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2016年7月31日

「キリストのさばき」 ヨブ記24:1-12、ヨハネ福音書7:1-9
                            関 伸子 牧師

 ヨハネによる福音書第7章の舞台になったエルサレムの仮庵祭とは何か。これは私たちがこの物語を聴き続けていくときに、心に留めておかなければならないことだと思います。旧約聖書のレビ記第23章にその祭りの仕方を記しています。仮小屋というのは過越の祭りを記念した出来事、出エジプトの出来事が起きてから40年の間、荒野を旅しなければならなかった時に、イスラエルの民が住まなければならなかったものです。イスラエルの人びとはまだ定住の地を得ていませんでしたから、どこに宿営するにしても仮の宿だった。その先祖たちの荒野の旅を思い起こして、約束の地に定住するようになった後に、ユダヤの人びとはこの祭りの時、安息日から安息日まで、たとえば自分の家の屋上に、あるいは自分の家の入口のあるところを囲むように小屋を造ります。柳の枝や棕櫚の葉を用いて小屋を造って、そこで8日の生活をして先祖の荒野の旅を思い起こした。そして、このレビ記の言葉の最後に、「わたしはあなたたちの神、主である」というみ言葉が示されているように、自分たちは誰のお陰で生きることができているのかということを思い起こした。ですからある人はこの仮庵祭は神のご臨在を深く思う時であったと言います。
 しかし同時に主イエスが活動された頃の人びとにとっては、嘆きの時でもあったと思います。先ほどヨブ記が伝えているヨブの痛切な嘆きの言葉を読みました。このヨブ記第24章の最初の言葉は、「なぜ、全能者のもとには/さまざまな時が蓄えられていないのか。なぜ、神を愛する者が/神の日を見ることができないのか」と言うのです。荒野を旅した自分たちの祖先は、昼は雲の柱、夜は火の柱となって自分たちを守ってくださる神の力を仰ぐことができたし、飢え乾いた時にはマンナのパンを与えられ、岩からほとばしる水をもって養われた。しかし今はローマ帝国の権力の下にあって、「神の日」と呼び得る日がいつか来るのかという思いが重なっていたに違いないのです。
 そこで3節に、このように記されています。「イエスの兄弟たちが言った。『ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい』」。主イエスは長男ですから弟たちが何人もいました。それらの人びとが、自分たちの血を分けた者の中にいるこのイエスという男が、どうしてそんなことができるだろうと思うような力をもって人の病を癒し、死んだ者まで蘇らせ、悪霊に取りつかれたと人びとが思っている人びとを自由にし、思いがけない力を発揮することに驚き、喜んでいました。そのしるしだと見ることは当然のことだと思ったのではないかと思われます。
