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2016年1月31日

 「祈りの家」 創世記28:10-22、マタイ21:12-16
                                
 先週の月曜日、加藤常昭先生を中心として行われている説教塾がありました。今回は加藤先生ご自身が説教された説教録音を聞き、説教分析の学びをしました。その説教の中で、宗教改革者の一人カルヴァンはとても礼拝を重んじたということ、そして、礼拝の式次第を礼拝順序と呼ばないで「祈りの秩序」と言っていたということが書かれてありました。わたしはとても驚きましたので、先生に、カルヴァンが礼拝を「祈り」と呼び、礼拝順序を「祈りの秩序」と言っていることを論じている本を紹介して頂けませんかと尋ねましたら、「礼拝史か、礼拝学辞典を見てみなさい」と助言を頂きました。その翌日早速、神学校の図書館に出かけて、カルヴァンの礼拝について書かれたものを借りてきました。また2010年に神学校で「カルヴァン生誕500年を迎えて」の記念講演会と記念礼拝が捧げられことを知り、DVD(当時の礼拝を再現した礼拝)を借りてきて観ました。講演の一つは、「カルヴァンのジュネーブ教会の礼拝」と題するものでした。カルヴァンは礼拝を重んじました。礼拝の中で、賛美し、感謝を捧げ、祈りを捧げ、神の恵みを心から受け止め、神に栄光を帰することに集中しました。カルヴァンが礼拝順序を「祈りの秩序」と呼んだというのが、少し解ったような思いです。それは、礼拝で為される一つ一つが心を込めて、神様に向かって行われていると思ったからです。彼は「礼拝順序」を「祈りの秩序」と呼ぶように、「祈り」が随所にありましたが、それは丁寧で長いのです。
 こうしたことを思い巡らしていましたら、今朝の箇所のイエス様が神殿内で激しい怒りを表わされたことも分かってきました。神を礼拝し、神への祈りが捧げられるべき所が、いつしか人間たちの欲望の巣になっていたことを知ったイエス様は、激しく怒らずにはおれなかったのです。そこでは、犠牲として捧げる鳩が市場の7、8倍の値段で売られていました。犠牲の動物は雄羊や山羊もありました。しかしイエス様は、特に鳩を売る者たちの腰かけを倒されたとあります。それは、犠牲の動物として鳩を捧げる人たちは貧しい人たちで、そのような人たちから彼らは暴利をむさぼっていたからです。また神殿で捧げるお金は、外国の硬貨を捧げてはなりませんでした。市場では、ローマの硬貨、ギリシア硬貨が普通に使われていましたが、神殿で捧げるにはユダヤの硬貨でないといけないと決まっていました。ですから、両替しなければならず、法外な手数料を取っていました。神への捧げもので、暴利をむさぼり、神殿内を商売の場へと変質させてしまっていたのです。だから、イエス様は「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきだ、ところが、あなたがたは、ここを強盗の巣にしてしまっている」と怒りをあらわにされたのです。その一方で、目や足の不自由な人たちを憐れみ、癒されました。また子どもたちが神をほめたたえる賛美を喜んでおられます。
 まさにこの箇所から、カルヴァンは「信仰者はどうあるべきか」と問い、教会改革をしていきました。その改革は、文字通り礼拝改革でした。そして礼拝改革は、まさにここでイエス様がおっしゃったように、教会は「祈りの家」であり、礼拝が捧げられる時、そこで聖書が読まれ、賛美、説教、そうしたことが為される時、それに相応しい祈りを捧げました。そうしたことから、礼拝は、祈りの秩序の中に捧げられると受け止めました。カルヴァンは、教会は祈りという礼拝が捧げられ、神の栄光をほめたたえる場所と考えたのです。もしも人間の何かが幅を利かせるようになっていったのなら、そこは教会ではなくなるでしょう。カルヴァンは、教会がそうなる危険性があることを知り、その可能性を礼拝からできるだけ取り除きました。教会での礼拝は、神に集中するように捧げられ、祈りがささげられたのです。そして教会は、すべての人の祈りの家となるように、礼拝順序においても改革していきました。彼は、御言葉によって、教会改革をしていき、祈りを捧げる改革でもありました。
 教会は、すべての人の「祈りの家」です。このことをしっかりと覚え、御言葉に生かされて、いつの時代でも、どんな所にあっても立っていくのです。教会は、キリストの栄光を表し、祈りの家として、祈りがささげられ続けていく所だとカルヴァンは信じました。このことは、私たちにも、学ばなければなりません。教会改革は、御言葉によって、なされるべきであって、時代の、人間の都合によって為されるべきではないのです。御言葉によって為されるために、祈りつつ歩んでいかなければなりません。私たちの教会も、礼拝する場「祈りの家」として、いつも祈り求め、御言葉によって、改革していく教会として歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2016-01-31 16:47 | マタイ

