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2016年4月24日

「真理に生きる」    ゼカリヤ 7:8-14、 ヨハネ福音書 15:18-27
                                          関 伸子 牧師

 4月からこの教会に準牧師として就任して、みなさまとともに礼拝をささげる恵みを感謝します。隔週の主日礼拝でヨハネによる福音書を読みます。このヨハネによる福音書は第13章からずっと同じ夜に語られた主の言葉が書き留められています。ずいぶん長い間主イエスは語っておられます。イエスを裏切る決意をしたユダがもう出て行きました。イエスを捕らえて裁判にかけるために改めて夜の会議が行われていたかとも思います。
 ゼカリヤ書第7章を読みました。ここにこう語られています。「心を石のように硬くして」。主イエスを捕らえる決意をした人びとのこころをよく言い表しています。教会は主イエスが十字架につけられ、殺されてしまったということが、私たちの救いになっていると信じています。しかし、なぜイエスは殺されたか。このことは、いつまで経っても、私たちにとって説明の必要はないほど分かりきったことになるということはありません。
 裁くということは真理の名において行われるものです。ゼカリヤ書も9節にこう言っていました「正義と真理に基づいて裁き/互いにいたわり合い......」。そのような正義と真理に基づく裁きが行われるべく定められていた神の民イスラエルの裁きの場所、ローマ帝国の裁きの場所において、主イエスを裁く裁きが行われていたのです。このヨハネによる福音書は、第18章38節に、裁く者のひとりピラトの言葉を記録しています。「ピラトは言った。『真理とは何か。』」。明らかにピラトは真理が分からなかった。「真理とは何か」という問いは、「あなたはいったい誰か」という問いでもあったと思います。
 主イエスと共に、この日、静かな夜を経験していた弟子たちは、主イエスの真理の言葉を聴いています。しかし、このあと弟子たちは逃げました。弟子たちがはっきり真理の言葉を語り始めたのは聖なる霊が注がれたときです。主イエスはこう約束してくださったのです。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証をなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」。「弁護者」と訳されている言葉は、口語訳では〈助け手〉と訳されていました。もともとは、呼ぶとそばに来てくれて助けてくれる者という意味です。弁護士こそ、そういう助け手の代表的存在です。自分が言葉を失っても、弁護士は言葉を失わない。弁護士がそばにいてくれれば立つことができる。ここで主が約束される「弁護者」は、そのような存在です。
 真理とはこれだということを正しく証しすることができる言葉と力とを、必ず父なる神が送ってくださる。父の神の霊がそばに来てくださるとの約束です。キリストの教会は、この真理の霊が来てくださったとき、遂に立ち上がった弟子たちが真理の証しを語り始めたとき、初めてその道を拓くことができました。この夜、主と共にあった弟子たちの多くは、その地上の最後の日を、主イエスと同じように、地上の権力によって裁かれ、その力によっていのちを奪われて迎えるのです。そして、この「殉教」を意味する言葉と「証し」を意味する言葉とが、ひとつの言葉となりました。英語やドイツ語で、殉教、あるいは殉教者を言い表す言葉は、もともとギリシア語で、証し、あるいは証人を意味する言葉なのです。私たちは毎日、多くのことついて判断し、決断しなければならないことがあります。私たちが重ねる無数の判断のなかで、健康を損なおうが何が起ころうがこれは真理なのだから私はこう言い、こう行動する、ということをどれだけきちんと行っているでしょうか。
 1994年にドイツ大統領の地位を退かれたフォン・ヴァインゼッカー先生は1980年の講演のなかでこう語っていました。今われわれドイツ人は恵まれた環境にあって、何を考えているかというと、「自己実現という人生哲学によって」自分の歩みを定めている。しかし、私たちはそれで生きては行かれない。なぜかと言えば真理が見えてはいないからである。そういわれるのです。
 真理と訳されているギリシア語は、本来「隠れる」あるいは「隠す」という意味の言葉が基になっています。この「隠す」という言葉に、否定の意味の言葉が頭につけられています。真理とは隠れなきもの。ひとは真理を隠さない。
 ヘブライ語で真理を意味する言葉、それは、私たちが祈りにおいて用いる「アーメン」という言葉と親戚であるという説明を読んだことがあります。なるほどと思いました。自分が語る言葉は間違いのない真実の言葉であるというときに、アーメンと言います。主イエスは、ご自分が真理を告げるときに、しばしば、「アーメン、アーメン」と言って語り始められました。そのように聖書において真理というとき、それは「信頼してよい事実」、「信頼してよいほんとうのこと」です。信頼してよいということは、この真理によって生きれば生かされるということでしょう。絶望することはなくなるということ、無駄な生き方をしないですむ、ということです。
 真理はひとを生かす。主イエスは言われました。「真理はあなたたちを自由にする」。第8章32節に記されている御言葉です。またヨハネによる福音書は最初に書きました。神の独り子、主イエス・キリストはひととなってくださった。私たちは既にそのみ子の栄光を知る。そしてそれは「恵みと真理とに満ちていた」。第1章14節です。
 主イエスを裁くために集まっていた人びとの顔は、どんなにこわばっていたことでしょう。そしてそのなかにありながら、主イエスは、どんなに穏やかな、柔和な顔で、平和に満ちた声で、このみ言葉を語ってくださったことでしょうか。教会は、この主の言葉と約束とによって生かされ続けているのです。私たちはこの恵みにあずからせていただくことを、さいわいなこととしたいと思います。お祈りをいたします。
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by higacoch | 2016-04-30 16:44 | ヨハネ福音書

