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2016年6月26日

「あなたは独りではない」ヨハネ8:21-36
                                 荒瀬 牧彦 牧師(めぐみ教会)

 イエスは言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。
 しかしそれを聞いたファリサイ派の人たちは、「あなたは自分のことを自分で言っているのだから、真実ではない」と言った。目の前に差し出された光を、彼らは拒んだのである。
 妙な連想だが、以前見た子猫救出の動画を思い出した。下水溝に落ちて鳴いている小さな猫。助け出そうと溝に体をいれている人が手を伸ばすが、猫は奥へと後ずさりしてしまう。助けようとしている人の気持ちはよくわかる。「君を助けたいのだ!この手は君を助けられる。救いの手であることを信じておくれよ!」。
 猫ちゃんは、見ている者を散々いらいらさせた後に、ついに救出の手に身を委ねて助け出された。ああ良かった!
 でも、あの猫ちゃんと違って、人間は頑なである。イエスが懸命に語りかける声を信じようとしない。イエスはそれでも人間を見捨てず、さらに強い言葉で重ねて語りかける。
  「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とイエスは告げる。「わたしはある」は、ギリシア語では「エゴー・エイミ」。(英語にすれば“I am”)。「わたしはある」というのは不思議な表現であるが、どういうことだろう。
 ヨハネ福音書において、これはイエスがご自分の正体を現わす時の重要な定式だ。「わたしは世の光である」、「わたしは道である、命である、真理である」、「わたしはぶどうの木である」、「わたしは良い羊飼いである」など、皆エゴー・エイミ+比喩である。それがここでは、何の比喩も用いることなく、ストレートにそのまま「わたしはある」といわれる。
 威張っているのではない。命を得てもらいたいから、何とかしてわかってもらうために、力を尽くして語りかけているのだ。<エゴー・エイミ・・・父がわたしを、あなたたちのために遣わされたのだ。父はわたしと共にある。そして私は父が語るままに語っている。父の思うところをわたしは行う。だから、「わたしはある」とは、父が共におられるということだ。父はわたしを独りにしてはおかない。>

 実は、イエスがあなたに「エゴー・エイミ」と告げることには、重大な意味がある。父は、父が遣わした御子イエスと共におられる。御子イエスを独りにしてはおかない。あなたがそのことを信じ、受け入れる時、御子はあなたと共におられる。あなたを独りにしてはおかない。
 つまりこういうことだ。父が子のうちにおられるように、子はあなたのうちに宿る。父、子、あなたは一つにつながる。イエスを通して、あなたは天の父のうちにある。それが「永遠の命」である。「あなたは独りではない。」教会はそのことを告げるために奔走するのである。

 北九州でホームレス支援の働きをしておられる奥田知志牧師が『もう、ひとりにさせない』という本に、野宿生活をしていたHさんとの出会いを書いている。深い孤立の中にいた彼は、「自分は邪魔な存在だから」といって入院の勧めを拒み続けた。やがて路上で倒れ、救急搬送され、間もなく死亡。無念さを抱えながら、彼の葬儀で奥田牧師は言うのだ。「Hさん、あなたは邪魔者ではありません」。ヨハネ福音書14章の「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行く」というイエスの言葉を読み、「誰が邪魔な人に住まいを準備するでしょう」と奥田牧師は、天のHさんに語る。イエスはあなたのために奔走して、十字架にのぼって、天へのぼって、場所を用意したんだよ。あなたは邪魔な存在ではないよ。あなたは独りではないよ・・・。

 一人の人にこれだけ深く関わっていく奥田さんやその仲間の方々の心に感動を覚える。しかし、これは奥田さんたちだけの特別な務めだろうか。そうではないだろう。わたしたちもまた、出会った人たちにこのことを告げ、共に生きていくよう召されているのだ。
 どうしたら、「独りではない」と確信をもって言えるのだろう。イエスをみつめよう。イエスに聞こう。イエスの「わたしはある」のゆえに、わたしたちは「独りではない」者として生きる。
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by higacoch | 2016-06-30 14:55 | ヨハネ福音書

2016年6月19日

「まず、神の国と神の義を求めなさい」 イザヤ49:14~18、マタイ6:25~34
                                          香月 茂 牧師

