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2016年8月28日

「 一つになるために」 詩編 147:1~11、コリント 一 1:10~17
                            香月 茂 牧師

 教会が分裂するのは不幸であります。日本の教会の歴史を見てみると、教会の分裂は、いくつかの教会で見られます。世界のキリスト教の歴史においても、分裂はありました。これは、人間の集団の宿命みたいなものかもしれません。罪深い人間の集まりですから、教会だけではなく、政治的な集団においても、文化的な団体でも、また私たちの生活の身近なサークル活動団体でも、分裂があります。皆さん方の中には、その分裂の渦中で不幸を味わった人がいるかもしれません。
 さて、今朝与えられた聖書箇所にありますように、コリントの教会にも分裂の危機がありした。このまま進めば、分裂となっていくという状態でした。その教会では4つのグループがあり、それぞれが対立し、言い争っていました。それぞれに「私は、パウロにつく」とか「アポロにつく」とか「ケファ(ペトロのこと)につく」とか「キリストにつく」とか言って一つになれなかったのです。教会の中での争いは、まさに教会内の権力争いであり、誰が一番なのかという争いで、互いに悪口を言い始めたりします。そうしたことがもう始まっていたのでしょう。
 コリントの教会では、キリストの福音を聞いた人たちが勝手にキリストのある面だけを強調したり、アポロからキリストについて聞いた者たちが曲解していたり、ペトロが語りかけたキリストを誤解していたりして、それぞれが真実のキリスト理解に至っていなかったのでしょう。だから、パウロは強調して言っています。「キリストは、いくつにも分けられてしまったのですか。」と。キリストがしっかりと受け止められていなかったのです。キリストの部分、部分が主張されていたのでしょう。だから、パウロは「勝手なことを言わず、キリストにあって、仲たがいをせずに、心を一つにして、思いを一つにして、固く結びあいなさい。」と諭しています。キリストをバラバラにして、それぞれのキリストの一部分をとりあげて、自分たちが正当だと言ってはならないということであり、キリストによって心を一つに、思いを一つにして欲しいと願っているのです。
 それに続けて、パウロは、キリストの十字架がむなしいものにならないために、「言葉の知恵によらないで、私は、福音のみを告げ知らせた」と強調しています。教会での第一にするべきなのは、イエス・キリストであるということなのです。決して、パウロでもアポロでもなく、ペトロでもないのだというのです。
 パウロは続けます。「洗礼を授け、私の信奉者を得るために、コリントにやって来たのではない。そうではなく、キリストの福音を告げ知らせるため、キリストを信じて生きる人が起こされるために来た。人間の知恵によって立派な話をしに来たのではない。ただただ、キリストの福音を語るために来た。しかもキリストの十字架のことを知ってもらいたいために来た。キリストは、あなた方のために、死んでくれたのだ。このことだけを語るためなのだ」。
 人は、一つになることはできず、むしろ分裂してしまいます。私は、説教の初めの方で、分裂は人間の宿命だと話しました。どうしても一つになって歩んでいけず、むしろ分かれてしまう道へ進んでしまいます。そのような分裂の危機に直面した時に、その危機を脱して一つになっていくのは、人の知恵や力では不可能なのです。どうしても、神の力、神の助けを頂かなければなりません。そのためには、祈る以外にはないのです。これはいつでも、キリストにあって一つになっていくことなのです。キリストを見上げて歩んでいかなければならないのです。
 こうしたキリストによって一つとなる思いは、私たちのKC-NETが大事にしていることなのです。小金井市内に11の教会があり、その中には8つの教派があります。それらが互いにいがみ合うのではなく、一つになるために、キリストにあって一つになることを目指しています。教会員が、また諸教派のいくつかの教会が一つになるためには、キリストを見上げ、祈りを共にして歩んでいかなければならないのです。このことを決しておろそかにしてはならないのです。一つとなるために、キリストを見上げて、歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2016-08-31 11:37 | コリント