2016年4月17日

「一つの体となるために」 詩編 136:1-9、Ⅰコリント 12:1-13
                                         香月 茂 牧師

 先週はKC-NET(小金井市内8教派、11教会の共同活動)のことで忙しい日々を過ごしました。今年も5月29日にはKC-NETの「一致祈祷会」があります。例年100名以上の方々が集まって祈りを捧げます。
 イエス様は十字架にかかる前夜に長い祈りをされました。(ヨハネ福音書17章参照)その中で弟子たちによってイエス様を信じるようになった人々が「一つになるように」と祈られています。このことを覚えてわたしたちKC-NETもキリストにあって一つとなって活動していこうと祈り会を重ねてきました。2014年以来、祈祷会は二つとなり、「一致祈祷会」では11教会が一つの教会に集まって国のため、市内への福音伝道、KC-NETの働きと教会間の交わり、市内の外国人と差別や困難に苦しむ人たちのため、東日本大震災の被災者のために、祈りを合わせてきました。もう一つは「巡回祈祷会」で11教会を回って、それぞれの教会の祈りの課題を取り上げて祈り合っています。
 私は2013年の「一致祈祷会」で説教をさせて頂きました。1938年(昭和13年)小金井村に初めて福音の種がまかれてから75年目の年で、最初の日本基督教団小金井教会がその節目の年に新会堂を建設しました。それも併せての「一致祈祷会」でした。私は75年間に建てられていった10教会の一つひとつの教会の歴史を短くまとめて語り、その後、イエス様の「一つとなる」祈りについてお話ししました。短くまとめますと、ここでイエス様が「一つになる」ようにと説教されたのではなく、祈られたことはとても重要なことです。一つになることは、人間の力、自分たちの力と知恵でできるものではありません。「一つになる」にはどうしても神に祈り、神の力が必要なのです。もし人の知恵や力で「一つになれる」と考えるなら、それは幻想にすぎないのではないでしょうか。弟子たちのため、その後の信仰者のために、「一つとなる」ように、イエス様が執り成しの祈りしてくださったことを忘れてはならないし、私たちも同じように神の導きを祈り求めていかないといけないと加えてお話をしました。
 さて、今朝与えられましたコリントの信徒への手紙一の12章12節、13節に「一つ」が述べられています。「体は一つでも多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと、自由な身分のものであろうと、皆一つの体となるために、洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。」とあります。「体の部分は多くあっても体は一つ」というたとえは、実に解りやすい教えです。私たちみなに頭、首、胸、腕、手、足があり、それらが有機的に連結していることをよく知っているからです。それぞれの部分はレゴのように、つながりがない一部品ではありません。体の一つひとつの部分は、なくてはならない部分であり、血が通っています。このたとえで、伝道者パウロは、「この体は、キリストの体であり、教会だ」と教えています。そして、各部分は、神からそれぞれに霊の賜物を頂いており、それによって生きて働き、結び合っていると言っています。それは知恵の言葉、知識の言葉などであり、それらを神から頂いていない人はいません。そうした賜物を生かして結び合うことによってキリストの体が成長していくと言うのです。そして、キリストの体は、ユダヤ人であろうと、ギリシア人であろうと、奴隷であろうと、自由人であろうと、そうした民族や社会的な地位の違い、さらに男であろうと、女であろうと、一切関係なく、キリスト・イエスにあって一つだと言い切っています。つまり、一人ひとりは、神からの賜物によって、一つとなるようにされていると語っています。
 今朝の箇所に続く所では、体の部分が互いに言い争い、お前なんかいらない(21節)と言う排除の論理が生じてしまうなら、キリストの体である教会は、ばらばらになっていくでしょう。そうではなく、むしろ体の中で、弱い部分、目立たない部分こそが大切にされ、その弱い部分を思いやることによって組み合わされていくことこそが、まさにキリストの体作りになくてはならないのです。人間的な思いではなく、神の御旨をもって作り上げられていかなければなりません。効率や、成果に重きをおく人間的な体作りでは、キリストの体を作り出すことはできません。わたしたちは、神の御旨に叶うように、キリストにあって一つとなるように祈り求めていきましょう。
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by higacoch | 2016-04-23 12:19 | コリント

