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2016年2月28日

「誰を信頼するのか」  詩編103:1-13、マタイ福音書16:21-28
                               
 今はレントの時、イエス様が私たちの罪の贖いのために、十字架への苦しみの道を歩まれたことを覚える期間です。
 さて、今朝はイエス様の十字架と死は、何を私たちに示しているのかを改めで学びたいと思います。21節に「この時から」とあります。それは皆さんもすぐに想像されるでしょうが、直前に記されている、ペトロがイエス様を「あなたはメシア、生ける神の子」と告白した出来事です。これはイエス様が弟子たちに「人々は、私のことを誰と呼んでいるのか」と問いかけられ、それに弟子たちが「人々は、ヨハネだ、エリヤだ、エレミヤだとか呼んでいます」と答えました。イエス様はそれを一通り聞かれた後、「では、あなたがたはわたしを誰だと呼ぶのか」と再び問われ、それに対するペトロの応答でした。これを聞かれたイエス様は、すぐに「あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父だ」と言われてペトロを祝福されました。これが「この時」だと思われるでしょう。私も以前は、そう思っていました。しかしながら、今回説教を準備する中で、新たな「この時」があると教えられました。それは20節の「イエス様が、御自分がメシアである」と断言され、弟子たちにこれを口外するなと命じられました。私は、これが「この時」だと思います。イエス様は自分がメシアだと語られてから、そのメシアは、「エルサレムでユダヤの指導者たちに捕えられて、苦しめられ、殺される」と語られました。すると、ペトロは「主よ、何と言うことを言われるのですか。とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」とイエス様を諌めました。イエス様は、ペトロを「サタン、引き下がれ、お前は、わたしの邪魔をするもの、神のことを思わず、人間のことを思っている」と激しく叱責されました。
 その後、ペトロだけではなく、弟子たち皆に言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。ここでのイエス様の言葉を誤解している人が案外多いようです。イエス様は「自分の十字架を背負って」と言われていますが、このことを徳川家康が言った「人の一生は、重荷を負うて遠き道をゆくがごとし。」と重ねて理解していらっしゃる方が多いようです。自分の十字架、それは自分の重荷ですから、自分が抱えている人生の重荷、たとえば借金、病気、体のマヒ、障がい、リュウマチとか、自分の家族の大変なこと、親の介護、子どもの障がいとか、自分ではどうしようもない重荷、そういうものを「自分の十字架」と考えていたりします。それは間違いではないかと私は思っています。なぜならイエス様の十字架を考えてみてください。イエス様が負われた十字架は、イエス様自身の人生の重荷、ご自身の病気、障がいなどではありません。十字架はイエス様自身の重荷ではなく、私たちの罪の重荷だったのです。私たちを憐れみ、私たちを救うために、自ら負われたものでした。人を愛するがゆえに負われた十字架だったのです。であるなら「自分の十字架」は、自分の人生の重荷、自らの罪の重荷ではありません。あなたの罪の重荷は既にイエス様が担って下さったではありませんか。だから、自分の十字架とは、イエス様が私たちを愛して負われたものであるように、人を愛するがゆえに負う重荷なのです。「自分の十字架を背負う」とは、積極的に人を愛して背負う重荷なのです。仕方なく、強制されて背負う重荷ではなく、人を愛するゆえに負う愛の重荷なのです。こうしたことから、イエス様は「わたしについて来たい者は、自分だけを愛するのではなく、苦しんでいる隣人を愛して、その隣人のために重荷を背負って私に従いなさい。」と言っていらっしゃるのではないでしょうか。
 さらに続けてイエス様は「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」言われました。ここで言われている「命」は、わたしたちが生きている肉体の命ではなく、霊的な「命」であり、神様によって生かされていく「命」です。自分の「命」を救いたい者が、自分だけを愛し、自分のためだけに生きようとするなら、反って「命」を失うことになるのです。そうではなく、イエス様を信じて、隣人を愛するために、十字架を背負って生きる人が、「命」を得るのです。これはまさに逆転の真理です。このことは、弟子たちだけに語られたのではなく、わたしたち一人一人にも語られています。イエス様に従って、隣人を愛して、自分の十字架を背負って生きていく歩みは、神様からの祝福を受けます。こう考えれば、「私たちは人生で誰を信頼して生きていくべきか」という問いに、おのずと答えが見出せるでしょう。あなたが「命」に生かされることを願うなら、イエス様を信じて生きていく道しかありません。信じると言う言葉は、ユダヤでは、その人を信頼して生きることと同じです。ですから、誰よりもイエス様を信頼して人生を歩んでいって頂きたいのです。イエス様が再臨される時、そうした者たちは祝福を受けることができるのですから。
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by higacoch | 2016-02-28 17:38 | マタイ

