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2016年5月29日

「新しく生まれるために」  
         エゼキエル37:1-14、ヨハネ3:1-15          関 伸子 牧師 

 ヨハネによる福音書第3章の1節以下が伝える主イエスとニコデモとの対話は、多くの人びとが関心を抱き、多くの人びとがこれについて書き、また語ってきています。たとえばある人は、人間は悪魔に仕えるためには真昼間でも臆面もなくやって来るのに、主イエスに対する信仰を言い表す時には人目をはばかると言いました。なぜかと言えば、それは世間を恐れたからであると説明します。またある人はこんなふうに言います。この後で主イエスは「新しく生まれなければ」と言われた。言い換えるとニコデモはまだ新しく生まれていないことになる。あるいはこの後主イエスは光と闇についてお語りになっています。新しく生まれた者は光に生きるとすれば、ニコデモはまだ新しく生まれていないので闇の男である。闇の男はそれにふさわしく夜主イエスを訪ねると言うのです。
 今言ったような理解はニコデモに対して批判的です。けれども好意をもって理解する人もあります。夜は人が掟を学ぶ時、神のみ言葉を学ぶ時。昼は働く時、働きながら人間はいろいろな事を心の中で問うでしょう。今のように、なぜ夜の訪問であったかを問い、答えを求めるとき、結局私たちはそこで自分自身を語っているのです。たとえばキリストを告白する時に世間体をおもんばかり人目を気にする。私たちも何となくキリスト者であることを人の前で明らかにするのに世間体を気にするようなところがあります。
 まずここでニコデモが主イエスに対して語った言葉は、「ラビ」という呼びかけから始まります。これは律法の教師に対するひとつの敬称の言葉です。ニコデモの方からすれば、このように言ってイエスという方と話し合いができる基礎を作っていると言えます。そして他方、主イエスの側からすれば、ガリラヤから出てきたばかりの伝道者です。ニコデモの好意は何よりもありがたかったと思います。しかし主イエスは、そこで「はっきり言っておく」と言われました。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。「新たに」と訳されている言葉は「上から生まれる」と訳すべきものです。これが時間的な意味になると「初めから」という意味になります。「人は上から、初めから、生まれ直さなければ」、そういう意味で「新たに」という意味になるのです。つまり、「人は新たに、上からの力で生まれなければ」ということです。ここで言う「上からの力」とは何かということを、主イエスは、5節で説明しておられます。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。
 こういうやり取りをしているうちに、いよいよニコデモは途方に暮れます。4節は、主イエスの言葉を聴いたニコデモの答え、正確には反問。途方に暮れた者の悲鳴のような反問です。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう」。主イエスは「水と霊」について語られました。明らかに水と霊によるバプテスマを意味します。霊によって新しく生まれる。霊とは上からの霊です。上からの霊によって新しく生まれなさい。
 11節以下は大変ふしぎな主イエスの表現です。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしの証しを受け入れない」。〈わたしの上に起こったこと〉をよく聴いてほしい。そのとき、あなたがたは新しく生まれさせる霊の声を聴いている。「モーセが荒れ野で蛇を上げた」。この物語は、民数記第21章に記されています。イスラエルの民のなかで罪を犯したものがあったとき、罪を犯した者を神から遣わされて来た蛇が噛んだ。人びとは耐えがたく思って自分の罪を認め、悔い改め、赦しを求めたときに、神はその蛇は旗竿の先に揚げて人びとに見せることをモーセに求め、モーセはそのようにした。自分たちの罪の審きのしるしであった蛇は、悔い改めた者がこれを仰ぎ見た時、命をもたらすものとなった。主イエスはその蛇の姿にご自分の姿を託しておられます。これが霊がもたらした「音」が伝えることです。
 御殿場の神山教会で牧師として活躍された大日向繁という先生は確か17歳で発病して療養所に入り、立ち直って学校の先生になったけれども、天皇制を説いているうちに敗戦を迎え、天皇制も崩れた。自分のいのちの支えも崩れたと思った時に信仰が与えられます。ヨハネ福音書第9章を読みます。わたしのこの病気―結核にも罹っていたそうです—このわたしの悩みは神の栄光の現れるためだということがよくわかった。わたしのために、主よ、お救いくださいとか、病気を治してくださいとか、それ自体は悪いことではないかもしれないけれども、それでは信仰にはなっていない。大切なのは、ほんとうのキリストの愛そのものにぶつかる時であって、わたしが消えてキリストしか見えなくなる。そこでこう言うのです。「そうなると神さまが寝ておれ、と言うならば何年でも寝てられる。神さまが立てと言うならばいつでも、はい、僕はここにいます、と言って立ち上がる。すべてが愛の主のみ手の中にある。すべてを主に任せておればよい。こんなに楽しい人生はない」。
 こんなに楽しい人生はない。解き放たれたからです。霊に生きるということは、そのように霊を受けて主イエスと同じように、神を父なる神と呼べるようになるということです。わたしはキリストのために生きる。神のために生きる。それ以外にもう何も見ない。何も見ないところで解き放たれる。霊を受けるということはそういうことです。どうぞわたしのように霊を受けてください。わたしのように神に支配され尽くしてください、どんなにしあわせなことか。それが私たちのただひとつ、主とともに語ることができる信仰の言葉です。お祈りをいたします。
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by higacoch | 2016-05-31 20:15 | ヨハネ福音書