 来月の10日に参議院選挙が行われます。もうすぐ選挙活動で候補者が訴える選挙宣伝カーが騒々しく回ることでしょう。こうした選挙について、私たちの教会の信仰告白6.28には「人々は、与えられている機会を用いて、この世の政治に参加し、特に選挙権を行使する義務がある。」とあります。ですから、参議院議員選挙の投票日には、ぜひ、投票に行って頂きたい。私たちの教会は、カルヴァンの流れを汲む教会ですから、御言葉によって教会を改革していく歩みと共に、この世をも御言葉によって改革していくことを祈り求めています。こうした改革運動の原点は、イエス様が教えてくださった主の祈り「天で行われるごとく、地でも行われますように」にあります。改革のベクトルは御国の建設に向かっているのです。
 今朝与えられている箇所で、イエス様は弟子たちにズバリ「神の国を求める」ことを願っておられます。「まず、神の国を求めなさい」とありますが、ここで背景になっているのは人の国です。王様の国、権力者の国、権力者の支配領域のことです。Aという王様がいたとしたなら、Aの国というのは、A王様が支配している地域を言います。イエス様の時代には、ユダヤの国はユダヤの王様が支配していましたが、ユダヤはローマ帝国の属国でもあり、ローマ帝国の支配のもとにありました。ですから実際はローマの国でした。 
 私は、ここでイエス様が「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って思い悩むなと、二度も言われていることに注目したいのです。それは二度とも全く同じようには言われていないからです。よく注意してみますと、25節には「自分の命のことで、何を食べようか、何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。いのちは、食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」と言われています。つまり食べる物、飲むもの、着る物というのは、私たちの生活手段です。私たちの「生活」よりも「命」が大事だと言うことです。
 ここで、イエス様は、生活のことで、あれが、これが欲しいと言って追い求めて思い悩むな、と言われています。命に必要なものは、皆、天の父はご存知だと念のために言われています。「あなたがたは、どうして天の父を信じないで、思い悩んで、日々を過ごすのか、ほら、空の鳥をよく見なさい。大地の野の花をよく見なさい。鳥も花も、日々、思い悩んでいない、天の父は、鳥も花も育ててくださっているではないか。 生活のことで思い悩むな。」と弟子たちにおっしゃっておられることは、また私たちにも語られていることでもあります。日々思い悩むのではなく、神様を信じて生きるようにと言われているのです。イエス様は、まず何よりも一番に「神様の国、神様の義(神様にあっての正しさ)を求めなさい」と勧められています。
 さらに、イエス様の言葉をもう少し深く学びたいのです。イエス様は「あなたがた」と言われています。「あなたは」ではなく、「あなたがたは」です。こうしたことから、イエス様は、弟子たち一人一人に個別的に求めておられるというよりも、集団的に求めておられると受け止めることができます。つまりイエス様は教会に、わたしたちの教会に求められておられると思います。わたしたちの教会の「信仰告白」の6.30にはこうあります。「主なるキリストに治められる契約共同体(教会)は、神が創造の業において、人々のために意図して基本的な人間の尊厳を否定する政治的、経済的、文化的、人種的抑圧状況に反対し、抵抗し、変革を求めていくのである。」と信仰告白しています。
 日本はこれまで平和を求めて、国民主権のもとで、守られてきた日本国憲法第9条にある「国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇、または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」歩みをしてきました。これは、イエス様が言われた「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」(口語訳マタイ5:9)に通じると私は信じています。また強力な軍事力による戦争抑止論は、まさに相互の国が互いに信頼できない所から生まれていることだと思います。イエス様が言われる平和ではないとのです。これは、イエス様の時代に言われた「ローマの平和」です。一見、平和のように見える、しかし実態は、ローマ帝国の軍事力によって戦争を抑止しているのです。ローマ帝国が弱体した時、各地で戦争が生じました。「ローマの平和」は力で抑えた仮の平和であって、決して真の平和ではありませんでした。
 イエス様は主を信じる者たちに「まず、神の国と神の義を求めよ」とおっしゃいました。このことを教会が政治的な政党のスローガンのように掲げて政治活動をするのではなく、神を信じ、信仰に基づいて平和を求めていくことが求められているのです。神にある平和に通じる歩みのために、この世の政治に参加し、選挙権を行使する義務として、行動したいと思います。
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by higacoch | 2016-06-25 17:18 | マタイ

2016年6月12日

「透明の翼を持つ人」 詩編91編1~16  マルコによる福音書1章12~13
                                          濵崎 孝 牧師