2016年1月24日

「正しい者の生き方」 イザヤ書9:1-6、ローマ1:8-17

 2018年には新しい聖書翻訳が出版されます。お手許の「新共同訳聖書」から「標準訳聖書」という名になると言われています。福音派と呼ばれている教会で読まれている新改訳聖書も2017年9月に新しい聖書翻訳が出版予定です。このように時代が進むと聖書も新しい翻訳が出されます。ほぼ35年から40年間ごとに聖書が翻訳されます。新しい聖書翻訳が出ることを、皆さんはどう思い、どう受け止めておられるでしょうか。時代と共に言葉が変わりますから、昔の言葉では若い人に通じなかったり、以前はいい意味だったのに、今は、どちらかというとあまりいい意味ではなくなったりして言葉の意味も変わったりします。また人を差別するような言葉は、相応しくないということもあります。そうした面で、聖書翻訳が出版されるのは良いことだと思っています。今使用している新共同訳聖書は、共同と言われるように、カトリックとプロテスタントと共同で翻訳し、出版されました。これは、良いことだと私は思っています。
 そのように、新しい聖書翻訳の聖書が出た時、皆さんはどう思われるのでしょうか。新しい翻訳の聖書を読まなければとまじめに考えておられる人もおられるでしょう。しかし私は無理に新しい翻訳を読まなければならないと考えなくても良いと思っています。新しい聖書の言葉に慣れず、覚えきれないのなら、むしろ古くていいのではないでしょうか。皆さんの中には、若い頃「文語訳」を読んでいたから、これがいいという人もいるでしょう。その訳で御言葉を暗記しているならそれでいいと思います。ただ私は説教者として、教会がイエス様の福音を知らせていくために、次の時代の人への信仰の継承ということを考えて、特に若者たちに知らせていくためには「新共同訳」の聖書の方がいいだろうと思いますので、「新共同訳」から説教しています。
 しかし、前の聖書翻訳の言葉と新しい翻訳の言葉との違いがあって、どうしても以前の聖書の言葉が良かったと思うものがあります。またその逆もありますが、今朝与えられたローマの信徒への手紙の1章17節は、口語訳が良いと思います。口語訳では「信仰による義人は生きる」とありました。ところが、新共同訳聖書は「正しい者は信仰によって生きる」とあります。私は現在、新共同訳の御言葉で説教していますので、そこから取って説教題を「正しい者の生き方」としましたが、実を言うと、前の口語訳の言葉から「義人の生き方」にしたかったのです。皆さんに「正しい者」とはどんな人なのかを深く知ってほしいからです。
 ここの「正しい者」は、倫理的な正しさに生きている人ではありません。ここは「信仰によって義とされた人」(アブラハムは信仰によって義とされました。創世記15:7参照)を表しています。そうでないと、この後の3、4、5章に語られている「義について」「義とされたアブラハム」へとつながりません。また口語訳では3章10節が「義人はいない。一人もいない」とありますが、新共同訳では「正しい者はいない。一人もいない。」となっています。こうなるとパウロが言う「義人」の意味が、十分に伝わりません。なぜなら、義人の義というのは、特別な意味を含んでいるからです。その後の3章21節から26節には「 今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」あります。
 ここには、パウロが伝えたかった「神の義」「信仰による義」によって、義人が語られています。皆さんには、ここの「正しい者」は倫理的な「良い人、善人」ではなく、「神の憐みを頂いた者」という意味であることを覚えて頂きたいのです。神が私たちを憐み、神が私たちのために御子イエス様を送って下さり、そのイエス様が、私たちの罪を負って、私たちの身代わりとして、自らの命を捧げて死んでくださいました。その神の義によって解放された人のことを義人というのです。ですから、義人、正しい者は、「信仰によって生きる」のです。そして「生きる」というのは、信仰から信仰へと生きていくことなのです。わたしたちもイエス様を信じつつ生きていきましょう。
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by higacoch | 2016-01-30 17:01 | ローマ