2016年2月21日

「信仰が無くならないように」    ルカ22:31−34
                                  唐澤 健太 牧師(国立のぞみ)

 誰もが一度や二度、いや何度も信仰生活を送る中で自分の信仰が揺さぶられる経験をしたことがあると思います。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」(31節)。なぜ神様はサタンの願いなどを受け入れてしまうのかと思いますが、これは弟子たちが経験する現実そのもと言えるでしょう。キリスト者として信仰生活を送るとき、サタンに「ふるいにかけられ」、神様から心が離れていく出来事、「信仰の危機」があるのです。
 ペトロは試みにあったとしても「覚悟しております」と答えました。「牢に入っても死んでもよい」とまで彼は言いました。権力者たちと主イエスの間に日に日に緊張が高まっていくのをペトロもよく知っていたことでしょう。このまま行けば、投獄や最悪は死をも覚悟しなければならないとペトロは感じていたのでしょう。ペトロは本気でした。しかし、ペトロの覚悟は、その日のうちにもろくも崩れ落ちてしまったことを私たちは知っています。ペトロは自らの覚悟、勇気、力がすべて打ち砕かれてしまう信仰の挫折を経験したのです。
 信仰生活は、いつも穏やかなクルージングを楽しむような世界ではありません。私たちの人生は、平穏にいつも穏やかに日々が過ぎていくことなどありえません。時にはその船が沈みそうになる、人生の危機的な状況を迎える時がある。その時に、私たちの信仰が試されるというか、ふるいにかけられるような経験を私たちもします。
 思いがけず病になったり、自分が思うように道がなかなか開けない。行き詰まりを覚える中で、神様に心を向けることから離れてしまう時が、私たちの信仰生活の中にあります。
 ある方が以前、思いがけない試練を経験されたことを打ち空けてくださいました。様々な人間関係の中で苦しい経験をされ、その御自分の感情を含めて話して下さった。随分と長い時間、お話をして、最後に祈りましょうと言って短く祈りをささげました。「アーメン」と祈りを結んだ後に、その方が、「先生、祈るってことをすっかり忘れていました」とポツリと言われました。「長年クリスチャンをやっていて、まさか自分が祈ることを忘れるようなことを経験するなんて……。自分がクリスチャンであるのは当たり前だと思っていたのに、神様とか、祈るってことさえ、ここ最近は忘れていました」と告白されたのです。
 この一人の信仰者の経験は、私たちの経験でしょう。自分の覚悟とか、自分の力、自分の勇気、そのようなものは、平穏な時は「大丈夫!」と自信を持って言えるかもしれませんが、いざ試練の中に叩き込まれ、「ふるい」にかけあれるといとも簡単に飛んでなくなってしまう。私たちの信仰は、もろいものです。
 もし私たちの信仰が、私たちの覚悟、私たちの気の持ちよう次第だったとするなら、こんな不安定な、不確かなものはありません。
 「しかし、わたしはあなたたちのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(32節)。イエス様はペトロが信仰が無くなってしまう経験を知っておられる。私たちが信仰の危機を経験することを知っておられる。だから、主イエスはペトロのために祈ったと言われたのです。私たちはサタンのふるいにかけられ、祈る気力さえ失ってしまう時があります。聖書を読むことに心がまったく向かない時を経験します。神を礼拝する思いにならない時があります。しかし、主イエスが私たちのために祈っていてくださる。この主イエスのとりなしの祈りに、私たちの信仰は支えられているのです。
 私が伝道師に任職される時、荒瀬牧師が説教の中で「あなたの後ろ盾は主御自身です」と語られたことを今でもはっきりと覚えています。伝道者の歩みは決して平坦じゃない。自分の力のなさや、時には自分の信仰が揺さぶられなくなってしまうような試練も経験するかもしれない。だけども、「主が後ろ盾である」ことを忘れないように。
 信仰者にとっても同じです。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」(Ⅱテモテ2:13)。たとえ私たちが主の手を離してしまっても、主はその手を私たちから離すことはないのです。たとえ自分には信仰が無い、と感じたとしても大丈夫。主イエスが、私たちの信仰が無くならないようにとりなし、祈っていてくださるから。その主イエスの祈りが、私たちに希望を与えてくれるのです。
 自らの覚悟などあっという間に消え失せてしまうような私たちのためになおも祈り、愛し、赦してくださるキリストの真実に信頼すること、それこそが信仰なのです。私たちの信仰は、私たちが自分の力でつかみ取った何かではありあせん。「私たちが」ではなく、「神が」私たちを選び、愛してくださった。それが私たちの信仰の始まりです。私たちの信仰は神の賜物に他なりません。
 ペトロのために祈られた祈りは、いまも私たちのためにささげられる主イエスの祈りです。私たちが「もう信仰をうしなってしまった」というところで、あなたのために祈った! そう言われる主イエスの祈りが私たちの信仰を支えてくださるのです。
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by higacoch | 2016-02-27 17:54 | ルカ

