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2015年12月27日

「先立って進む光」   詩編27:1-6、マタイ福音書2:1-12
                               
 皆さんはロシアの作家、ドストエフスキーの小説を読まれたことがおありでしょうか。私は好きで「白痴」「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」など何冊か読みました。その中の「カラマーゾフの兄弟」に一段と引きつけられる箇所があります。それは「大審問官」と言う小見出しの所です。では、どうしてかと言いますと、そこにキリストが地上に降りて来られたという場面があるからです。時は15世紀、ある町にキリストが現れます。町の人々は、すぐにキリストだと気づきます。そして人々はキリストの周りに集まってきます。そこに幼い頃から目の見えなくなった一人の老人がキリストの前にやってきて「主よ、わたしをお癒しくださいませ。あなた様を拝むことができるように」と叫ぶと、たちまち目から鱗でも取れたかのように老人は主の顔が見えるようになりました。その後キリストが寺院に行きます。そこに少女を亡くした母親が葬儀のために棺を運んできました。するとある人が「あのお方は、娘を生き返らして下さるぞ」と叫んだのです。そこで母親はキリストに懇願しました。キリストは、静かに棺に近づき、「タリタ、クミ」(起きよ、娘)と言われました。すると、娘は花でいっぱいの棺から起き上がり、びっくりしたような眼で周りを見渡しました。その様子をじっと見ていた大審問官がいました。(審問官は、ある人物が、正統な教会の教えを説く者か、異端の教えを説く者か、裁判を行う裁判官で、大審問官は裁判長です。)彼はこの出来事の後にキリストを捕まえて牢に投げ込みました。夜更けてから、一人だけで、暗闇の中に明りをもってやってきて、牢屋のキリストの顔をじっと見てから審問しました。「お前は、イエスなのか、イエスなのか」返事はありません。そこで、大審問官は「返事をしないがいい。黙っておるがいい。お前は、何も言えるはずがないではないか。わしにはお前の言うことが、あまりにもよく解りすぎるくらい解っている。それにお前はもう昔に語ってしまったこと以外に、何一つ付け加える権利さえ持っていないのだ。なぜ、お前は、わしの邪魔をしに来たのだ」と言いました。さらに「お前はわしらの邪魔をしに来たんだろう。それはお前自身でも解っているはずだ。」また「おまえが、本当のイエスか、またにせ者か、そのようなことは、どうでもよい。とにもかくにも、明日は、お前を裁判にかけ、火あぶりの刑にしてやる。…」と言うくだりが、とても有名なのです。
 「お前は、わしの邪魔を、しに来たのだ。」、「お前は、わしらの邪魔を、しに来た」こうしたことで当時のカトリック教会を批判しています。15世紀は教会が権力を誇った時代でした。教会は、聞くよりは、力によって聞かせる時代であり、仕えるよりは、抑え支配する時代でした。キリストが現れても、キリストが邪魔だと決めつけ、キリストを殺す時代でした。既に、教会の権力構造ががっしりと形作られていた時代でした。もうキリストを必要としない時代となっていたのです。だから、キリストは邪魔でした。またこの時代は異端者をよく殺した時代でもあります。マルチン・ルターの100年前に、宗教改革を推進したヤン・フスという神学者は審問を受けて、異端者と判決を受け、火あぶりの刑にされました。また、聖書翻訳者のジョン・ウィクリフもラテン語の聖書を英語に翻訳し普及させようとし、宗教改革者の先駆者と呼ばれました。彼は英語訳の聖書について、こう言いました。「聖書は人民の、人民による、人民のための統治に資するものである」と。この言葉は、リンカーンによって引用されて有名になりました。このウィクリフは、15世紀以前に亡くなっていましたが、彼の遺体は墓から掘り出されて、焼かれ、その骨は川に投げ捨てられました。ドストエフスキーは、当時の権力を誇った教会こそが、真実にキリストが必要だと言いたかったのです。
 さて、今朝の箇所では、上から光が照り、学者たちを導いています。その光はある時点から後方に回り、学者たちの後についていったりはしません。星の光はいつまでも学者たちの先にあって、彼らを導きました。教会にとって、光は大事な導き手であり、行くべき道へと導いているのです。教会にとって、光はとても大事で無くてはならないものです。光は、あの2千年前の、あの一回だけ、輝いたのではありません。今も輝いているのです。その光は、神の言葉、キリストの言葉です。教会が、キリスト教会として歩み続けるには、キリストの言葉が必要なのです。キリストの光が、邪魔だと決めつける教会こそ偽りの教会です。
 私たちの教会は、長老教会、改革派教会とも呼ばれます。そう呼ばれるのは、わたしたちが、御言葉によって常に改革され続ける教会だからです。もうこれでいいという、来上がった教会であってはなりません。常に、御言葉によって改革されなければなりません。教会は時代的な、政治的な、価値基準によって改革されるのではありません。今も生きて働かれているキリストの霊によって生かされていかなければならないのです。今でも、神は、我々に先立って進まれ、キリストの御言葉によって、導いてくださっています。このことをしっかりと信じて、新しい年を迎え、主を見上げて歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2015-12-30 14:45 | マタイ