2016年1月17日

 「使命は何か」   エゼキエル3:1-3、ヨハネ黙示録10:8-11
                            
 今朝の聖書の箇所は、旧約聖書も新約聖書も珍しい箇所です。珍しいというのは説教の箇所として、あまり取り上げられないということです。私の記録帳で調べてみますと、ヨハネ黙示録はここ東小金井教会に赴任して初めてです。私が牧師になってから32年ほど経つのですが、この間に、このヨハネ黙示録の箇所を取り上げて説教したのは、5、6回位だろうと思います。宗教改革者マルチン・ルターもカルヴァンもこの書に関しては注解書を出していません。この書は黙示であって良く解らず、読む人によって、いろいろな解釈が生まれます。この書を独自の解釈をして多くの異端が生まれました。モルモン教、エホバの証人、統一協会などです。
 私は、今朝の説教の題を「使命は何か」としました。使命とは、辞書で調べてみますと、「与えられた任務」とありました。そうですが、私は「使命とは、いのちを使う所だ」と捕えます。この命、誰しもが生きています。そして神様を信じている人は生かされている命と捉えます。その生かされた命を使う所はどこかを学びたいのです。
 今朝与えられました旧約、新約の箇所で、共通している言葉がいくつかあります。「巻物」は3回ずつ、「食べる」は旧約4回、新約3回です。他にも、口が2回ずつ、腹も胃袋を腹と考えると、これも2回ずつです。こうしたことから、巻物を口から食べ、腹の中に入れるということが共通して書かれています。では、この「巻物を食べる」ということはどのような意味なのか、誰から渡されたのかを考えてみます。まず巻物は、旧約では神様が、新約では、天使が与えていて、どちらも人間が与えてくれたものではありません、神、天使と違いますが、これは神様が与えて下さったと考えていいでしょう。つまり、神様が、与えてくださり、それを食べなさいと命じておられるのです。巻物とは、当時の書物で、現代のように一枚一枚となっていませんが、今わたしたちが持っている聖書と同じように考えてもいいのです。聖書の言葉をかみしめて食べるということです。
 ここまで来ると、大体のことが解ってきます。旧約時代の預言者エゼキエルは、神様から「この巻物を食べなさい」と命じられ、新約時代のヨハネも神様から「巻物を食べなさい」と命じられています。これは、御言葉を聞く、頂くと同じです。しかも口で食べて、腹まで入れるということは、単に食べるだけではなく、しっかりと食べて消化しなさいと命じておられるのです。こうした時、その御言葉が、どんな味なのか、甘いか、苦いか、そのようなことまでも語っています。甘いなら、食べやすく、苦いなら食べたくないということでしょうか。ですが、神は、預言者エゼキエルに、そしてヨハネに「食べなさい。そして、しっかりと消化しなさい」と命じておられるのです。
 ここに、使命が見えてきます。まず、御言葉を食べなければなりません。ただ食べればいいというのではありません。しっかりと食べる、そうすると、御言葉の味が解り、甘いと感じ、その後、それが胃袋に入って消化される時、苦いと感じる、これは、何を黙示しているのでしょうか。消化されるということは、本来の食物が含んでいる栄養素が吸収されるということです。食物が御言葉であるなら、御言葉が本来、含んでいる栄養素真理は何か。御言葉が含んでいるもの、それは福音、イエス様の救いの福音です。その福音が消化されるということは、どういうことなのでしょう。人の体で言いますと、体全体のための栄養が、それぞれの臓器、筋肉、脳、その活動に必要なものが、それぞれの所に運ばれるのです。そして運ばれたものによって人の体は活動していきます。話す、歌う、聞く、知る、考える、歩くという活動ができるようになっていくのです。ですから、御言葉が消化されるなら、活動を生み出すのです。預言者エゼキエルもヨハネも、福音を頂き、福音を伝えていくことが活動なのです。胃袋に入った福音を伝道する時には苦労が尽きません。消化されて、万歳とはならない、むしろ苦しみがあります。ですが、これが使命なのです。これは牧師、宣教師、神父だけの使命ではありません。
 御言葉は、牧師、宣教師、神父だけのものではありません。御言葉が示す福音はすべての人のためです。ですから皆さん方にも通じることです。御言葉を頂く者は、使命が与えられて、いのちを使うのです。小さくてもいいのです。福音を伝えていくという所でいのちを使いましょう。
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by higacoch | 2016-01-23 16:25 | ヨハネ黙示録