 月刊誌「信徒の友」に、「教会生活のために」というページがあり、「教会の掃除はだれがしているのですか」という質問に、日本聖書神学校教授をつとめた大沢秀夫牧師が答えていました。「本当にいったい誰が、いつもきれいに教会の掃除をしていてくれるのでしょう?教会の印刷物を送ってくれるのは?そして礼拝堂のお花を活けてくれるのは誰でしょうか?……私の今いる教会では、女性の天使たちが四組、おじさんたちの天使が二組、そして青年の天使一組が交代で礼拝堂の掃除をしてくれています。……聖書では天使は、神の消息(メッセージ)を伝えるものとしてしばしば登場します。でも自分を目立たせるのではなくて、……メッセージを告げるとすぐに消えてしまいます。天使の存在は、私たちが見えないところで支えられて生かされて在ることを教えてくれます」。――大沢先生は、見えない所で神さまのご用をつとめてくれる人たちを「天使」と呼んだらどうだろう……と語りかけていました。マルコによる福音書の始めに登場する洗礼者ヨハネという人は、「使者」(アンゲロス)と言い表されています(英語の「天使」エンゼルは、ギリシア語アンゲロスに由来)。ですから、大沢先生の提案に賛成して振り返ってみると、私どもは多くの天使に仕えられ、支えられて来たことがわかります。
 福音書の著者マルコは、ナザレのイエス=救い主イエスさまには「天使たちが仕えていた」と証言しましたが、その「天使たち」は主なる神さまに奉仕する霊的な存在、天的な存在で、人間ではありません。そして、こういう「天使たち」が仕えていたので、野獣が歩き回っている荒れ野に40日間留まるような生活も平安だったし、サタン=悪魔のような恐ろしい存在が誘惑してもイエスさまは何のダメージも受けなかった……というのです。
 皆さん、マルコ先生にも、「荒れ野」に留まるような体験があったのかもしれませんね。また、「サタンから誘惑を受け……た」というような苦悩の体験も。さらに、「野獣」(複数形!)の傍にいるような恐怖の体験さえ。そして、そうであればこそ、マルコ先生はあのキリスト・イエスさまにあった霊的現実から、力強い励ましや福音を聴いたのではないでしょうか。サタンの恐ろしい企てに勝利された主イエスさまが、私どもと共にいてくださる。それは、私どもにとってどんなに大きな力であり安心であることか……と。
 旧約聖書のイザヤ書の預言は、次のように語っています。主なる神は、「彼ら(主の民)の苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった」(63章9節)。――主なる神の民には、常に主ヤーウェのご慈愛が注がれて来たのであり、あの荒れ野のイエスさまにあったような天使による力強い支援も豊かに祝福されて来たのです。
 『まばたきの天使』(日本基督教団出版局)という本があります。副題は、「わたしの水野源三」です。著者は、隣人を「わたしに出会ってきた天使」と言い表した……。水野源三さんは、小学生の時に罹った赤痢が原因で手足の自由を失い、喋ることも出来なくなりました。けれども、水野さんの家庭にキリストの福音が届き、源三さんは聖書を一心に読む人になり、やがてキリスト・イエスさまとの出会いを経験しました。主の民の一人になったのです。その信仰の喜びを水野源三さんは、歌や詩に表し、『わが恵み汝に足れり』(アシュラム社)などの詩歌集が生まれたのでした。水野さんは、イエスさまから詩(うた)の翼を贈られたのです。その水野さんをまばたきの天使と言い表したのは、源三さんのお母さんが「あいうえお」の表を使い、一字一字を指し示すと、源三さんが使いたい字を瞬きで合図したからです。水野源三兄(きょうだい)も、イエスさまから与えられた翼で多くの人を勇気づける詩歌を書き、その透明の翼で天国まで羽ばたいて行きました。そして、「天使に等しい者」(ルカによる福音書20章36節)になったのです。
 キリスト教会の礼拝堂に集まっているお互いは、みな弱さや欠点、的外れや不自由を抱えた人間です。けれども、私どもが礼拝している神さまは、詩編91編が語りかけているように、「羽」や「翼」をお持ちなのです。ですから、礼拝堂に集まっている私どもは、いつかきっと、隣の人の背には透明の翼があるのだ……と想わされて来るに違いないのです。
 皆さん、キリスト・イエスさまは、私どもを透明の翼を持つ人にしてくださろうとしています。慈しみ深いイエスさまは、試練や苦難で苦しむ人々のことを憐れみ、私どもを遣わして助けようとしていらっしゃるのです。どうかその嬉しい御心がなりますように……とお祈りしていきましょう。 
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by higacoch | 2016-06-18 18:20 | マルコ