2016年2月14日

「戒めより善いこと」   詩編85:2-8、マタイ福音書 12:9-14
 
 先週、神学校の図書館で「カトリック新聞」を読んでいましたら、「えほん 障害者権利条約」というタイトルの本が紹介されていました。その推薦の記事を読んで欲しくなりました。本屋さんを回りましたが、最後に「武蔵野プレイス」の図書館で見つけ、借りて一気に読みました。この本の文章を書いた人、挿絵を描いた人、共に障害者の方々と共に生きてきた人でした。この本は素晴らしい本だと思いました。
 さて、今朝与えられましたマタイ福音書の箇所には、手の萎えた障害者が出てきます。その障害者とイエス様が出会うのは、ユダヤ教の会堂の中、伝道旅行中のイエス様が、ある町の会堂に行かれた時のことです。この障害者は、毎週、この会堂に来て、礼拝を守っていた人でしょう。この人のことはマルコ、ルカ福音書にも記されていますが、この人は会堂にやってきては、会堂の隅っこに座っていたことが解ります。出口に近い端っこだったのではないかと私は想像します。礼拝が始まる直前に来て、礼拝が終わったら、すぐに会堂を後にしていただろうなあと思います。
 イエス様は会堂に入って、すぐに彼に気づかれました。彼をじっと見られたので、会堂の中にいたファリサイ派の人々もイエス様が手の萎えた人を憐れんで癒そうとされていると感じ、そうしたら、イエス様をすぐにでも訴えようと考えました。そして、彼らは白々しく「安息日に病気を治すのは、律法で許されているんでしょうか」と尋ねてきました。そんな彼らに「あなたがたのうちで、たった羊一匹を持っている人がいて、その羊が穴に落ちて苦しんでいたら、手を出さずに、ただ見るだけで何もしないだろうか。」と問い返されました。それから、イエス様は「人間は、羊よりもはるかに大切」と言われました。これはとても大事なことです。その言葉の奥に「手の萎えた人もあなたがたと同じ人間、手が萎えているからと言って、白眼視するな。差別するな」という思いがあったと思います。マルコやルカ福音書を見れば、どうして障害を抱えている人を隅に追いやるのかと、イエス様は怒っておられます。そして彼らに「許されているのは、彼のいのちを救うことか、殺すことか」と、「あなたがたは、この人を生かすのか、それとも殺すのか」ともイエス様は問うておられると言えます。そこまで言って戒めをいのちよりも大事にする人々に迫ったのです。ですが、彼らは沈黙したままで、一言も反論しませんでした。そこでイエス様は周りを見渡してから、障害者の人に「手を伸ばしなさい。」と言われました。ルカ福音書では、「立って、真ん中に出てきなさい。」とあります。それは、あなたは障害を抱えているからと言って隅になんかいなくていいんだ、そんなところではなく、真ん中に立って、みんなと共に生きていきなさい、と示されているのです。そしてイエス様は彼に「手を伸ばしなさい。」と言われました。このことはもっと自由に、もっと心と体をひろげて生きていきなさい。」とおっしゃったことだと信じています。
 戒めと言えば、モーセの律法です。その律法が、人々の生活を規制していました。生活ばかりではなく、人を裁く根拠にもなりました。つまり、律法を守っている者と守っていない者とを区別し、守っていない人を差別しました。そして守らない人は人々から見捨てられて、さらに神からも見捨てられていると罵られました。神に仕える祭司、祭司長たちも障害者は神から罰を受けたのだと教えていました。こうした教えによって、障害者の人たちは、人間社会からも隅っこに追いやられていたのです。
 しかし、イエス様は障害者が排除される社会、偏った共同体にメスをいれられたのです。これは律法という戒めにメスを入れられたのです。それは人間を解放する善きもの(人を愛し、共に生きること)を入れられました。戒めによって人を裁く心に、父なる神の下に皆兄弟姉妹であり、互いに愛し合い共に生きるように示されたのです。人が目や耳や、知的や、精神の障害を抱えていても、共に生きることを示されたのです。そのような人が隅に追いやられるのではなく、真ん中に立ってみんなと共に生きることができることを教えられたのです。イエス様が、ナザレの会堂でも言われています。「主が、わたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を、圧迫されている人を自由にするため」。
 戒めを重んじる人々は、こうしたイエス様の行動と言葉を赦しがたい神への冒涜と捉えました。だから人々はますますイエス様を亡き者にしようと相談したのです。しかし、イエス様はそのような中にあっても苦しみに耐え、その道を歩み続けられました。その苦しみがますます大きくなっていっても、イエス様は彼らの罪のあがないのために十字架への道を歩みつづけられました。そのイエス様の命の犠牲を惜しまない愛を覚えて、罪の悔い改めと祈りをもってイエス様に従って生きていきましょう。
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by higacoch | 2016-02-20 17:46 | マタイ