2016年5月22日

「神の霊によって守られている」    ヨブ14:7-17、ヨハネ14:15-17
                                       関 伸子 牧師 
 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」。皆さんはどんな思いでこの主の言葉をお聴きになったでしょう。何気ない言葉のようですけれども、鋭い言葉です。この主イエスの言葉は主イエスが弟子たちと最後の食事をしておられた時の言葉です。この主の最後の食事から、私たちが共に祝う聖餐が始まったと信じられています。
 私たちはここで共にこの食卓を囲み、お互いが愛によって造られている愛の共同体だということを、この主イエスの最後の食卓から既に起こっていることとして、改めて知ることは大切です。ただ自分が愛されているということを知るだけではなくて、自分が主を愛し始めていることを悟るということです。もしかすると皆さんの中に途方に暮れる思いが生まれているかもしれません。今のように聞かされた言葉と自分の心は遠すぎる、どうしていいのか分からない。そのような途方に暮れる思いがあるのではないでしょうか。
 そこで主イエスがおっしゃるのは、「別の弁護者」を遣わしていただけるようにということです。「弁護者」という言葉が何を意味しているかは、すぐ後の17節で「この方は、真理の霊である」と記されているように、〈聖なる霊〉を意味することは明らかです。ここに用いられている弁護者と訳されているギリシア語は、もともとは興味深い言葉で、「呼ばれて傍らにきてくれる者」という意味の言葉です。なぜ呼んだかというと助けてほしいからです。そばにいてもらいたいからです。そばにいてどんな助けが必要かというと、まず〈慰め〉です。独りでは耐えられないからです。あるいはまた、人びとが言われなき非難を自分に浴びせるときに、自分ひとりで弁護することはもう間に合わない。代わりに弁護してくれる。従って裁判における弁護者をも意味しました。
 先ほどヨブ記を読みました。ヨブ記は創作文学ですけれども、ヨブという男が信仰の試練に遭って、初め三人の男がやって来てヨブの態度を論難するのに答えています。後からもうひとり男がやって来る。それに対してもヨブが答える。深い信仰を語る文章ですけれども、ヨブの言葉は絶えず目の前にいる四人の男ではなくて神に向かいます。主イエスと同じです。主イエスもまたヨブと同じように弟子たちに顔を向けながら、同時にその心を父なる神に向けておられます。そして、そこで弁護者を呼んであげようと言われたのです。
先ほどヨブ記の第14章7節以下を読みました。これはヨブの長い、神に訴え続ける言葉を切り取ったようなものです。この神に対して本当に厳しい思いで訴えるヨブの心にとって、いちばん欲しかったのは弁護者、傍らにいてくだる者であったと思います。ヨブは、真実に自分の弁護者になる者を求めました。このヨブの信仰の祈りが、やがて、第19章25節以下の、あの深い言葉となります。「わたしは知っている/わたしを購う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見る/ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」。このような深いヨブの言葉を生み出した人びとの信仰の心を主イエスは深く見抜いておられたかのように、弁護者を神が呼んでくださる。
 新共同訳になり、口語訳では「別に助け主」となっていたのが、「別の弁護者」となっています。新共同訳でもっとはっきりしたのは、この新しい弁護者に先立ち、既に弁護者がいてくださったということです。主イエスご自身のことです。これまでは、弟子たちはひとりで戦わなくて済んだ。主イエスが先頭に立って戦ってくださった。わたしがいなくなる。わたしとは別の弁護者を送ってくださるように神にお願しよう。そのように、主イエスはここでおっしゃってくださっています。そしてそれが他ならぬ「聖なる霊」です。
 讃美歌の460番という、よく知られている讃美歌があります。「やさしき道しるべのひかりよ」と歌い始めます。この曲を作ったのはジョン・ヘンリー・ニューマンという1801年に生まれて1890年に亡くなった英国の神学者です。このニューマンの日本語の説教集の書名『心から心へ語りかける』というのは、この人の墓碑銘です。
 ニューマンはその説教の中でたとえばこういうことまで言います。「聖霊はキリストが地上におられたときには、まだかくしておられたことを啓き示すために来てくださいました」。なるほどと思いました。子どものとき、イエスさまが見えればいいのにと何度思ったかしれません。弟子たちに地上に生きておられた間の主イエスが見せてくださったものよりもっとたくさんのものを私たちに見せてくださるのだと。それが、「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」という主イエスの約束の意味するところです。
 世はまだこの真理を知らない。しかしその知らない世に主イエスこそ道であり、真理であり、いのちであると伝えるためにも、あなたがたは真理の霊が今与えられている。勇気を持ちなさい。目を開きなさい。あなたがたは弟子たちよりももっと確かに、傍らにある者としての神ご自身と共に生きることを許されているではないか。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」。これほどに愛を注いで私たちのために祈ってくださる主イエスを、私たちが愛さないことはない。ありがたいことです。
 どうぞ皆さま一人ひとり、どんな状況にあっても自分はただ独りだと思わないこと、それがゆるされていることを心深く刻んでいただきたいと思います。むしろそこで、私は独りぼっちだと思うことは、この主イエスのみ言葉に背く罪です。これは罪なのだとさえ言える恵みがここにある。このことを改めて感謝したいと思います。お祈りいたします。
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by higacoch | 2016-05-28 15:00 | ヨハネ福音書