 「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている」。これも不思議な言葉です。主が言われる時とは、永遠の神が歴史に触れてくださる時。仮庵の祭りにイエスが登場されたとき、弟たちが考えるように歓迎をしてはいません。むしろ殺す機会が来たとしか思わない。私たちがなぜこの世にあってつらい思いをしなければならないかというと、なかなか人びとと巧く一緒にやって行けないからです。この世には至るところに憎しみや排訴がはびこっていて、平和を造っていません。ですから誰もが平和を願いながら戦禍が絶えません。しかし主イエスは言われます。この世に生きている人たちはわたしを憎むようにお互いを憎しみ合うことはない。この世は神の子を与えたとき、これを憎むようになっていた。私たちキリスト者は、この主イエスの審きの言葉をどこまで聴き取っているかどうか、そのことをまさにこの時、改めて問わなければならないと思います。
 最近ある本を、毎日、少しずつ読みました。『森のチャペルに集う子たち』という、北海道家庭学校を指導しておられた谷昌恒という方が書いた本です。この森のチャペルに集う者たちは、非行を犯して世の人びとにどうにもならないと思われている少年たちです。おとなしいと思っていた少年が突然、「先生、俺なんかいない方がいいんだろう」と向き直って尋ねる。谷校長が応じる。「ああ、君なんかいない方がいいと思っている」。自分自身の現実と向かい合いながらその子と対決する。あるいはまた、暴力行為を重ねてきたらしい少年が校長室に入って来て「俺のことを怒らせるなよ」と脅迫する。暴力行為が始まるかもしれないということを予感しながら、「何と生意気なことを言うのだ」と立ちはだかって答える。戦いが続く。
 あるいはまた、少年が家族を殺してしまう。そこで自分もそういうことについての責任者として意見を求められたその場面でこういうふうに書きます。「日常、殺しの場面が茶の間の出来事になっている。そういうものを毎日子どもたちに見せておいて人殺しはいけないのだと、なぜ教えることができるか。そして自分がそのようなテレビドラマは止せと言えばこれは表現の自由だ、とジャーナリストは言うかもしれない。ここでは〈キリストの審き〉がやはり語られていると思います。
 谷先生は、「平等と言うことすら、われわれの罪を誘う」と言われ、それに続いて、既に預言者が語っている言葉ですけれども、「われわれを造ってくださった神に向かって、なぜわたしをこのように造ったかと嘆き、神を憎むこともゆるされない」と言われます。それは主イエスを私たちに送ってくださった、わたしのような者を神の子として救い取るために送ってくださった神を信頼した者だけが、初めて言える言葉です。そしてその〈信頼〉に立ったときに、わたしのような者でも、なお勇気をもって隣人の中に立つことができるかもしれないという〈望み〉を与えられるのです。今この主イエス・キリストの姿と言葉とを心に深く刻みなから、今年後半の歩み、そして主イエス・キリストのご降誕の時を、かけがえのない〈神の時〉、それゆえに私たちの感謝と喜びの祭りの時として迎えたいと願います。お祈りをいたします。
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by higacoch | 2016-07-31 16:10 | ヨハネ福音書