2016年4月10日

 「上にあるものを求めなさい。」詩編116:1-14、コロサイ3:1-11
                                        香月 茂 牧師

 私は4月5日に市内の「憲法9条を守る会」の方々と日帰りのバス旅行をしました。茨城県の土浦にあります「予科練平和記念館」に行き、ガイドさんの説明を受け、展示品を観て改めて感じました。戦争は人を殺し、殺されることだと痛感し、戦争を決してしてはならないと感じて帰ってきました。その帰りのバスの中ですばらしい歌を紹介して頂き、皆で歌いました。それは、東日本大震災で甚大な津波の被害を受けた岩手県の釜石小学校の校歌です。
①いきいきいきる。いきいきいきる。ひとりでたってまっすぐいきる。こまったときは、めをあげて、ほしをめあてにまっすぐいきる。いきあるうちは、いきいきいきる。
②はっきりはなす。はっきりはなす。びくびくせずにはっきりはなす。こまったときは、あわてずに、にんげんについてよくかんがえる。かんがえたなら、はっきりはなす。
③しっかりつかむ。しっかりつかむ。まことのちえをしっかりつかむ。こまったときは、てをだして、ともだちのてをしっかりつかむ。てとてをつないで、しっかりいきる。」
 私は、本当に、いい歌だなあ、そして、すごく現代的だなあと思いました。でだしに「生き生き、生きる」とあり、そして3番とも「困った時は」と繰り返されます。「困った時には」どうするか、1番は「目を上げて、星を目当てに、まっすぐに生きる」、2番は、あわてずに、人間について、良く考える」、3番は「手を出して、ともだちの手をしっかりとつかむ」とあります。そして、それぞれ、生き生き生きる(1番)、はっきり話す(2番)、しっかり生きる(3番)と歌い終わるのです。この歌は、平成15年に近くの小学校と統合した際に、井上ひさし氏作詞、宇野誠一郎氏作曲によって作られました。
 私は人間のことを思い浮かべました。聖書の言葉であるギリシア語では、人間を「アンスローポス」と言います。この言葉は「顔を上へ向けて生きるもの」という意味で、権力者の入れ替わり、価値観の変化などの地上の移り変わりに目を向けて、生きるのではないのです。時代を超え、国を超えて、変わらない真理に求めて生きる存在こそが人間だということです。
 さて、今朝のコロサイの信徒への手紙の2節には、「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」とあります。キリストに出会う前は地上に目を注いで、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、貪欲な生活をしていて、心は死んでいた状態であったが、今やキリストを信じたのだから、生き生きに生きていきなさいと勧めています。以前のような、怒りや悪意などを捨てなさい、互いに嘘をついてはいけませんと教えています。あなたはキリストを信じる人間として、新しく生きるようになりなさいと言っています。日々聖書の御言葉から学び、あなたは、新しくされるのだと。そのように生きていく時、そこでは、人種の違い、民族の違い、国の違い、身心障害の違い等の優劣や、上下関係とかの差別は一切ありません。またそこには、敵、味方で分かれて、戦争して殺し合うことなど考えられません。釜石小学校の校歌にあるように、困った時には、手を出して友達の手をしっかりとつかみ、手と手をつないでしっかりと生きるのです。互いに信頼し、思いやり、助け合って生きることです。人間が顔を上に向けて生きるとは、神様に祈ることでもあり、神様に祈り求めて生きることを含んでいます。
 最後に、11節の「キリストが、すべてであり、すべてのものの内におられるのです。」という言葉を学んで終わりたいと思います。すべてのもののうちにキリストがおられると云うのは、すべての人がキリストの祝福にあずかっているということです。ここにいる人もいない人にも祝福が与えられているのです。ここにおられ、キリストへの信仰が与えられているのは、キリストによって先に信仰が与えられているのであって、人よりもすぐれているからとか、信仰深いからなのではありません。キリストが憐れんで祝福をくださっただけなのです。自分の側に、信仰を与えられる根拠があったからではありません。ただただ神様の一方的な憐みがあっただけなのです。ここにおられる方と、ここにおられない方との違いは、ただ一つだけ、キリストの祝福を知っているか、知らないかの違いだけです。ここに初めて来られた方々には、あなたにもキリストの祝福が注がれていることを知って頂きたいのです。そして、キリストを信じて生きていくために、求道の歩みをして頂きたいのです。上にあるもの、それは、キリストが、あなたを愛し、あなたに祝福を与えておられることを信じて生きていって頂きたい。釜石小学校の校歌を作詞した井上ひさしさんは、信仰者です。ですから、心の深い所で「いきいき いきる。一人でたってまっすぐ生きる」と言う歌詞に、一人ひとりの子どもたちが、上にあるものを求めて、生きて欲しいという願いを持っていたのでしょう。ぜひ、皆さんも神様に目を向けて、まっすぐに生きていって頂きたいのです。
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by higacoch | 2016-04-16 13:48 | コロサイ