2016年8月21日

「 喜びに満たされて 」  マルコ1章29節~34節      
                           平 尚紀 伝道師

 マルコ福音書を読むと、シモンという男は、主イエスに出会うと、すぐに従ったと書かれています。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われて、シモンはすぐに網を捨てて従ったと、マルコ福音書は語るのです。ここで、私たちは、ある疑問が起こってくる。シモンという人は、なぜ、出会ってすぐにイエスという男について行ったのか。網を捨てて従ったとは、漁師という職業を捨てたということです。職業の上に成り立つ生活さえも捨てて従ったということになるのですが、突然出会った、身も知らずの人に、なぜ、すぐに従うことができたのでしょうか。
 ここで、大切なことは、福音書は、そうしたシモンの側の動機については一切触れていないということです。聖書が伝えていることは、主イエスが招かれた、声をかけられたから、シモンは従ったのです。シモンの動機には一切触れていないのです。シモンは、主イエスに声をかけられたことで、主イエスに従う弟子となった。主イエスが、シモンをじっと見つめ、声を掛けられた、だから、シモンは主イエスに従うことができたのです。弟子となったシモンにも、動機と言えることは、きっとあったでしょう。しかし、それ以上に、主イエスが、シモンをじっと見て、知ってくださり、声を掛けてくださった。だから、シモンはすぐに網を捨てて従うことができた訳です。
 ところが、シモンには姑がいた。結婚をしていた。家族があった。養うべき家庭があったのです。そう思うと、少し、事情が変わって聞こえてきます。養うべき家族がありながらも、網を捨てて、仕事も生活も、家族も見捨てて行ったというのは、少し身勝手ではないかと思うのです。生活を顧みず、主イエスに従ったのは、いささか身勝手すぎると考えてしまいます。だからこそ、主イエスは、会堂を出るとまっすぐに、シモンの家に向かわれたのです。主イエスは手当たり次第に声を掛け、自分の主張に付いてくる者を捜すお方ではなく、湖で網を打つシモンの心の内、生活、家族、そうしたすべてに責任を持ってくださる。その上で、「わたしについて来なさい」と声を掛けてくださるお方なのです。
 しかし、シモンの家では、姑が熱を出して寝ていました。人々は早速、そのことを来訪者である主イエスに話したのです。突然の来訪者に、歓迎したいのだけれど、今はそれどころではない。こちらの都合がある。こちらの生活があるとでも言わんばかりです。面白いのは「話した」と言うところです。主イエスに癒しを求めたのではなく、家族の者が病であることを伝えたと言うのです。弟子となったシモンや兄弟のアンデレも、また、その場にいた人々も、まだ主イエスのことを知っていない。今日の聖書の最後の言葉「悪霊はイエスを知っていた。」という対比するようなマルコの言葉がとても印象的です。家族の人々は、いや、弟子となったシモンでさえ、イエスのことをまだ良く知らない。理解していないということなのです。
 主イエスがこの家に入っていく。姑の手を取り起こされる。すると姑の熱は去り主イエスをもてなした。主イエスとその一行をもてなし始めたのです。主イエスが手を取って起こされた時から、シモンの姑は主イエスに仕えた。それだけでなく、この時からずっと、この家族は、繰り返し主イエスとその一行を家に迎え入れ、もてなし続けた、仕え続けたということなのです。シモンが主イエスに従って行くだけでなく、この姑も、この家族も、喜びに満たされて主イエスに仕える者になったのです。
 すると、どうでしょうか。人々はイエスのもとに大勢の病人を連れて来たのです。 町中の人が、喜び溢れるシモンの家の戸口に集まって来たのです。主イエスによって、シモンの家から町中へと喜びは広がっていったのです。シモンが、主イエスに従うという決意の結果、その家族が主イエスと出会い、喜びに満たされて主イエスに仕える者と変えられる。それだけでなく、更にそこから喜びがあふれ出て、町中の人が驚きと喜びに包まれたのです。シモンの身勝手とも思える行動でしたが、主イエスが招かれると、シモンだけでなく、その家にも喜びに満たされていく。それだけでなく、その近隣にも喜びがあふれ出て行く。これが主イエスの喜びの福音です。
 私の家族は教会には・・・。と言う人もおられるかも知れません。本当にそうでしょうか。
 シモンが主イエスに従うという決心を通して、この家族が喜びに満たされたように、あなたを通して、あなたの家族に喜びの福音が届けられるようにと、神があなたをその家においておられるのではないでしょうか。
 また、あなたが安心して、教会で、神に仕える働きができるようにと、神が、あなたの家族をあなたのそばに置いておられるのではないでしょうか。
 主イエスは、弟子のシモンのように、私たち一人ひとりを招いてくださる。
 これが主イエス・キリストの福音です。喜びの知らせです。
私たちは、喜びで満たされる必要があります。そしてそれは、私だけの喜びでなく、また家族だけの喜びでもなく、町中に、世界中にあふれ広がる喜びなのです。
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by higacoch | 2016-08-27 16:55 | マルコ