2015年12月20日

 「神は我々と共におられる」 詩編46:2-12、マタイ福音書1:18-23
                             
 皆様と共に、クリスマス礼拝を捧げることができますことを大変嬉しく思っています。また、今日ここに来ることができなかった方々も、心をこちらに向けて礼拝を覚え、祈りに覚えてくださっていると信じます。体の不調のために自宅や病院におられる方、また高齢でどうしても来ることができない方々もおられます。そうした方々にも神様からのクリスマスの祝福がありますように祈ります。
 さて、今朝与えられたマタイ福音書の箇所は、クリスマスの時によく読まれます。なぜなら、イエス様のもう一つの名前が記されているからです。それは、インマヌエル、「神は我々と共におられる」という意味です。「神様は、わたしたちみなと共に、おられる」というのは、ここにいるみなという意味ではありません。またキリストを信じる者たちだけと共におられるというのでもありません。みなと言うのは、すべての人と共におられるという意味なのです。今イエス様を知っている人、信じている人だけではなく、今は信じていない人も含まれます。この世界にはいろいろな人がいますが、神様は、みなを愛しておられます。だから一緒におられるのです。神様が、みなから離れたり、見捨てたりされることはありません。ただ、そのような神様を知っている人は幸せだとわたしは信じています。
 今朝の箇所に、一人の人物が描かれています。その名はヨセフ、イエス様の母マリアの婚約者です。聖書はこのヨセフを「正しい人であった」と記しています。当時のユダヤでの、正しいという基準は、ユダヤの戒め、ユダヤの律法を順守することでした。現代に置き換えて考えてみますと、法律に順じて、法を犯さない市民といったところでしょう。こうした人は昔も今も多くいらっしゃいます。私は以前、小田急線沿いのある丘の上の教会に仕えていました。この地域は学歴の高い教養のある人々が多く、キリスト教にも理解あり、音楽家、芸術家、大学教授らが住んでいる地域でした。では、教会にとって伝道しやすい地域なのかといいますと、そうではありませんでした。それは教養と信仰は、違うと言うことでしょう。別のいい方をするなら、教養がかなりあっても、信仰を求めて生きるかというと、それは違うのです。自分の教養、知識、知恵を信頼して、信仰に向かわないのです。教養があればあるだけ、自分の生活の領域に固執し、そこを越えて生きようとしないのです。善良な、教養がある市民、つまり正しい人です。
 ヨセフも正しい人でした。ですから、律法を破れない、常識的な人でした。その彼が、人間的に辿りついた結論は、胎児を宿した婚約者マリアとの関係を、秘かに切ることでした。そうしようとしていた時に、主の天使が夢に現れて「恐れずに、婚約中のマリアを迎え入れなさい。マリアの胎の命は、聖霊によって宿ったのだ」と語りかけました。私は、この声を聞く前も、ヨセフは正しい人として精一杯考え、行動しようとしていたと思います。そんなヨセフが声を聞いたのです。これまでにはなかったことでした。その声を受け入れ、声(神)に従う道を歩み始めました。こうして彼は信仰の道を歩み始めていました。信仰とは、人間の教養や知識、正しさの延長線上にあるのではありません。どんなに学問を深く積み上げたとしても、その頂点に信仰があるのではありません。そうではなく、学歴もなく、知識もなく、知恵もなくても、信仰が与えられることがあります。それは、どうやって与えられるのでしょうか。それは実に簡単です。人間以外からの声に、天の声、神の声に聞く時に与えられるのです。
 クリスマスは、イエス様の誕生日であり、そのイエス様のもう一つの名は、神様の愛を示しています。神様が、あなたと一緒にいてくださる、というものだからです。ユダヤでは、名前はその人の本質を表しています。(だから、信仰者は祈りの最後に、いつもイエス様の名によって祈りますと言います。これは、イエス様の力や、イエス様がして下さると信じて祈っているのです。)イエス様の別の名前インマヌエルは、神様は私たちと共におられる、私と共におられる、私を見捨てないと言うことです。現代は寂しさを抱えている人が多くいます。親に見捨てられている子ども、人間社会から見捨てられたと感じて引き籠っている若者、さらに一人暮らしで誰とも話をしていないという孤立高齢者。そして、もしあなたも自分は孤独だと心の中で叫んでいるのならあなたにも、神はあなたのインマヌエルだとおっしゃっておられます。ですから、クリスマスは「自分は一人、孤独だ」と言っている人に対する神の愛が現わされた日でもあります。「あなたはひとりぼっちじゃない。私が共にいるよ」と声を掛けてくださった日でもあるのです。クリスマスは、これが現実となった日であります。
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by higacoch | 2015-12-26 17:41 | マタイ