2016年7月24日

「行いの伴う信仰」ヤコブ2:14-26
                   唐澤 健太 牧師 (国立のぞみ教会)

 「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(17節)。私たちの信仰は生きている信仰でしょうか。それとも「役に立たない」、「死んだ」信仰でしょうか。
 ヤコブにとって「行いの伴う信仰」は、重要なテーマでした。ヤコブの教会には「神は唯一だ」と信仰を告白し、神を礼拝しながら、「事欠いている」兄弟姉妹たちの必要に具体的には応えず、口先だけの信仰が横行していました。(15-16節)。その状況においてヤコブは「わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」(18節)と言うのです。
 信仰生活において、聖書を読み、祈り、礼拝を大切にすることは基本であり、重要なことです。しかし、その「信仰」が、一人一人の生活にどのようにあらわされているのかが問題です。信仰が信仰者の生き方とどのように関わっているのかが問われるのです。信仰は子どもが算数の問題を解くように、答えを出すこと求められるのではなく、「御言葉を行う」(1:22)こと、御言葉に「応える」ことが求められるのです。
 イエス様の語られた「よきサマリア人のたとえ」(ルカ10:25以下)で、主イエスは質問をしてきた律法の専門家に対して、「正しい答えだ、それを実行しなさい」と言われました。神を愛すること、隣人を愛することを「実行する」ことを、主イエスは譬え話を通してお語りになりました。
 「右手に聖書、左手に新聞」と20世紀最大の神学者と評されたカール・バルトは言いました。神の言葉は、この世の出来事と無関係に語られるのではないという意味でしょう。私たちは聖書を読み、新聞を読む。新聞を読み、聖書を読む。私たちは神の言葉に聴き、「いま、ここで」何が起こっているのかを新聞通して知ります。私たちの歴史の中で起こっているただ中で、神の言葉に耳を傾ける。それが「右手に聖書、左手に新聞」の心でしょう。クリスチャンが、今おこっていることに無関心で、聖書だけでは困ります。聖書も読まないで新聞だけ読むクリスチャンも信用なりません。どっちがかけても、不健康な信仰だといえるでしょう。
 「神は唯一」と告白することは、申命記6:4に記される「聞け、イスラエル。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」を意味します。そして、「主を愛する」ことは、具体的には、隣人を愛するということに結実するのです。「神を愛し、隣人を愛する」ことを私たちの信仰としてどう表していくのかが、いま教会の信仰として問われていることです。
 先週、沖縄の高江でヘリパットの建設工事が強行されました。4月の合同退修会にお招きした金井牧師を始め、教会関係者も含めて座り込みで抵抗している人々がいました。100人の市民に対して数百人の機動隊が本土から送り込まれ、人びとを暴力的に排除しました。「弱い者いじめ」以外の何物でもないことがいま私たちの国で平気で行われています。よきサマリア人のたとえで追い剥ぎに襲われ、傷つき倒れている姿がここにあるように思います。
 沖縄の平良修先生に「東京の牧師として覚えておいてほしい。沖縄を見ずして、教会の宣教を考えたら見誤りますよ」とかつて言われた言葉が魚の小骨が喉にささっているように私の心にある。兄弟が困窮している時に、「『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう」(16節)という御言葉が私の心に迫るのです。
 「私たちが何もしないでいて神にすべてのことをして欲しいと望むのは、信仰ではなく迷信である、ということを知らなければならない。」(M.L.キング牧師)私たちが何もしないでいて、着るものが与えられ、温かい食べ物が空から降ってくるのではありません。そこで、具体的に着るものを用意し、温かい食べ物を用意する手が必要なのです。平和を祈ることも、すべてを神がやってくれるってことではありません。神様にすべてのことをやってほしいと望むのは、信仰ではなく迷信なのです。
 もちろん、行いが私たちの救いの条件ではありません。「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(ローマ3:28)。しかし、信仰による義というのは、「信仰において行いはいらない」って教えではありません。パウロは、みずからをうち叩いても自らを服従させようとしています。肉に従うのではなく、霊に従って生きることを求めた人です。
 「私たちがイエスのアイデンティティを私たち自身のものとして受け入れ『私たちは現代の生けるキリスト』ということ、これが霊的な生活の大きな課題です」(ヘンリー・ナウエン)。主イエスの生き方を私たちの生き方としていくことです。言葉をかえれば、「キリストの心をこころとして生きる」ということです。私たちはなお愛の欠ける者です。従い切ることのできない欠けたる者たちです。しかし、「赦された罪人」として大胆に私たちの手や足を主にささげ、用いていただきたい。いま、平和を作り出す、愛の業を行う「手」、「足」を主が必要とされているのですから!
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by higacoch | 2016-07-30 16:35 | ヤコブ