2016年5月15日

 「神の霊が注がれる」 ヨエル書2:27-3:2、使徒言行録2:1-11
                                     香月 茂 牧師

 ペンテコステは教会の誕生日です。私は、今日の説教題を「神の霊が注がれる」としました。「神の霊が注がれた」とはしたくありませんでした。ペンテコステを今から2千年ほど前の出来事、教会の誕生日、それはずっと前の過去の出来事、それだけと受け止めて欲しくなかったのです。聖霊が「注がれた」と過去の出来事としてではなく、「注がれる」と現在進行形で理解して頂きたいのです。聖霊の働きを過去のことしてではなく、今も続いていると受け止めて欲しかったのです。現にそうだからです
 聖霊が注がれるということはどういうことなのかと考えてみたいのです。神が聖霊を注がれ、注がれた弟子たちはどう変わったのか、そこに注目してみましょう。弟子たちは注がれる前と後では、違います。大きく変わりました。以前は、人々の前で語ることはありませんでしたが、聖霊を注がれると、弟子たちは大胆に語るようになりました。「神は、イエスを死の床から復活させたのだ」と、キリストの福音を語りました。その福音が、聞いた者たちの心の奥までにしみこんでいき、彼らの心を動かしたのです。そして「自分たちは、どうしたら、いいのでしょうか。」弟子たちに聞いてきました。そこでペトロは、「キリストの名によって洗礼を受けなさい。」と勧め、彼らは、それを受け入れて、進んで洗礼を受けました。その数は6000人ほどであったとあります。こうして信仰者が与えられて、その結果、教会が誕生したのです。
 話は変わりますが、先週の日曜日の礼拝後に、5月生まれの方々をお祝いする誕生日会を行いました。そうした誕生日会で、私は、誕生日を迎えた時の感想を、ある出来事を体験して、変えられたことを何度もお話ししています。それは、悲しい出来事でした。私は妻と結婚し、翌年に長女が与えられました。その長女が2歳の誕生日を迎える1ヶ月前に突然、亡くなりました。特別伝道集会に来られたよその教会員の方が、お土産にピーナッツを持って来られました。その4日後に、娘は小さな手にピーナッツを持って、それを食べ、喉に詰まらせ窒息しました。一人娘の死は私たち夫婦にとって耐えがたい悲しみでした。泣いて日々を過ごしました。そんな悲しみの中で、長男が与えられて育ち、そして2歳の誕生日を迎えた時、本当に言いつくせないほどに嬉しかったのです。これは言い合わせたわけではありませんが、妻も心から神様に感謝しました。何しろ、娘が2歳になる1ヶ月前に亡くなったからです。ですから長男が2歳の誕生日を迎えた時、「ああ、神様、長男を2歳まで生かしてくださり、ありがとうございます。」と深く感謝を捧げました。そして、こうした体験を通して、私も変えられました。翌年2月に、私の誕生日(38歳)を迎えました。これまでは、「○○歳の誕生日、おめでとう」と言われても、てれなどもあって、さほど特別な思いを持ったりしませんでした。しかし、この時から「神様は、私を38年間、生かしてくださった。38年間も守り、支えて、生かしてくださり、本当に、ありがとうございます。」と思うようになりました。こうした経験から、教会で行う月の誕生日会の時に、「誕生日で何歳になったなら、その年齢の数は生かされて年数ですよ。」と言うようになりました。ただ「何年生きたではなく、生かされた年数なのだ。」と。
 今日はペンテコステ、この日は教会の誕生日です。私たち一人一人がそうであるように、教会も2千年近く生かされてきたと言えます。そして私は「聖霊が注がれた」と言わないと言いました。「聖霊が注がれた」と言って、教会の誕生を2千年前の過去の出来事として受け止めたくないからです。聖霊が注がれるという出来事は、決して過去の出来事ではなく、現在進行形です。聖霊が注がれる、今日も注がれているし、これからも注がれていきます。そのことを、私は、現に見ています。聖霊が注がれることによって教会が生まれたように、今も教会が生み出されているからです。教会が生み出されているのですから、そこに聖霊が注がれている確かな証拠があります。ここ東小金井教会も今年も7月26日を迎えると、52年目の誕生日を迎えます。52年前に教会が誕生したのではなく、52年間も神様から守られて、教会が生かされていると受け止めていきたいのです。その間も、信仰を告白する方が途切れることなく与えられていることは、聖霊がその方々に注がれているということです。信仰者が起こされるところには、人間の業がなされているのではなく、聖霊の業が為されているのです。教会に聖霊が注がれて祝福されているのです。
 私たちもこれからも聖霊を求めて歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2016-05-21 17:59 | 使徒言行録

2016年5月8日

「いのちの流れの発見」    エゼキエル47:1-12、ヨハネ福音書 7:37-39
                                         関 伸子 牧師