2016年1月10日

 「神に献げなさい」  詩編2:1-12、ローマの信徒への手紙 6:12-23
                               
 新しい年2016年を迎えて、第二の主日になりました。わたしたちの教会は、ここ数年、この第二の主日礼拝を伝道主日礼拝として、外部からの先生や教職志願者を招いて、伝道を意識した礼拝を捧げています。
 さて、正月と言えば、日本では初詣です。多くの人が神社、お寺に出かけます。初詣で関東地方での人気のベスト3は、明治神宮、川崎大師平間寺、成田山新勝寺です。この近くでとは、京王線府中駅近くの大國魂神社であります。そうした初詣で、多くの人がするのが、お賽銭です。神様に、仏様に、お賽銭をします。
 お賽銭も日本人特有の縁起担ぎがありますから、5円を投げ入れる人は「今年もご縁がありますように」とか、10円を捧げる人は2枚の5円を重ねることで「かさねがさねにご縁がありますように」とか、15円を捧げる人は、「十分にご縁がありますように」また5円硬貨を3枚にして「三重にご縁がありますように」とか捧げます。こうした神社やお寺に捧げられるお賽銭と、教会で捧げられる献金には、決定的な違いがあります。お賽銭の目的は祈願です。「ご縁がありますよう」にと願われているのは「お金」「合格」「縁談」などです。それに対して、献金は祈願の捧げものではありません。「神様、ありがとうございます。今年も一年を始めることができました。こうして健康が与えられ、生かされていることを感謝します」と感謝の思いで捧げます。祈願か、感謝か、これは決定的に違うのです。どう違うのかと言いますと、祈願はあくまで自己中心的で、自己幸福追求型です。それに対して教会は「神様、ありがとうございます。」感謝なのです。こうした祈願と感謝の違いは、正月だけではありません。私はカウンセリングを学んで思うのですが、これが人間の人格形成に影を落とします。というのは、人がお金を出す時、そのお金にはその人の祈願がつきまとうと言うことです。お金を出す時、それが自分にとって、後々、儲かること、幸福になること、利益になることが前提条件なのです。それが期待できなかったり、何のお返しもないと思われたらお金を出しません。出す以上は損をしないと考え、常に自分にとっての損得が条件です。つまり出すなら、損にならないことが鉄則です。初詣のお賽銭によって、お金による脳の神経細胞のシナプスに回路ができ、それが主要な回路となって形造られていくのです。こうなると、お金でもっと儲けてやろうとなって、その人の人格形成に大きく作用するのです。この形成は不幸です。なぜなら、その人は人を見て、自分のために、その人を利用することになるからです。これはまさに自己中心的な考えであり、相手の幸福を考えるより、まず自分の幸福を常に求めるようになります。そこには相手を思いやることが想像できなくなっていきます。人に親切にすることも、心の奥では見返りを願ってするようになるのです。
 これに対して教会は「ありがとう」感謝です。それは、神様の恵みの先行性によって生きる姿勢です。神様は、わたしたちが気づこうと気づくまいと、一方的に先に恵みを与えてくださいました。神様の独り子なるイエス様を与えてくださり、イエス様もわたしたちを一方的に愛してくださいました。イエス様は、良い教えや病人を癒し、死んだ者を生き帰らせました。それだけではありません。否、それ以上に自分のいのちをも惜しまず、いのちを捧げて愛してくださいました。ですから、これに気づかされた者は神様に感謝の捧げもの(献金)をするのです。自分の精一杯の感謝を表します。「週報」にも書かれてありますように「主への感謝と献身のしるし」です。礼拝では、お金を捧げますが、それは、お金以上の「わたし」を捧げて(献身)いるのです。お金で済ましておこうと言うのではなく、ご自身を捧げていることなのです。だから、縁起を担いで、今日はこれくらいにしておこうというものではありません。まず、神様に、「ありがとう」を表すのです。
 最後になりましたが、今朝、与えられた箇所に、パウロは3回、「献げること」を勧めています。13節に、「死者の中から生き返った者として、自分自身を義のための道具として神に献げなさい。」と語っています。このことは、とても大事なことです。イエス様の救いにあずかる前、私たちは死んでいたのです。それが自分中心的な考え方、生き方であり、それは神の前に罪を犯していることであり、その罪ある生活は、結局のところ死だからです。そうした中から救い出してくださったのが主イエス様なのです。こうしたことで解るのは、わたしたちの人生は、神様に救われて、神様のために生きていくように導かれているということです。これは、イエス様がわたしたちを死から生かし、わたしたちを用いて、神様の栄光を表そうとされていることなのです。だから、神様に自らを捧げて、今年も生きていきましょう。
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by higacoch | 2016-01-16 16:23 | ローマ