2016年7月17日

「あなたを招くため」 ホセア書6:4-6、マタイ9:9-13         香月 茂 牧師
                                                                                      

 今日は皆様と共に、東小金井教会の設立記念礼拝を捧げることができたことを、大変嬉しく、また主に感謝しています。私たちの教会の最初の主日礼拝は1964年7月26日に捧げられました。その日の淵江牧師の説教題は「信仰と望」(マタイ25:1-13)、出席者は11名。こうして私たちの教会は出発しました。
 さて、今朝与えられた聖書箇所で、イエス様は言われました。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」イエス様が「来た」と言われているのはユダヤの国のガリラヤ地方でした。実際、この地方には徴税人や罪人たちが多く住んでいました。徴税人のマタイは人々から嫌われていました。性格からではなく、職業上からでした。ユダヤを支配していたローマ帝国の手下として同胞から税金を取り立てる仕事をしていたからです。彼らは「ローマの犬」と呼ばれ、軽蔑され、排除されました。またこの「罪人」とは、遊女たち、さらに安息日に会堂に行かなかった人々、否、行けなかった人たちでした。重い病気の人たち、心に、体に障害を持っている人たち、非常に貧しい人たち、羊飼いたちなどでした。こうした人たちのために、イエス様は「来た」と言われました。しかしこれは、単にガリラヤ地方に来たというだけの意味ではありません。もっと大きく、ユダヤの国に来たことでもあり、この世界に来たことでもあります。さらに、当時の人間社会だけではなく、時間を超えて、現代にも来たと理解できるのです。こうしたことが解ると、「罪人を招く」というのも、徴税人や罪人だけでなく、もっと大きな意味での「人々」が含まれているのが解ります。過去だけでなく、今も人々から差別され、排除されている人々、弱い人々のために来られたということが解ってくるのです。この理解がイエス様の言葉を聞く時には大切なことです。そこに立たないと、「昔、イエス様という、こんな人がいた」という昔話となってしまいます。皆さんには聖書を昔の本、歴史物語の本として頂きたくありません。
 また、イエス様はこうも言われました。「人の子が、仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マタイ20:28)。ここでの「人の子」はイエス様なので、「わたしは仕えるために来た」と言いかえることができます。こうした箇所と今朝の箇所を重ねて言いますと「わたしが来たのは、正しい人を招くためにではなく、罪人を招くためであり、仕えられるためではなく、仕えるために来た」となります。さらにイエス様は「正しい人を招くためにではない」とも言われています。では、正しい人とは、誰なのでしょうか。それは権力者、宗教指導者、大祭司、祭司長、律法学者たちです。現代的に言いますと、人々の上に立って威張っている人たち、先生、先生と呼ばれる教師族ではないでしょうか。
 こうしたことを考えていましたら、では、皆さん、牧師はどちら側に入ると思われるでしょうか。牧師は威張っている、先生気取りだと聞くことがあります。牧師の「師」は、教師、医師、宣教師、仏師、法師とか先生を表す漢字です。一般人よりも上の人というような意味が含まれています。先日の「クリスチャン新聞」(6/26号)に、ある牧師の「牧師の『師』を使用人の『使』に変えてはどうか」という意見が掲載されていました。イエス様も「教師と呼ばれてはいけない」(マタイ23:10)と言われました。牧師の生き方として、先生、先生と呼ばれて、鼻が高くなってはいけないと私自身は肝に銘じています。傲慢、高慢な人が、ここでイエス様が言われている正しい人です。「俺は神の憐みなど要らない。自分で自分を頼りにしている」という」自信家なのです。 
 今朝の箇所で、私はイエス様はマタイをじっと長く見つめておられたのではないかと思うのです。そしてマタイもイエス様の視線に気づいていたと思います。その視線に、彼は合わせることができないと思っていたのではないでしょうか。自分の恥ずかしさ、醜さを思って、目を反らしたりもしたと思います。けれどもイエス様はマタイをちょっと見て、通り過ぎられたのではありません。長く見つめられた後、イエス様の方から声を掛けられました。彼はびっくりしたでしょう。そして感動したに違いありません。これまでこんな温かい言葉を掛けてくれる人がいなかったからです。いつも冷たい、とげのある「人間のくず」、「あっちに行け」と罵倒されていたに違いない、そんな彼だったのです。しかし、イエス様は彼をじっと見つめてから「わたしに従ってきなさい」と言われました。自分は受け入れられ、「招かれている」と深く感じて感動しました。だから、その座から離れて、イエス様に従い、その後、彼自身が今度は、収税人や罪人らを大勢招いて大食事会をしたのです。こうして彼は変えられていきました。招かれて、招く人に、受け入れられて、受け入れる人に、愛されて、愛する人に変えられていったのです。  
 わたしは皆さんにお伝えしたいのです。イエス様は、皆さんを、救いを求めておられるあなたを、招いておられます。だから、ぜひ、イエス様の招きに応じて頂きたい。そして求道者の方々には、イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、信仰の道へと歩み始めて頂きたいのです。イエス様は、あなたを招くために、来られたのですから。


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by higacoch | 2016-07-23 17:30 | マタイ