2016年4月3日

「復活の証人」 イザヤ書65:17-25、使徒言行録13:26-32
                                        香月 茂 牧師

 主イエス様の弟子たちは、復活したイエス様にお会いできた後、すぐに伝道したわけではありません。出会っただけで、イエス様の復活を大胆に宣べ伝えて、復活の証人になったのではありません。復活を知ったので人々に伝道したのではないのです。その点を注意しながら聖書をもう少し、丁寧に読んでいきましょう。
 今朝与えられた使徒言行録は、ルカ福音書を書いたルカが書いたと言われています。この二つは続き物で、第一部がルカ福音書、第二部が使徒言行録だと言われています。ですからルカ福音書の最後の章は、使徒言行録の1章と重ねて書かれています。復活したイエス様が弟子たちの所に現れて声をかけ、手や足の傷口を見せられていますが、それでもまだ弟子たちはイエス様の復活を信じられずにいました。そこで、イエス様は焼き魚を食べて見せられ、弟子たちの心の目を開かれてから、「あなたがたは、これら(十字架の死と復活の出来事)の証人となる」と言われました。その後、天に昇られました。そこで、ルカ福音書は終わり、その続きが使徒言行録の第1章にあります。イエス様は、復活した体を弟子たちに現された日から40日にわたって、その体を示し、神の国について語られました。その後にイエス様は、聖霊の約束を与えて「あなたがたは、わたしの証人となる」と言われています。注意したいのは、イエス様は、復活した体を示してからすぐに「あなたかたは、証人になった」と言われていません。「なった」ではなく「なる」と言われました。これは、復活の体を現されたその時ではなく、その後、将来弟子たちが復活の証人と「なる」と云うことです。復活したイエス様を知っただけでは復活の証人に成り得ませんでした。知っただけでは不十分でした。では、何が必要だったのでしょうか。それは神の霊、聖霊だったのです。聖霊の力によって、弟子たちが「知る」ことから「信じる」となることが必要だったのです。
 今朝の使徒言行録の6章には、イエス様の復活が、ある日突然に起こったと云うのではなく、長い歴史の中で預言者たちによって預言されてきたと書かれています。そして最後にイエス様が神様から遣わされてきました。すると、それまでと同じ様にユダヤの指導者たちは、イエス様を捕え、苦しみを与え、ついには十字架の上で殺害しました。それがまた不思議なことですが、この出来事によって、預言が成就したのです。しかもイエス様の死ですべてが終わったのではありません。神様がイエス様を死者の中から復活させてくださいました。救いの出来事の約束が、イエス様の死と復活によって成就したのです。神様は、ずっと以前から人間を救おうと願い、計画し、実現してくださいました。ですから、イエス様の復活は、神様の愛の集大成なのです。
 最後に、主イエス様の弟子たちが復活の証人となったことを深く受け止めたいのです。彼らは、復活したイエス様と何度も会い、その姿を見ていながら、それだけでは、復活の証人となれませんでした。その後、弟子たちが聖霊を頂くことによって、復活の証人となることができました。これはイエス様が神様によって復活させられたように、彼らも神様の霊によって復活させられたと言えるのではないでしょうか。イエス様の十字架の死後、彼らは希望を失い、絶望の中で死んだも同然でした。そんな弟子たちが、イエス様の復活後、さらに聖霊を頂いて力を得、起き上がりました。以前はユダヤ人を恐れて部屋に閉じこもっていたのですが、今やユダヤ人を恐れず、大胆にイエス様の十字架の死と復活を宣べ伝えるようになったのです。これはまさに、弟子たちの復活体験と言えるでしょう。神様は人の知識や知恵だけでは、復活を深く知ることができないことをご存知でした。だから、弟子たちに聖霊を注いで、力を与えられました。それは、まさに復活を信じる力であって、彼らをイエス様の復活の証人としていきました。彼らは、死から新しい命に生かされて、ユダヤの人々に説教しました。
 主の弟子たちも伝道者パウロも、イエス様の復活の証人とされたように、私たちもそうされているのです。わたしたちも神様から聖霊を頂いているのですから、復活の証人として歩み、まだイエス様の救いを知らない人たちに、復活され、今も生きておられるイエス様を伝えていきましょう。
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by higacoch | 2016-04-09 18:18 | 使徒言行録