2016年2月7日

「人間の罪」    詩編86:11-13、ローマ1:18-25

 今朝は、わたしたちのカンバーランド長老キリスト教会の設立記念主日礼拝日です。いつも礼拝の中での「信仰告白」は「使徒信条」を告白していますが、今朝は、私たちの「信仰告白」の一つの条文をもって告白します。それは、2.06条項です。
 私たちの信仰告白は、人間の罪をどのように告白しているでしょうか。第2章にまとめて書かれていて「人類は神との関係を破る」とあります。つまり、人は神様から頂いた自由を誤って自分勝手に使ったと告白しています。2.03では「人類の最初の親たちは、神に、より頼むことを拒み、自ら好んで従順を捨て、創造の目的である神との交わりを破壊した。彼らは、その存在のすべての面において罪に傾くものとなった」続いて2.04には「アダムとエバがしたように、すべての人々は神に逆らい、神との正しい関係を失い、罪と死との奴隷になっている。この状態がすべての罪深い態度や行為の源になっている。」とあります。
 ここでは、罪の原因、結果、そして傾向性が告白されています。「すべての人々は神に逆らい、神との正しい関係を失い、罪と死との奴隷になっている。」と。これは過去のこととして、以前は「罪と死との奴隷になっていた」と告白しているのではありません。これは今も罪を犯すということです。キリストを信じる前だけでなく、信じた後でさえ罪を犯すのです。人間の罪は、人と比べて深く知ることではありません。より深く知るには、人と比べてではなく、神を知ることによって自らの罪を知らされ、さらにキリストを知ることによって己の罪をさらに深く知らされます。イエス・キリストを知らなければ、罪も知らないし、さらに、イエス様の十字架の意味も、また十字架の上での死も、さらにイエス様の復活をも知り得ないのです。復活を知るということは、自分の救いが与えられていることを知ることなのです。救いは、キリストを信じることによってのみ与えられるのであり、キリストを信じて生きていくことが、何よりも大事であります。その信仰は過去の恵みとして生きるのではなく、現在進行形で生きていくことが大事なことです。それはキリストがあなたに、今も救いを与えて下さっているからです。
 イエス様がわたしの救い主であるといまだ知らない人と、信仰によって知らされている人との違いは、決定的な違いであります。それは、わたしたちの人間社会の側からみれば、それほどの違いがないように思われるかもしれませんが、神様の側からみれば、決定的な違いがあるのです。