2016年7月10日

「目指す地へ!」  申命記32:45-52、ヨハネ福音書 6:16-21
                                  関 伸子 牧師 
 
 今日の説教題を「目指す地へ!」としました。「すると間もなく、舟は目指す地に着いた」と記されているみ言葉によります。今年も半年が過ぎたところで、自分がどこに向かって何を目指して、そのために何をしようとしているかを考える時でもあると思います。
 「すると間もなく、舟は目指す地に着いた」。もしかすると、とても大きな出来事をここで弟子たちは思い起していたかもしれません。それはモーセのことです。先ほど申命記第32章のモーセの最後に近い日々のことを読みました。モーセは神の民が奴隷であった家としか呼ぶことのできないエジプトの地から、イスラエルの人びとを、40年の間、荒れ野の中を導いた人です。ところがモーセ自身は自分たちが目指していたカナンの地に到達することができなかった。
 なぜモーセがそのようなことをすることができなかったのか。これは旧約聖書には何度か語られています。特にはっきり書いてあるのは民数記第20章です。荒れ野の旅半ばにおいてイスラエルの民が渇きを訴えた、のちにメリバと名づけられるようになった場所における出来事です。主なる神はモーセに、杖を取って岩に命じて水を与えよとお命じになった。モーセはそのとき杖を取って二度岩を叩いて水を出した。主なる神は岩に言葉をかけることだけをお命じになったけれども、杖で叩けとはおっしゃらなかった。モーセの生涯における過ちはただ一度そこにおいてだけですけれども、モーセはそのとき既に、あなたは約束の地へと民を導きながら約束の地に入ることはできないとの神の言葉を聞いているのです。
 ヨハネによる福音書は、この出来事が過越の祭りが近づいていた時のことである、と4節に書いています。過越の祭りというのは、モーセに率いられた神の民のエジプト脱出の最初の出来事を思い起す記念の祭りです。その過越の祭りの時の出来事として「舟は目指す地に着いた」という言葉を記すとき、モーセのことを思い出していたことは明らかです。この福音書が記されたのは三百年にわたる迫害が続いた時期です。40年の荒れ野の旅を遥かに越える長い間、キリストの教会は荒れ野に生きたと言うこともできます。新しい年が明けるときになおいのちの不安を思いながら、時に地下の墳墓のなかで主の食卓を囲んでいた当時の人びとが、私たちの乗っている舟〈目指す地に着く確かさ〉の中にあると確信することができた、そのような思いすらここに秘められていると読むことは許されると私は思います。
 目指す地とはどこでしょう。17節に「湖の向こう岸のカフェルナウムに行こうとした」と書いてありました。カフェルナウムに何をしに行ったのか。おそらく弟子たちはここで自分たちだけで舟に乗ったのですけれども、福音書は書いていませんが主イエスとしっかり申し合わせていたに違いありません。
 湖を渡る主イエスの姿に、海の中に道を造った神の姿が重なってきます。弟子たちは「舟に乗り、湖の向こう岸のカフェルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった」。主イエスが不在です。しかも「強い風が吹いて湖は荒れ始めた」。「荒れ始めた」という言葉は興味ある表現で、「波が起き上がらせられた」という言葉です。海が穏やかなとき、船が思うように進むときは平和な思いがするものですけれども、ひとたび水面がぐっと立ち上がり始めると、自分たちに逆らう力として見えてくる。不安が生まれる。船旅はいつもどこかで死を思わせるところがあります。
 ヨハネ福音書を読んでいますと、「わたしである」という言葉が何度も出てきます。英語訳の聖書はここを、"It is I.”と訳します。そしてまたヨハネ福音書は、この「わたしである」という言葉にいろいろな言葉を補った主の言葉をも伝えています。「わたしは命のパンである」、「わたしは道であり真理である」、「わたしは光である」。ここでは、「わたしである」と、単純に名乗りをあげる主イエスの姿を描きます。夜遅く夫の帰りを待っている妻が、玄関に物音がして誰だろうと不安を抱く。そのときに夫が「僕だよ」と声をかけてくれる。それが誰だか分かり、そのことによって不安から解き放たれるのは、その妻であり、またその子どもたちだけです。
「わたしだ」という言葉は、その意味では、そう言うことができる者とその言葉を聴き取ることができる者との間に、どんなに深い関わり、信頼が生まれ始めているかを示すものです。更に言えば、この主イエスの言葉はまさにそのような〈信頼を呼び起こす声〉でした。不思議なことです。
 ヨハネによる福音書はここでとても不思議な書き方を、もうひとつしています。21節に「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした」。そこから先は書いていません。ヨハネ福音書がやがて主の甦りを語り、それでもなお不安を抱き、主イエスが甦られた後でありながら、大地の上を歩きつつ、かえって嵐の海の中でおじまどっていた弟子たちのところを、主ご自身が訪ねてくださったことを丁寧に語っていることを忘れることはできません。そこでも言われました。「わたしだ。恐れることはない」。それに対してあの疑い深いトマスが「わが主よ、わが神よ」と応えました。「わが主よ、わが神よ」と応えることができたトマスの言葉に連なるものであると思います。
 この半年の間本当に何が起こるか分かりませんけれども、この主と共にあって目指す地に急ぐ、永遠のいのちに至る確かさの中で歩み続けることができれば、どんなにさいわいなことであろうかと思います。どんな人間の計画も、神が企てておられることを思い計って、それに対応する手を最初から打つことはできません。しかし主が共にいて、主が私たちのために心を配ってくださり、主が私たちに「わたしだ。恐れることはない」と語り続けていてくださるみ言葉を聞き続けて生きる時、もはや恐れるものは何もないと私たちも信じることができます。お祈りいたします。
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by higacoch | 2016-07-16 16:40 | ヨハネ福音書