2016年8月21日

「解放」  イザヤ書 25:4-10、ヨハネ福音書 8:1-11
                             関 伸子 牧師

 今日のヨハネ福音書は、「姦通の女の物語」とよく言われていた記事です。この記事の第7章53節以下は括弧に入れられています。私たちが今読んでいる聖書の言葉は多くの写本によって伝えられています。その多くの写本の中で古い日付のものの方が本来の福音書の姿をより忠実に伝えていることは明らかですが、古い日付の写本であればあるほどこの部分を載せていません。古いものには見つからなく、新しい時代のもの、せいぜい紀元四世紀ごろのものから載せています。
 なぜこういう物語が初めは記録されなかったのか。既に最初の教会においてこの出来事に対する戸惑いがあったのではないかというのです。これもいろいろな推測ができます。ひとつは第7章に仮庵祭という祭りの物語が延々と語られていたことです。仮庵祭に主イエスがわざわざエルサレムまで行かれて、たとえば 37節に、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と大声で招きの言葉を語られました。しかし、この主イエスの言葉を聞いてこれを受け入れる人はいず、むしろ主イエスに対する裁きの言葉がどんどん大きくなっていった。あの男はガリラヤ出身であって、われわれはユダヤに生きているという差別感が増幅されていたようです。そしてイエスを裁き、殺そうという思いが高まっていました。そこで、この女の事件もまたイエスを裁く手だてとして用いようとしたのです。
 3節に、「律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ」とあります。立たせたときに周りに民衆がいる。こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています。申命記第22章 22節以下に、このような場合の規定がきちんと書いてあります。この申命記は姦通の罪を犯した者は男も女も処罰されるべきだ、と言っていますが、ヨハネ福音書では男は出てきません。男はずるく逃げてしまったのかもしれません。あるいは、同じ申命記第22章25節以下を読みますと、当時の世界では特に男性優位であったため、男が力ずくで女を犯すということがしばしば起こったに違いありません。ですから女が力ずくで犯された場合には女を咎めてはならないということまで語っています。ヨハネ福音書の場合、女もまた同罪であるということであったかもしれません。そういうことをモーセが律法の中で命じているではないか。あなたは何と言うか、というのです。この問いに対して主イエスは、6節の後半に「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」とあります。8節にも「そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた」とあります。
 「これこそ神のみ顔の背けの核心である」と、この箇所のある注解書に書いてありました。この独特の言い回しを強く心に刻みました。神は返事をなさらなかった。主イエスは返事をなさらなかった。しかし、女を裁こうとした人びとは、今ここでは、それをきっかけにして主イエスを試し、そのようにして主イエスを裁いているとも言えます。イエスはかがみこんだまま地面にものを書いておられました。いったい何を書いておられたのかということが昔から問われてきました。
 ヨハネによる福音書第8章の最後の言葉、59節には、「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠された」とあります。また石を持った。主イエスを殺そうとしたのです。言い換えれば、こういう神を殺してしまえば、後は安泰だと考えるようになったのです。
 ずっと後の時代にロシアの作家ドストエフスキーが登場して、『カラマーゾフの兄弟』という小説を書きました。その中に「大審問官」と題するドラマを描き、後の教会の代表者をそこに登場させて、後のキリスト教会がいちばん迷惑なこととしたのは、主イエスが再び来られることであるということをはっきり書きました。後の教会の歴史のすべてが、というのではないでしょう。しかし教会が罪を犯すたびにそこに見えてくる罪は、イエスを抹殺するということであったと言うのです。ここでもドストエフスキーは自らの罪をそこに思い起こしていたに違いないと思います。
 人びとは立ち去った。不思議なことに「真ん中にいた女が残った」。審かれるべき者としていた女がそのままそこに留まっていた。ある人がこのところについてこういう言葉を語っています。女にとって主イエスがいてくださったということはどんなにさいわいなことであったか。主イエスこそ真実に審くことができる方であった。その〈審く方〉がそこにいてくださらなかったならば、女にとって救いの道は完全に閉ざされたままであったはずです。なぜかと言うならば、〈真実に審く〉ことができる方こそ、〈真実に赦す〉ことができるからです。
 しかもこの赦しは実に激しい力を持っています。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。あなたはもう罪を犯すことができなくなった、というほどの意味です。この女はやがて、このイエスがまるで自分の身代わりのように殺されたことを知ったでしょう。慄然としたと思います。そして当然この後キリストの教会に加わり、この物語を伝える源になったに違いありません。多くの人びとが戸惑いを感じながらここに戻ってこざるを得なかったのは、ここに自分たちの物語があると思ったからです。私たちもまた、この物語によって生かされると同時に、繰り返して、この物語が語る主イエスのもとに帰って来ざるを得ない、審かれる厳しさを、しかし、その厳しさの中でこそ初めて知る赦しの深さを、繰り返し知ってそこに立つ以外、私たちの新しく生きる道はありません。「罪を犯すな」という言葉によって突き動かされて生きる道はほかにはないのです。しかしこのような言葉が不思議な道を歩みながら、私たちのところまで届いたことに、神の不思議な恵みの摂理を思わされます。お祈りをいたします。
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by higacoch | 2016-08-20 17:36 | ヨハネ福音書