 「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」と、今日私たちに与えられている聖書の言葉は始まっています。この「祭り」というのは、仮庵祭という祭りのことです。祭りというだけでも当時のユダヤの人びとは仮庵祭を考えたそうです。それほどにユダヤの人びとにとって大きな祭りであった仮庵祭の最高潮に達した時、ということです。
 「仮庵」という古風な言葉が新共同訳にもの残っていますけれども、ここは思い切って仮小屋祭と訳してもよいところです。ある人の文章の中にこんな言葉を見つけました。「祭りの間七日間、毎日朝になると祭司は神殿の丘を下りシロアムの池に行く。水がわき出ていたところのようです。大群衆に囲まれてのことである。そこに湧き出る水、聖なる水を黄金の桶で汲む。そこで神殿の音楽が奏される。祭司は「水の門」と呼ばれている門を通って神殿に戻り、犠牲を献げる祭壇にこの水を注ぐ。これらすべてはイスラエルの民が荒野を旅している間に岩からほとばしり出る水をもって養われたことを記念するのであり、更には、イザヤ書第44章3節の言葉、「わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える」というみ言葉が成就する日を指し示すものである。シロアムの池で、神殿で、この荘厳な儀式が続く間、群衆の間に歓呼の声が絶えなかった」。
 喜びの祭り、しかもその最高潮の時です。だれが渇いているのでしょう。祭りというのは満ち足りているものです。その中で主イエスが「渇いている者は」と呼びかけられる。何を意味するのでしょうか。明らかなことは、主イエスがこの祭りのさなか、誰もが本当は飢え渇いていることを知っておられたということです。
 38節の「聖書に書いてあるとおり、その人」というのは、いったい誰のことでしょう。新共同訳では、わたしを信じる者、すなわちキリスト者と呼んでおり、そう読むのが自然です。しかし、「彼」、「その人」と呼ばれるのはもうひとりおられる。主イエス・キリストのことではないかとも読める。それは、「生きた水が川となって流れ出るようになる」存在とは、われわれではなくてイエス・キリストではないかと考えざるを得ないからです。
 「聖書に書いてあるとおり」というと旧約聖書に書いてあるように、ということです。どうしても開かざるを得ないのはまずエゼキエル書題47章1節以下です。これは預言者エゼキエルが夢見た救いの現実が起こったときの光景を幻のうちに見るところです。どんどん水が増えていく。その水の源は「神の住まい」「神殿」です。これに合わせてもうひとつ、ゼカリア書第14章8節を読みます。「その日、エルサレムから命の水が湧き出て/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流続ける」。これはエルサレムの都、神の住んでおられる都です。預言者たちはいつも大きな幻を見た。今われわれをなお生かしているいのちの流れが、やがて神の宮がある都エルサレムから流れ出る時がくる。今、その神の宮に主イエスが立っておられる。