2015年12月13日

「来るべき方」    詩編113:1-9、マタイ福音書11:2-19
                            
 皆様と共に、アドベントを過ごし、いよいよ来週はクリスマス主日を迎えます。ここに置かれたクリスマス・クランツにろうそくの火が3本灯りました。1本目は希望の光、2本目は平和の光、3本目は喜びの光です。そして、来主日の4本目の光は愛の光です。ヨハネの手紙一の4章9節以下にこうあります。 「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
 クリスマスは、イエス・キリストがこの世に誕生し、神御自身の愛が地上に現れた日です。このイエス様をいち早く世に知らせたのは、洗礼者ヨハネでした。ヨハネは自分の弟子たちに、この方こそが「神の小羊」、メシアであるとはっきりと示しました。また人々にわたしの後から来る人は、メシアであるイエス様だと指し示し、さらに人々の前でイエス様がメシアだと確信をもって説教しました。そんなヨハネのその後については、聖書には詳しく記されていません。しかし今朝の聖書箇所にはその彼の晩年の様子が記されています。
 ヨハネは、ユダヤの領主であったヘロデ王に捕えられ、牢屋に投げ込まれていました。彼自身いずれ殺されるという覚悟はできていたでしょう。そのような獄の中で死を待つ前に、彼は深い問いに襲われ、苦しみました。それは「あの方は、本当に、来るべき方、メシアなのか」というものでした。どうしようもない不安であり、彼の脳裏から離れませんでした。彼は獄にいましたが、弟子たちからイエス様のことを聞いていたでしょう。それで恐れと不安が消えたかと言いますと、消えませんでした。否、むしろそれまで以上に不安を感じて、追いつめられたのでしょう。イエス様は、彼が想像していた「来るべき方」だとは違っていたようです。それで、彼のイエス様への確信はますます揺らいでいったのです。
 その揺らぎから、彼はある行動にでました。弟子たちを遣わして、当のイエス様にダイレクトに「あなたが、来るべき方ですか」と聞いたのです。そして、それに対するイエス様の答えは「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くな
り、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしに躓かない人は、幸いである。」というものでした。
 ここでイエス様が言われたことは、伝道を始められた最初の時期に、故郷ナザレで語られた「目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、貧しい人に福音を告げ知らせるために」とほぼ同じでした。このことを考えると、イエス様が告げ知らされたことは最初から首尾一貫していました。イエス様は、ヨハネの問い「あなたが来るべき方なのですか」に、最初からと同じように、目の見えない人、足の不自由な人、弱い人、貧しい人に福音を伝え、そのような方々と共に生きていること、今までと変わらないことをしていると答えられたのです。何か偉大なるしるしを見せて、ヨハネに答えたのではありません。「私が今までしたことを、今もしていることを伝えなさい」と告げられたのです。
 今はアドベントです。これは二つの期間を表し、一つはイエス様のこの世での誕生を待ち望む期間であり、もう一つはイエスの再臨、終わりの日を覚える期間です。その終末を覚える時、わたしたちは自然と自分自身の終わり、死を考えます。そして、それぞれに何かの不安が生じます。まさにヨハネの不安です。わたしたちは死を意識し始めた時に、これまでの歩みを振り返り、そして自分は本当に救われるのだろうかという不安に襲われます。もっと特別なことをすべきではないか、あるいは、これまでとは違った歩みをすべきなのかと迷います。この答えは、今朝のイエス様の答えに見出すことができます。今まで大事にしてきたことをしていくことだと教えられます。イエス様がヨハネに伝えたように、またイエス様ご自身もそうしてきたように、「これまでしてきたように、これからもしなさい」と言われるのです。
 イエス様は最後に「わたしに躓かない人は幸いである」と言われました。イエス様から目を離して生きる時、人は躓くのであって、躓かないためにはイエス様を見つめて生きていくことが何よりも大事であり、幸いを得る原点なのです。このことを覚え、「イエス様こそ、来るべき方」だと信じて、与えられた人生の歩みをしていきましょう。
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by higacoch | 2015-12-19 17:48 | マタイ