2016年7月3日

「岩を土台にする」  詩編119:105~112、マタイ福音書7:24-29
                                      香月 茂 牧師

 イエス様がこの譬えを使われるのは経験と知識を持っておられたからです。何しろイエス様は大工さんであったからです。砂地の上の家がどんな壊れ方をするかも経験されていたのでしょう。では砂地と岩地とはどう違うのでしょうか。砂地は雨がどんどん降り、川があふれたりすると、砂地に水が一杯含まれ、液状化現象が起こります。そして水の流れの力によって小さな砂は流れていきます。そこに突風が吹いてくると家は傾き、壊れてしまうのです。それに対して、岩地の上に建てられた家は、しっかりと支えられています。雨がどんどん降ろうが、岩が流されることはありませんし、風が吹いても大丈夫です。土台がグラグラすることはありません。
 このイエス様の教えが解れば、石地に家を建てるべきだと解ります。しかしイエス様は家をどこに建てたらいいのかを教えるために、これらの話をされたのではありません。ここでイエス様が教えようとされていることは、人生の礎です。では、砂とは、岩とは、一体、何なのでしょうか。この箇所にはキーワードがあります。それは「わたしのこれらの言葉」です。この言葉からイエス様が、これまで語られた言葉を聞いて行うことが岩であり、聞いても聞くだけで行わないことが砂です。ですから、岩の上に家を建てるということは、「あなたの人生を『わたしの言葉』を聞いて、その言葉によって生きていきなさい」と言われていることなのです。
 私は、ここで、聞いて行う人と、聞き流して行わない人との間に、もう一種類の人たちがいると思います。それは、イエス様の言葉を聞いて、聞き流すのではなく、聞いて心に留めて、その言葉を反芻する生き方、すぐに行動となっていかなくても、イエス様の言葉を心の中に留めて生きるという生き方です。私は、このような生き方も、イエス様は受け止めてくださると信じています。なぜなら、イエス様のお弟子さんたちも、イエス様から教えを聞いて、すぐに行動した人ではないからです。ある面では、イエス様の言葉を信じ切れず、疑いをもって聞いてもいたと思います。現にこの後に、イエス様は弟子たちに「向こう岸にいくように」と命じ、イエス様も同じ船に乗って、そして出掛けました。その途上で嵐に遭い、弟子たちは、船が沈むのではないかと恐れ、寝ておられたイエス様を起こして「助けてください」と叫んでいます。その時、イエス様は弟子たちを「信仰の薄い者よ」と叱っておられます。このように、すぐにイエス様の言葉を聞き、イエス様を信じて、立派な信仰者となっているわけではありません。私たちもそれぞれ信仰の理解の度合いが違うでしょう。
 話は変わりますが、昨日、ある本を買って一気に読みました。渡辺和子氏の『幸せは、あなたの心が決める』という本です。これを読破した後の感想は、「なーんだあ、これはイエス様が語られている、マタイ福音書5章~7章の言葉の現代版だなあ」と思いました。私たちは、イエス様の言葉がすぐには解らないのですが、それがよくわかっている人が、現代日本の状況を知って、解りやすく書いていると感じました。わたしたちは、現代に生きていますが、どのような時代に生きていようが、どんな国に生きていようが、人生にとって大切なものは、イエス様の言葉だと信じています。ですから、イエス様の言葉を聞き流してしまうのではなく、イエス様の言葉を心に留めて、その言葉によって生きていって頂きたい。こうした渡辺さんの本からも、より解りやすく、人生にとって大切なこと、幸せになっていく教えが解ってくるのです。ですからイエス様の教えを教えて『幸せは、あなたの心が決める』と題してありました。あなたの心に、イエス様の言葉をしっかりと持って、確信させられたことを少しずつでも実行していく時、そこに、あなた自身の幸せな道が開かれていくでしょう。あなたがまず第一に決めることは、イエス様の言葉によって生きていくということです。ここにこそ、人生の喜び、人生に感謝し、ありがとうという道が備えられていきます。それは、イエス様が言われているように、私の人生において、イエス様の御言葉を土台にして生きていくことなのです。このことを、ここからしっかりと受け止めていきたいと願います。
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by higacoch | 2016-07-09 15:53 | マタイ