立っておられて、「その人の内から」と言われました。そうなると「その人」というのは主イエスご自身のことだと考えることができます。エレミヤ31章12節には、こういう言葉があります。「その魂は潤う園のようになり/再び衰えることはない」。「潤う園となり」という言葉で慰めを知り、私たち自身がそのように潤いの源、潤いの園として生かされるようになるのです。仮庵祭は、一方で滅びを意識するものでした。自分の死を意識して、イスラエルの民を、神が与えてくださった「岩からの水」が救ったように、今われわれを救ってくださるための生かす水を求める。
 大切なことは飢え渇きを知っている者はだれでもいい、わたしのところに来なさいと、主が招いていてくださるということです。巧徳を積めとは言われません。他の何も難しいことを言われません。ただひとつのことだけを言われる。だれでもいい。渇いている者は「わたしのところに」来なさい。わたしを信じなさい、と言われるのです。ただそこで牧師も音楽も何もかもが指し示すことは、主イエス・キリストこそわれらのいのちの水ということです。あの方の全存在から溢れ出てくる〈いのちの水〉にあずかろうということです。それだけです。他に何もすることがないのです。
 ヨハネ福音書はこの主イエスの約束を書いたあとでこう言いました。「イエスは御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について行われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである」。栄光を受けるということは主イエスが十字架につけられ甦られる、その時の勝利の栄光を意味します。その時に主イエスに栄光の勝利が与えられる。そしてその主イエスのすべてのわざが終わった時に、私たちに主イエスの全存在から流れ出るいのちの水、即ち「霊」が私たちを生かすものとして住むようになる。
 ヨハネ福音書も聖餐にあずかり続けた教会が生んだ言葉です。これらの人びとが、聖餐を祝ったのは、どのような場所においてであったか分かりませんし、どんな器を使っていたかは分かりません。黄金の器などもなかったでしょう。粗末な土器を用いてのことであったかもしれませんけれども、パンを焼き、それを分け合い、ぶどう酒の杯を分け合うときに、ああ、生けるいのちの水、生きておられる神の霊が今私たちを浸すと知ったのです。どんなに深い悲しみの中にある方でもここへ来てください。主イエスがそうおっしゃっているのです。神の約束の通りに神の霊はあなたをも満たす。どうぞそこに立ってほしい。これがヨハネ福音書がこの主イエスの言葉を書き記した信仰であるし、私たちをも今生かす大きな確信です。そして、それだけあれば私たちは確かな歩みを続けることができるのです。詩編第63編7節にあるように、今夜床に就くとき、み名を唱え、祈りを口ずさんで、夜を過ごすことのさいわいを知ることができますように。お祈りいたします。
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by higacoch | 2016-05-14 17:15 | ヨハネ福音書