2016年8月7日

「人間関係 どうしたらいいのか」 詩編128:1-6、コロサイ3:18-4:1
                            香月 茂 牧師

 私たちの時代は、人間関係が大変、難しい時代だと思います。だんだんと難しい時代になってきたかもしれません。人間関係について、今日は、少し皆様とともに、今朝の聖書箇所を踏まえながら、考えたいと思います。
 さて、人が生まれて、最初の人間関係は、親子関係であります。この最初の関係は、とても大事な人間関係であり、子どもが3歳になるまでの母子関係は、基本的な信頼関係を形成する大切な時だと言われています。
 こうした家庭の人間関係を特に問題にして語っているのは、カトリックの現教皇、フランシス教皇であります。彼は昨年、年52回の講話の中で、家庭、家族のことについて、33回も語っています。実に6割以上です。また家庭の環境のことで言えば、留岡幸助氏の活動を思い起こします。彼は「非行少年の父」と呼ばれて、少年院に送られた少年たちの矯正のために生涯を捧げた人です。そのきっかけは、少年院に送られた少年たちのほとんどが、不幸な家庭環境で育てられていることが解ったからでした。現代の家庭内暴力や育児放棄の家庭でした。そこで少年たちの矯正のために、家庭が必要だと確信し、家庭学校を始めたのです。
 今朝の箇所の21節には「父親たち、子どもをいらだたせてはならない」とあります。この言葉には、深い意味が含まれています。これは父親だけではなく、母親も入ります。人間が人間関係を築く基礎的な場所は、家庭であることが解ってきます。伝道者パウロは、コロサイの教会の人たちに、家庭での人間関係、夫婦関係、親子関係、そして主人と奴隷の人間関係で大切なことを短い言葉で語っています。
 パウロは、ユダヤ人であり、ユダヤ的な家庭教育を受けて育っていますが、ユダヤ式の家庭教育論をここで語っているのではありません。教会の人たちは、ユダヤ人ではなく、アジア人です。ユダヤ人から言えば、異邦人でした。ここにはユダヤとは決定的に違う教育論があります。それは、主人と奴隷の関係です。ユダヤでは、奴隷がいませんでした。それに対して、コロサイには奴隷が普通にいました。否、奴隷が多くいたといった方がいいでしょう。では、どうしてユダヤには奴隷がいなかったか、それは神の厳然とした言葉がありました。(出エジプト記20:2、申命記6:12参照)それに対してギリシャ、ローマ世界では、奴隷はいるのが当然でしたし、勿論、奴隷の人間不平等論は当たり前のことでした。コロサイの教会の人々たちの中にも、奴隷を家で使っていた人たちがいたでしょうし、教会員の中には奴隷の身分の人たちも多くいたのです。
 パウロは、会ったことのないコロサイの人たちに教えています。「人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」と。私は、古代ローマの人たちが、どのような考えをもって行動をしていたかを調べました。そこで当時の奴隷たちの中には、へつらおうとしてうわべだけで主人に仕えていた人たちが、多くいたことを知りました。主人に気に入れられて、奴隷から解放されて自由人になるためです。こうした人たちは、奴隷ではなくても現代にもいます。自分の利益だけを考えて、他者のことを考えません。自己中心的な考えを持ち、行動する人たちです。パウロはいくつかの町を伝道して手紙を書いていますが、コリントの教会の人たちに書いた手紙の中に、こんなことを書いています。「私は、ユダヤ人にはユダヤ人のように、神を知らない人には、神を知らない人のようになって人に仕えた」と。
 「人にへつらおうとしてうわべだけで仕え」とあります。その逆は「心から仕える」ということです。「心から仕える」ということは、心から相手を愛さなければなりません。愛がなくて、心から仕えることはできません。それは無理です。心から仕えるには、愛がなければできません。こうしたことを考えますと、「何をするにも人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」というのは、別の言い方をすれば、「主に心から仕えること、それと同時に、隣人に仕える」と言えます。この「仕える」を「愛する」という言葉で、私は言い換えることができると思います。となると、こうなります。「主を心から愛すること、それと同時に、隣人を愛すること」。これはイエス様が言われた最も大事なこと、神の律法が教えていることは、これに尽きるというものです。これは、大変難しいことでもあります。なぜなら、愛し続けることができずに、どこかで自分の勝手な言い分を主張しがちであり、愛せないからです。
 伝道者パウロは、ローマが支配する地においても、神々を拝む地域でも、はっきりと、言っているのです。「主に心から仕え、それと同時に、隣人に仕えなさい。」と。夫婦関係でも、親子関係でも、親戚関係でも良い実りを結ぶことでしょう。人間関係、どうしたらいいのか、それは、相手に仕えることであり、相手を愛することです。
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by higacoch | 2016-08-13 16:13 | コロサイ