 今朝、与えられている聖書の箇所は、どうも難しい言葉がつづられていて、理解しにくいと感じる方が多いのです。そこで皆さんにも解るように、今日はマザーテレサの言葉を通しながら、聖書が語る「人の罪」を考えていきたいと思います。マザーテレサが始めた修道会の名前は「神の愛の宣教師たち」であります。この修道会では、貧しい人の中の最も貧しい人に仕えることを大切にして、神様の愛を宣教しています。つまり極貧の人に仕える愛を以って、神様の愛を宣教していると言っていいでしょう。昨年、渡辺兄弟が私たちの教会に入会された際、小冊子に皆さんからの祝詞を書いて頂きました。その小冊子が、マザーテレサの言葉集であり、そのタイトルは「ほほえみ」でした。その中に、「この世でいちばん美しいことは、神様が私たちを愛してくださるように、わたしたちも互いに愛することです。わたしたちが、この世にいるのもこの目的のためです。」とあります。神様がご自分を愛するのではなく、私たち(他者)を愛して下さったように、私たちも他者(隣人)を愛し、互いに愛し合うことが求められているのです。しかし、私たちは自己中心で、自分を愛することに集中してしまいます。神様の言葉に従わず、別のものを信頼(信仰)するのです。ここに罪があります。
 神様は、独り子イエス様を、この世に遣わして、人とのかかわりを持ちました。そして、御子イエス様は、すべての人のために御自ら自分の命を捧げられました。こうして、イエス様は、私たちを愛して下さいました。そのようなイエス様から、離れていってしまうことは、わたしたちの信仰告白にありますように、罪を犯す傾向にあるということです。そしてイエス様の愛の行為の反対をするということは、罪を犯しているということです。つまり、人を愛さないで自分だけを愛しているなら、それは罪を犯していると私は思います。これは誤解がないように、加えて言わなければなりませんが、行動をしていない人は、罪を犯しているということではありません。行動しなくても人を愛することはできます。それは人のために祈るということです。また次のことも言わなければなりません。愛の不足は、罪ではないと。小さな、わずかな愛があれば、それは罪ではないと。愛というのは、小さいとか、少ないとか、で計られるものではありません。ある人が、あんたの愛は少ないと、自分の計りで、裁くことはできません。私たちの信仰告白に、「神との正しい関係を失い、罪と死との奴隷になっている。」(2.04)とあります。そのようにならないために、神との関係を失わないように、神を見上げて、信仰の道を歩んで行こうではありませんか。そのためにも、御言葉を聞きつつ、礼拝を守って歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2016-02-13 17:42 | ローマ