2016年5月1日

「イエス様が教えてくださった祈り」   詩編95:1-11、マタイ福音書6:8b-15
                                          香月 茂 牧師

 今朝は、礼拝ごとに祈る「主の祈り」についてお話しします。この祈りは「主」の祈りというように、主イエス様が教えてくださったオリジナルの祈りです。歴史上の誰かが編集した祈りではありません。イエス様が弟子たちに請われて教えられた祈りです。(ルカ福音書11章の祈りが原型とされています。)
 当時、偉大なる先生のもとには、必ず何人かの弟子たちがいました。このような小さな集団が幾つもありました。そしてそれぞれの集団は独自の祈りを持っていました。その中の一つがイエス様を中心にした弟子たちの集団でした。ですから、ある弟子が「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください。」(ルカ11:1)と願ったのです。当時のユダヤには、祈りに熱心な集団、ファイサイ派と言われた集団がありました。彼らは18連祷と言う18個の祈りによって熱心に祈りました。しかも彼らは、目立ちたがり、わざわざ人が集まる広場、今で言うなら公園などで、自分は信仰深いということを示そうとするかのように長々と祈りました。イエス様はこうした長い祈りを短くして、弟子たちに教えられました。イエス様は「くどくどと祈るな。長ければ良く聞かれると云うものでもないのだ」とも言われています。
 このイエス様が教えてくださった祈りは、弟子たちによって伝えられ、教会にとって重要なものとなっていきました。それは教会の歴史を見れば、良く解ります。
 イエス様が十字架にかけられ、三日後に復活されて、復活の命を弟子たちやほかの人たちにも現した後に、天に昇られました。その直前に、イエス様は弟子たちに命じられました。「あなたがたは出かけていって、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」と。ここで重要なことは「すべての民を私の弟子にすること。命じておいたことを教えること」です。ここで「命じておいたこと」を原語から直訳すると「教えたこと」になります。だから、洗礼を授ける時には、「教えたこと(主の祈り)」を教えなければならないと考えられました。弟子の時代、古代、中世、宗教改革の時代もそうでした。ルターも教えました。大人の人たちに、子どもたちにも教えました。またカルヴァンも同様に「主の祈り」を熱心に教えました。また近代に入って、わたしたちの長老派教会でも必ず教えました。その重要な信仰書を、教理問答集とも言います。こうしたことは、今、私たちが大切な文書として、カンバーランド長老教会でも持っています。
 「主の祈り」は、これまで学んできたように、どの時代にも、現代の主の祈りの言葉が、求道者の学びに用いられ、その後に、求道者は洗礼を受けていきました。このように、主が教えてくださった祈りは、かつて教えられたように、今も教会によって教えられています。
 最後に、イエス様が教えてくださった祈りの6つの中で、最初の3つを学んで終わりたいと思います。1番目の祈り、神の名があがめられますように、2番目、御国がきますように、3番目、御心が行われますように、天におけるように、地の上にも、とあります。今の日本の行く末を思う時に、特に、平和憲法が為し崩されようとしている中で、これらの祈りを熱くしたいと願っています。神の御心が天で行われるように、人の世である地でも行われるように、と祈り求めていきたいものです。主イエス様が平和の王として来られたように、主にある平和の国を創る歩みをしていきたいと祈り求めます。
 そしてこうした祈りの言葉は将来に向けての祈りです。前向きです。御国が来ますようにと祈られていることから、主の祈りは、ある時を目指して祈られています。それは、主イエス様がこの地上に再び来られる時、再臨の時です。その時は、この世の完成の時です。こうしたことを考えますと、「主の祈り」を、一言で言い表しますなら、教会が祈り続けてきた「マラナ・タ」です。「主よ、来たりませ。わたしたちの主よ、来てください。」と祈るこの一言に尽きるのです。わたしたちも主の祈りを祈り、御国が来ますようにと、祈り続けていきましょう。
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by higacoch | 2016-05-07 16:12 | マタイ