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2016年3月27日

 「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」 
                          出エジプト14:15-22、ローマ6:3-11
                              
 皆さんと共に、イースター主日礼拝をささげることができたこと、心から嬉しく、神様に感謝します。最近では日本でも少しずつイースターが知られてきているのを感じます。これは一面では嬉しいのですが、クリスマスと同じように、お祭り気分で過ごすだけになってしまうのではと心配でもあります。
 それよりは、キリストを知っている人、私も含めて、受難週にイエス様の受難を覚えて、自らの罪を悔い改め、祈りの時をもつということが少なくなってきているように思えます。苦しいことやつらいことを避けたがる私たちになってきているのではないでしょうか。それにつれてイースターの喜び、イエス様の死からの復活に対する喜びが薄らいできているように思えます。主の十字架の苦しみの意味、それに対する感謝も解りにくくなってきているように思えるのです。このままでは、教会の内側の切実な問題となってくるし、外に向かってもイエス様の復活の喜びを伝えられなくなるでしょう。伝道の停滞、そして減少につながっていくでしょう。このことを考えると、私たちがキリストから頂いた恵みを、もう一度、しっかりと受け止めなければなりません。なぜならキリストの恵みは、すべての人に与えられているのですから、先に救われた者はそれを伝える務めが与えられているのですから。キリストの復活の喜びを伝えることができるのは、教会以外にはないのです。小さくても教会(わたしたち)が伝えていかなくてはなりません。
 さて、今朝与えられた箇所には「キリストと共に死んだなら、キリストと共に生きる」(ローマ6章)とあります。これは、私たちの死の時に、キリストと共に死に、キリストと共に生きると語られているのではありません。ここには将来の死や復活のことが語られているのではなく、過去の一回限りの洗礼の出来事に集中して語られていて、この洗礼において「キリストによる出来事」が示されています。それがよく解るのが「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるようになりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から、復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるため」(4節)とあります。ここに示されたように、わたしたちは洗礼の時にキリストによって死んで、キリストによって新しい命を与えられ、生かされているのです。
 信仰者が「キリストと共に死んだ」というのは、別の言葉でいえば、以前の生き方を捨て、その生き方に別れを告げたということなのです。そして、「キリストと共に生きる」というのは、キリストによって救われ、新しい命に生きると云うことであり、キリストによって神の子とされ、その身分を与えられて生きていくということです。もはや、キリストの恵みが消えることはありません。キリストの恵みのないところで生きることではないのです。洗礼と共に、キリストのものとされているのですから。
 ローマの教会に集まる人たちの中には、「神様の恵みをたくさん頂くためには、以前の罪人として生きる方がいい」(1節)と言いだしている人がいたのでしょう。これに対して、パウロは「断固、そうではない」「どうして、なおも罪の中に生きることができましょうか」と強く否定しました。「キリストが十字架で死んでくださったのは、あなたがたの救いのために死なれたのであり、キリストが復活して生きられたのは、キリストがあなた方の罪を贖ってくださったことの証拠なのです。以前に戻って、神様の恵みをもっと頂くというのなら、それはキリストをもう一度十字架にかけて殺すことであり、父なる神が為してくださった救いを全く受け止めていないことです。」「キリストは、ただ一度、罪に対して死なれたことであり、そのたった一度で、わたしたちの罪の贖いを成就してくださった。」とパウロは言いたいのです。復活されたキリストを信じて洗礼を受けた者が、キリストと共に新しく生かされ、しかも常に新しい命に生きるようにされているのです。パウロは最後に結論として「自分は罪に死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(11節)と言っています。
 わたしたちも、キリストがただの一度、わたしたちの罪の贖いのために、自らの命をささげてくださったことを、しっかり心に受け止めて、洗礼を受けているのですから、新しい命に生きていく者となれるようにと祈り求めていきましょう。以前に洗礼を受け、信仰生活に慣れきってしまい、常に新しく生きることを忘れがちになっているのなら、聖霊を頂くようにと祈り、聖霊によって新しくされることを求めて生きていきましょう。
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by higacoch | 2016-03-31 15:33 | ローマ