2016年1月3日

「与えられた賜物をどうするのか」 申命記26:10-11、ローマ12:6-8
 
 皆様、あけましておめでとうございます。新しい年の最初の主日に、皆様と共に礼拝を捧げることができたことを、心から嬉しく思います。今年2016年は、教会標語として「恵みによって仕える」を掲げました。また主題聖句として「与えられた恵みによって、それぞれが異なった賜物を持っています」を選びました。今年は神様の恵みを覚え、小さな歩みの中で、仕えることを実施していきたいと祈り願っています。
 さて、二日前の元旦礼拝で、わたしたちの教会のカテキズム(教理問答書)から「恵みとは何か」という問いとその答え「恵みとは、すべての人への神の贈り物です。わたしたちを創造し、わたしたちを慈しみ、たとえ、その資格がなくても、わたしたちを子と呼び、それが神の決意されたことなのです。」を紹介しました。「恵みとは、すべての人への神の贈り物」であり、そうした神からの最大の贈り物は、わたしたちの救い主、イエス様だと学びました。
 今日は、それに続けて学びます。皆様の中には、「賜物」と「タラントン」を同じもののように受け止めておられる方がいらっしゃるようです。しかしこの二つは違います。タラントンは日本語訳になっていず、ギリシア語のタラントンをそのまま用いています。これは「タレント」の原語で、日本語に訳すと「才能」等と訳されます。この言葉が出てくるのは、新約聖書のマタイ福音書のみ(それ以外にはヨハネ黙示録に1回)です。それ以外の使徒行伝やパウロの手紙などには一切でてきません。それに対して賜物と言う言葉は、逆に「タラントン」が出てこない箇所に出てきます。(ヨハネ福音書に1回のみ出てきます。)つまり、使徒言行録からパウロの手紙に多く出てきます。詳しく見てみますと、弟子たちに聖霊が注がれたペンテコステの出来事の後に出てきます。二つの言葉の意味をまとめますと、タラントンは生まれながらにして与えられた能力であるのに対して、賜物は天賦の才能ではなく、ある働きの中で、特に教会の中での働きの中で、その人に与えられた力と言えます。先天的なものではなく、後天的なもので、聖霊なる神様から与えられたものとして考えられます。そして、聖霊によって与えられた賜物が、どのような場所で用いられているのかを調べてみますと、それは教会との関わりの中で用いられています。
 また、賜物はギリシア語ではカリスマと言います。この言葉は私たちの生活の中でも聞く言葉です。「あの人は、カリスマ性がある」とか「カリスマに富んだ人だ」という風にです。またネットには「あなたもカリスマ性を身につけることができる」という歌い文句の本が出ているとありました。カリスマの意味を調べてみますと「カリスマとは、超人間的・非日常的な、資質・能力。英雄・預言者・教祖などに見られる、民衆をひきつけ心酔させる力」とありました。何か、集中して身につけることができるような感じですが、そうではありません。聖書の中の賜物―カリスマは、特に教会の活動の中で語られていて、聖霊によって与えられた賜物で、実利的な仕事や趣味で発揮されるためのものではありません。パウロが言いますように、教会の活動のために与えられる力であり、具体的に言うのなら、パウロが、今朝の箇所で語っています預言する力、奉仕する力、教える力、勧める力、施しをする力、指導する力、慈善をする力です。キリストの体なる教会の成長のために働く力、それぞれのキリストの体に仕える働きであり、それぞれの奉仕力といったところでしょう。このように単独ではなく各人が組み合わされての仕える力なのです。教会の成長のためにというのは、教会員の増加とか献金収入の額のアップ、教会の勢力の増強ではありません。教会の中で、弱い人、小さい人が大事にされ、その人を中心として作り上げられるキリストの体の成長なのです。パウロの言葉を借りれば「キリストの体の分裂が起らず、各部分が互いに配慮し合っていることです。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(Ⅰコリント12:25,26)ということです。つまり、教会の一人一人が大切にされる愛が実践されているキリストの体になることなのです。人間的な数字の増加ではなく、交わりの愛の深化なのです。
 今朝の説教題である「与えられた賜物をどうするのか」という問いへの答えは、キリストの体なる教会の霊的な成長のために用いることです。自分のために、自己中心の考えによって賜物を用いるのではなく、キリストのために、キリスト中心の信仰によって用いるのです。賜物をキリストの体なる教会の成長のために用いるのです。
 今朝、この後に長老の按手・就任式を行いますが、一人の姉妹に聖霊が与えられたのは、教会の人に仕える働きのためなのですから、その長老の就任を共に喜びたいと思います。今年は、それぞれが頂いている賜物を活かしていく歩みを祈りつつ、小さな歩みをしていきましょう。
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by higacoch | 2016-01-09 16:29 | ローマ