2015年12月6日

「隠されていた計画」 イザヤ59:12-20、ローマ16:25-27
                              
 今からもう40年も前のことですが、よく覚えています。神学校に入学した年のある授業で、一つの宿題が出ました。「来週までに、『わたしの福音』という題で、レポートを書いてくるように」。「わたしの福音」この宿題に私は四苦八苦しました。そんな中で同級生の一人は、「わたしの福音」というテーマは、誤解を生むので良くないと、長々と批判を書きました。「福音」とは、聖書の「キリストの福音」以外にはないのだから、「わたし」という個人の福音はない、このタイトルは誤解を生むというものでした。今朝の聖書箇所を見ますと彼の批判が的確であったと解ります。パウロは「わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教」(25節)と言っています。まさに、「わたしの福音は、イエス・キリストについての宣教、これ以外にはない」と言っています。パウロが書いた手紙は、15章で終わっているという説があり、後の16章は他の人物か、ある集団(教会)が付け加えたものではないかと言われます。しかし、私はそう思いません。パウロは、手紙を書き終わってしまいましたが、どうしても付け加えたかったのです。それが16章のお世話になった友への挨拶であり、どうしても最後の最後に言いたかったことを書いたのです、「福音はイエス・キリストの福音なんだ」と。
 パウロはこの福音は、「世々に渡って隠されていた。」と言っています。では、完全に隠されていたかと言いますと、そうではありません。神は、時代時代に、神の言葉を告げる預言者を遣わし、彼らは神の言葉を語りました。そうした中で、隠された神の計画が知らされていきました。ですが、人々は預言者の言葉を聞かず、彼らを迫害し、牢屋に入れ、殺害したりしました。こうしたことで、福音の預言が隠されてしまう結果となりました。しかし、歴史の中で預言者の言葉が編集され、「聖書」(旧約聖書)が編纂されました。こうして神の言葉が読まれるようになり、預言されていたメシア出現が再び知らされていきました。イザヤ、エレミヤの預言です。そして預言の言葉通りに、イエス・キリストが誕生されました。こうした歩みは、神からの行動であり、人間の側の動きではありません、父なる神の一方的な思いがあり、神の愛が現わされたのであり、まさに啓示なのです。
 このことはヨハネ第一の手紙4章9節以下に記されています。「 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」。
 だから、パウロは言うのです。「今や」神の計画は現わされ、すべての異邦人に知られるようになりました、と。この福音は、ユダヤ人だけのものではありません。ギリシア人もローマ人も、さらに地球に住んでいるすべての人に、知らされるべき福音なのです。このイエス・キリストの福音から漏れる人はいません。すべての人が救いの対象です。どんな人も、どんな肌の色も、障がい者も、病気の人もです。
こうしたことを教えられる時、わたしたちは、神の一方的な導きにより、神の恵みを頂いていることが解ります。神に導かれ、イエス・キリストの福音を聞き、イエス・キリストの救いを、先に知らされています。イエス・キリストの福音を聞いても心に受け入れられない人がいます。また一度もイエス・キリストの福音を聞いていない人もいます。そうであるなら、わたしたちは、先に救われ、イエス・キリストの福音を知り、生かされていることを覚えて、そうした人たちにイエス・キリストの福音を知らせていく務めがあるのです。このことを覚えて、隣人に仕えて、福音を伝えていきましょう。
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by higacoch | 2015-12-12 12:38 | ローマ