2016年6月5日

「あなたがたは、地の塩、世の光である」   イザヤ60:19-22、マタイ5:13-16
                                           香月 茂 牧師
         
 今朝、与えられた聖書箇所はイエス様の教えの中でも有名なところで、良く知られています。昔は山上の垂訓と言われた、9つの幸いが語られた所のすぐ後が、今朝の箇所です。ここは弟子たちに語られた言葉として受け止められています。しかし、5章1節に大事なことが記されています。「イエスは、この群衆を見て、山に登られた。」とあります。群衆を見ないで、弟子たちだけを見られたのではありません。群衆を無視しておられないと云うことです。ここでは群衆と弟子たちは、区別はされていますが、差別されてはいません。イエス様は群衆も憐れんでおられると云うことです。
 イエス様は、神の国の伝道を始められた最初の時期に、弟子たちに大切なことを教えられました。「幸いな人は、このような人だ」と教え、それに続けて「あなたがたは、地の塩である。世の光である」と言われました。地の塩とは、世の中の塩と考えていいのです。塩は食物の消毒や防腐剤であり、この世にとって大事なもの、欠くことができないものということです。また光もこの世の闇を照らして明るくする、無くてはならないものです。このイエス様の言葉に、私は驚きます。間違いではないかと思ったりしました。弟子たちを呼び寄せたすぐ後のことです。何年かの訓練後なら、まだ解ります。しかし、始めたばかりです。また、イエス様が「あなたがたは、地の塩となるでしょう。」と言われたのなら解るのです。しかし、弟子となったばかりで、まだイエス様のことモよく知らない時なのです。また将来的に「あなたがたは、これからは、地の塩、世の光とならなければならない」というなら解ります。ですが、イエス様は、いきなり、「あなたがたは、地の塩である。世の光である。」と断言されました。弟子たちの中には「先生がそう言われても、私は地の塩、世の光ではありません。そんな自信はありません。」と言いたくなった者もいたに違いありません。しかしながら、イエス様は「あなたがたは、地の塩となる。」ではなく、「地の塩である。世の光である。」と言われたのです。
 イエス様が山に登られた、そのイエス様に弟子たちはついて行き、山に登りました。ここに注目したいのです。イエス様は弟子たちが自分のそばに近づいてきたので、語られました。「あなたがたは、地の塩である。世の光である」と。この言葉は、将来、どうなるとか、どう変わっていくのかではなく、イエス様はついてきた弟子たちを受け止め、「あなたがたは、地の塩、世の光である」と言われました。ただ、あなたがたは塩だ、光だと言われていません。「地」の塩、「世」の光だと言われています。これは、塩、光は、自分のためにあるのではないことを示しています。地の塩は、この地のために塩の働きをする、世の光は、この世のために、照らして明るくする働きをします。つまり、相手のために、仕える働きなのです。この世のために、仕えるためになのです。このことが解れば、イエス様が、どうして「あなたがたは、地の塩、世の光である」と言われたかが解ってきます。
 イエス様は、死からよみがえられて、今も生きて働かれています。そうであるなら、弟子たちに言われたように、今も、私たちに「地の塩、世の光」と語り掛けておられます。この言葉によって、イエス様は、大事なことを私たちに語り掛けてくださっています。それは「あなたは、大事な人だ。この世にはなくてはならない人だ」と言ってくださっているのです。あなたは、つまらない人だ、無価値だと言われていません。どうでもいいと言われていないのです。そうではなく、「あなたは、地の塩である。世の光である。」と言われ、「あなたは、この世で毒にも薬にもならない存在ではなく、なくてはならない存在なのだ。」と言われているのです。地で大切な人、あなたは価値ある人だということです。旧約聖書のイザヤ書43章3~4節に「私が、あなたの神、あなたの救い主であるから。私の目には、あなたは高価で尊い。私は、あなたを愛している」とあります。神様の目から見て、あなたは価値ある大切な人だと、神様があなたに語り掛けておられます。イエス様が弟子たちや私たちに、語られたことはこのことだったのです。
 心の病を抱えている人、また多感な中学、高校生の中には、自分はつまらない、いなくなった方がいい、死んだ方がいいと、自分で自分を責めている人が案外多く、苦しんでいます。しかし、イエス様は「あなたがたは、地の塩、世の光である。」と言われているのです。皆さんも、ぜひ、聞いて頂きたい。「あなたは、価値ある者、この世には、なくてはならない大事な存在」という、このイエス様の言葉を、しっかりと聞いて生きていきましょう。
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by higacoch | 2016-06-11 15:07 | マタイ