2016年3月20日

「罪を除くために現れた方」  イザヤ書35:1-10、Ⅰヨハネ3:1-10
 

 現代のカトリック教会は1962年から65年まで行われた第二バチカン公会議の決議によって大改革しました。礼拝をラテン語からそれぞれの国の言葉で捧げるようになり、また教会を上からではなく下から、つまり教皇からではなく信徒から考えるようになりました。ですから、カトリック教会の「教会憲章」の第1章「教会の秘儀について」に続いて、第2章に「神の民について」の教えがあります。
 さて、今朝の聖書箇所の「神の子たち」はカトリック教会が示している「神の民」に通じるものです。ただ、今朝の箇所には「神の子たち」ばかりではなく、「神の子」という言葉も出てきます。普通でしたら、「神の子たち」の一人が「神の子」となります。信徒の方々を「神の子たち」と呼び、一人である「神の子」は、当然信徒の一人を表すのです。ですが、ここでの「神の子」には、二つが考えられています。一つは「信徒」で、もう一つは「イエス・キリスト」です。具体的に言いますと、1節、2節の「神の子」は信徒を、8節のは、イエス様を表しています。このような表現はほかにもあります。たとえば、「人の子」。あるところは、人間の子を表し、あるところは、イエス様を表します。このように同じ言葉で別々の人物を表しているので、気をつけて読まなければなりません。同じ人物だと思い込んで読むとよく解らなくなり、あるいは大きな誤解をしていくことになります。
その点を注意深く読みましょう。1、2節で「天の父なる神様が、どれほどわたしたち(神の子たち)を愛してくださるか、考えなさい。」とヨハネは言っています。こうしたことから、皆さん、一人ひとりは「神の子」なのです。神様がそう呼んでくださっているのです。「大事な、大切な、神様の子、私の子です」と語り掛けてくださっているのです。ただ世の中の人たちは、私たちが「神の子」とされていることを知りません。なぜなら、父なる神様を知らないからです。自分の努力の結果ではなく、神様の憐みによって、神の子とされているのです。ですが、皆さんが、将来どうなっていくのか、今ははっきりとは示されてはいません。それが解るのは、御子イエス様が再び来られる時です。その時にはイエス様に似たものとなるとヨハネは教えています。
 ここ3節までは解ります。しかし、4節以降が解らなくなります。それは私たちの罪の問題が語られているからです。6節には「御子の内に、いつもいる人は皆、罪を犯しません。」とあります。私は、全く罪を犯さないのか、自分を振り返って考えてみると、そうではありません。神様が私を見られたなら、言葉においても、行いにおいても、自己中心的な言動をして罪を犯していると私自身思います。説教壇から、「私たちは洗礼を受けて全く罪を犯さない者になったと云うのではなく、洗礼を受けても以前と同じように罪を犯してしまうわたしたちです。現在も、将来も罪を犯す、私たちです」と語ってきました。ですから、この6節の言葉が解りませんでした。そこで説教の準備が止まってしまいました。そのような中で、祈り、黙想して求めました。すると、同じヨハネの言葉が示されました。カトリック教会の第二バチカン公会議の重要な御言葉、罪の告白の言葉を思い起こしました。具体的には、この手紙の1章10節です。カトリック教会は、この言葉を自分たちの罪の告白の重要な言葉として挙げています。第二バチカン公会議の公文書にこうあります。教会憲章 第2章 エキュメニズム(教会一致運動)の実践についてという項目の中に「心の回心」という項目があり、次のように言っています。「真実な意味でのエキュメニズムは、内的な回心なしにはあり得ない。・・・聖ヨハネの証言は、一致に反する罪にも当てはまる。『罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽りものとすることであり、神の言葉は、わたしたちの内にはありません。』(10節)。従って、われわれは謙虚な祈りをもって、自分に負い目のある人をゆるしているように、神と分かれた兄弟とにゆるしを求める」とあります。まさに、カトリック教会が自らの犯した罪を悔い改めて、新しい歩みを始めているのです。罪の悔い改めが諸教会との和解の出発の原点だったのです。やっと私は6節の「御子の内に、いつもいる人は皆、罪を犯しません。」が解り始めました。これは信仰者に根源に与えられたものについて語っていることなのです。根源的にキリスト者は罪を犯さない者だということです。
 キリストを信じる教会は、 御子がこの世に来られたのはまさに、「この世の人の罪を除くために現れました。」(5節)を深く受け止め、御子イエス様が救い主キリストであると信じることができたのです。キリスト者は根源的に、サタンの子ではなく、神の子とされているとヨハネは言っているのです。伝道者パウロの言葉でいえば「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者」(コリント二5:17)なのです。本質的に、キリスト者は罪を犯しませんが、現実的には罪を犯してしまいます。ヨハネは、ここで、あなたがたは皆、神の子として生まれていることを忘れないで欲しい、しっかりと心の奥に刻んで欲しいと言っているのです。あなたがたは、神の子として生まれているのだから、互いに、主なる兄弟姉妹を愛しなさいと勧めているのです。このことを受け止めて生きていって欲しいと。そのように、あなた方は、神様から愛されて生かされているのだからと。
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by higacoch | 2016-03-26 17:12 | ヨハネの手紙

