまで、友人を牢に入れてしまいます。このことが王様の耳に入り、王様は、家来を呼び寄せて、言いました。「不届きな家来だ、お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。そして王様は怒って、借金をすっかり返済するまで、家来を牢役人に引き渡しました。
 そのことを語った後、イエス様はペトロや他の弟子たちに「あなた方の一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになされるであろう」と語られ、そして最後に、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」と語られました。この天国のたとえでは、自分の罪が赦されたなら、自分も人の罪を赦すことが求められています。これらのイエス様の言葉を受け止めず、もし人の罪を赦さないなら、あなたがたの父も赦されることはないと警告しておられるのです。
 ここで語られた天国のたとえでの王様は、また家来は、誰を表しているでしょうか。王様は神様、家来は私たちです。ここでのたとえの解釈で注意しなければならないことがあります。王様は、家来に貸した財産を決済しようとしたのです。家来は「どうか、待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願った、この必死な願いがあって、返す意思を言い表したから、王様が帳消しにしたと理解するなら、それは正しい理解ではありません。家来が願ったから、それに応えて王様が帳消しにしたのではありません。ある条件があり、それを私たちが満たしたなら赦してもらえるのではありません。これは全くの誤解です。
 今朝のたとえで、皆さんは、どう思われるでしょうか、王様の財産をごまかして使ってしまった家来が、借りた財産を全部お返ししますと言っていますが、莫大な借金を残りの人生で返せるはずがありません。これは、王様もすぐにわかりました。王様は、必死な思い、全部を返すという決意、到底返せるものではないが、その決意を受け止め、帳消しにされたのでありません。注意して読みますと、24節までは「王様と家来」と記されてあるのに対して、25節以降は「主君と家来」と記されています。王様ではなく、主君、主なる方なのです。そして27節を注意してみて頂きたい。その家来の主君は「憐れに思って」彼を赦し、その借金を帳消しにしてやったとあります。この主君の憐れみがあるのです。この憐れみが先にあり、そしてその憐れみの出来事が、借金の帳消しとなったのです。これは主君と家来の出来事としてたとえでは語られていますが、この出来事は、イエス様と私たちとの関係を示していることであり、イエス様が十字架の上で私たちの罪(借金)の赦しのために死んでくださったことなのです。
 イエス様によって、私たちの罪がゆるされましたから、私たちも隣人の罪を赦すように求められているのです。赦すべき回数があるのではなく、あくまで赦していくということが求められていることをしっかりと受け止めたいのです。赦された私たちがどう生きるのでしょうか。イエス様が私たちを赦されたように、私たちも隣人の罪を赦していくことが求められているのです。私たちも赦すことを祈り求めて生きていきましょう。
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by higacoch | 2016-09-10 16:37 | マタイ