2016年3月13日

「命の冠を頂く」    詩編91:1-16、ヤコブへの手紙1:12-18

 今年の1月31日に、あさひ伝道所が伝道教会になるというお祝いの式が行われました。この伝道教会は週日、フレンドシップあさひとしてデイサービスを行い、もう一つのスポーツデイサービスを行っています。そして主日には礼拝を捧げています。こうした活動をしながら、年に2回のニュースレターを発行しています。
 そのニュースレターに実に感動する証しが載っています。最新号には、日本中会の事業からNPO法人への移行作業をしていて大変な苦労があるとのこと、その苦労を鈴木先生は、この苦労を「世俗の効率主義ではなく、信仰という視点から受け止める力が与えられ、これも神様の何らかの御計画のうちにある、この道こそが神の私たちに備えられた最善の道。主の山に備えあり。人事においても不思議に新しい出会いが与えられる」と捉えているというのです。このように先生は、神様にあっての思考や出会いを感謝して受け止め、明日に向かい希望を抱いて活動されています。私は、鈴木先生は今朝与えられたヤコブの手紙でヤコブが勧めたように、生きておられるなあと思いました。ここには神様による思考があり、出会いがあり、明日に向かって希望の道を開いていると思えるからです。12節に「試練を耐え忍ぶ人は、幸いです。」とありますが、その人は神様を愛している人、その人に約束の「命の冠」が与えられると書いています。命の冠を頂く人は、いつも成功してトップを走り、邁進した人ではありません。それとはまったく反対に、人生の途上で、立ち留まらされ、試練に苦しみ、耐えて乗り越えた人だと言っているのです。宗教改革者のカルヴァンは「ここには世の考えや人間的な感覚とは正反対のことが書かれている。すなわち、何でも意のままに手に入れられる人が幸せであると考えられるが、そうではなく、不幸や艱難に屈服しない人が幸いだと言い、神が私たちを鍛えてくださる戦いは、わたしたちの至福の助けとなる」と言っています。ここは神様が自分を愛しておられると受け止めるか否かによって、「命の冠」を頂けるか否かに分かれる境目だと私は思っています。なぜなら、ここで「試練」と訳されている言葉は全く反対の「誘惑」とも訳せるからです。自分は神に愛されていないと思う人は、ここを「誘惑」と考えがちで、他方、愛されていると考える人は「試練」と受け止めるでしょう。ヤコブははっきり、「誘惑に遭う時、誰も、神に誘惑されていると言ってはならない」と言っています。ここには「誰も」とありますから、誰一人、神があなたを誘惑しておられると言えないのです。教師であれ、牧師であれ、言ってはならないのです。神様は人を誘惑したりされないとヤコブは断言しています。むしろ、人がそれぞれ自分自身の欲望にひかれて、そそのかされて誘惑に陥るのです。神の責任ではなく、自己責任なのです。欲望がはらんで罪を生み出し、罪が熟して死を生み出します。この死は魂の死であり、望みのない状態です。
 神様は、あなた方が不幸になるように誘惑に会わせられません。ただ、これを安直に言うことはできません。自分の経験や知識から言うことはできません。全知全能の神の言葉だから言えるのです。5年前に起った東日本大震災、そして原発事故によって、多くの人がなくなり、家族、家、仕事を失い、今も苦しみと悲しみを抱えて、立ち上がれない人たちがいます。これも試練だと安易に言えません。しかし、これらのことが単に無駄なことだったとも言えません。多くの犠牲者の死や苦しみ、悲しみは、死が、決して無駄であるわけはありません。今なお、多くの人が苦しみを抱えながら生きておられますが、そうした人をも神は愛しておられ、慰めを与え、立ち上がるように力を与えておられると信じています。
 ヤコブは「御父は、御心のままに、真理の言葉によって私たちを生んでくださいました。」(18節)と言っていますように、神様は、どんな人をも御心によって、愛して生んでくださったのです。その神様は、わたしたちに試練を与えて、訓練し、成長へと導いてくださっておられます。伝道者パウロは「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを知っています。」(ローマ 5:3,4)と言っています。またこうも言っています。「あなた方を襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備ええいてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)
 神様は、あなたを愛して、試練を与えられています。私たちが神様を見上げて、その試練に打ち勝ち、乗り越えて生きていった時に、約束の「命の冠」が与えられます。わたしたちは神様から誘惑されているのではありません。そうではなく、試練を与えられているのです。ですから、しっかりと試練を耐え忍んで、信仰をもって生きていきましょう。
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by higacoch | 2016-03-19 14:29 | ヤコブ

2016年3月6日

「本当のことが解る」  イザヤ書30:8-17、使徒言行録12:1-17
                               
 私はこれまで天使を見たことがありません。天使の存在を人に「ほら、あそこに天使がいる」と言って示して証明することができません。しかし天使の存在を全面的に否定はしません。どちらかと言いますと信じています。そんな思いで説教の準備をしていましたら、土曜日の朝日新聞の折り込みBE版に「霊の存在を信じますか」というアンケート調査の結果が大きく載っていました。それによると、現代人は「信じる」が49%、「信じない」が51%と半々でした。私は霊の存在を信じている方に入ります。
 さて、今朝、与えられた箇所から学びましょう。ここには天使の働きが記してあります。ヘロデ王が教会の人々に迫害の手を伸ばして、イエス様の弟子であったヤコブを殺害しました(1節)。次にヘロデ王が命を狙ったのはペトロでした。彼を殺そうと捕えて牢に投げ込み、過越祭の後で人々の前で殺そうと計画しました。信仰者たちはペトロの命が取られないように必死に祈りました。
 ヘロデ王がペトロを明日殺すという前夜には、監視はさらに強化され、絶対に逃げられないようにしました。その夜、天使が現れて牢屋を照らし、中に入ってきて、ペトロのわき腹をつついて起こしました。すると、ペトロを拘束していた鎖が外れ、天使はペトロに帯、履物と上着をと身支度させ、「わたしについて来なさい」と命じました。ついて行くと、幾つかの監視所を番兵に気づかれずに通過し、ついには町に通じる鉄の門が開き、町の通りに出ることができました。すると、今まで誘導してくれた天使が目の前から消えてしまいました。ある人は、この個所は文学的な表現がなされていると言い、天使は「誰なのか」と推測する人がいます。しかし私は推理はしません。私は天使の働きと信じています。
 ペトロが危険からのがれて、町の中に入った時、ペトロは我に返って「今、初めて本当のことが解った」と語りました。ここでペトロが語った「本当のこと」とは何でしょうか。一言で言うのなら「神様が生きていて、助け出してくださったこと」だと思います。別の言い方をするなら「神様の真実が解った」と言うことです。それは「自分は助けられて、ここにいるというのがまさに、神様の御旨である」と確信したことでしょう。ここで我に返ったというのは、ただ意識が戻ったというだけではなく、自分の使命が解ったということでもあったと思います。
 今朝の箇所、ペトロの覚醒から「本当のこと」が教えられます。それは、「神が生きて働いてくださったこと」です。当時のヘロデ王は強固な権力を持ち、絶対的な力を誇っていました。そんな中で信仰者たちは、本当に力のない弱い人たちでした。しかし、そのような弱小集団のキリスト者たちは、皆で集まって、神に祈っています。ペトロが殺されることはない、そしてペトロが助け出されると信じて祈っていたのです。彼らは祈りの共同体であり、どんなに苦しめられても、神を信じて生きてきたのです。神はその祈りを聞き、不思議なことですが、天使をつかわして、ペトロの脱出を成し遂げてくださいました。そして獄に閉じ込められていたペトロ自身の目が覚めるようにしてくださったのです。そしてペトロ自身の口を通して、「いま、初めて本当のことが解った」と語らしめました。あえて言うなら、ペトロ自身も、神様の働きを100%は信じていなかったということなのです。ペトロ自身が、命の危険を味わい、そこから助けられた時に、「今」深く確信したのです。「神様の働きが分かった」と。
 また、ペトロのために祈っていた者たちも、祈りながらも半信半疑だったのでしょう。ペトロがやってきた時、彼らは女中の言葉を信用しませんでしたし、またペトロの天使だろうと言っているのですから。彼らもペトロとそう変わりませんでした。こうしたことは、私たちにも起ることなのです。そのような時、私たちの信仰が問われます。だから、もう一度、この聖書箇所を通して、神は生きて働かれておられ、私たちの祈りは聞かれていると信じましょう。神様の御心に適った祈りをきいていてくださること、これは本当のことだと。もしも願ったことが叶えられない時は、神様が私たちの祈りを聞いておられないのではなく、今はその時ではないと示されておられるのです。ただ「本当のこと」は、神様は確かに私たちによいものを与えてくださいます。
 神様を信じていく時「本当のこと」―神様は今も働けれているということが解るのです。このように信じる者を導いてくださっています。今も、あなたを生かして用いてくださっていることがはっきり解るのです。
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by higacoch | 2016-03-12 16:58 | 使徒言行録